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金曜日はピアノ


3 ベージュのキャンバストート



 先生が貸してくれたラジリテーは終わり、クローゼットの奥から探し出したソナチネを弾いている。遅く帰って来た日には消音機を利用して、ただひたすら練習を続けた。ツェルニーはまだ、見つからない。

 アップライトのピアノに、部屋へ入る妹の影が映ったのを合図に練習の手を休める。振り向くと、彼女は遠慮がちに私のそばへ寄ってきた。多めの黒い髪は長く真っ直ぐに伸び、高い位置でひとつに結わいている。
「お姉ちゃん、麻衣香まいかも弾きたい」
「リビングに麻衣香のピアノはあるでしょ? そっちで練習しておいで」
「お姉ちゃんと一緒がいいの」
「じゃあ、少しだけね」
 座っていた椅子に彼女を乗せ、机にあるものをピアノの前へ移動させ隣へ座る。麻衣香は嬉しそうに自分の練習曲を弾き始めた。すると、音を聴きつけたもう一人の妹も部屋へやってきた。
亜衣香あいかもー!」
「おいで」
 麻衣香よりも二つ年下の亜衣香の小さな手を取る。彼女は麻衣香と同じ、黒く真っ直ぐな髪を耳の下でふたつに縛っていた。

「お姉ちゃん、ピアノの先生優しい?」
「うん、優しいよ」
「麻衣香もお姉ちゃんと一緒のとこ行きたいな」
「ここからとっても遠いんだよ。それに、急にやめたら麻衣香のピアノの先生だって寂しがるでしょ?」
「そうかな」
「そうだよ」
 上手く弾けないと乱暴に鍵盤を叩く亜衣香を、麻衣香が強い口調でたしなめた。喧嘩になりそうだった妹たちは、リビングから聞こえた声に反応し、弾くのを止めて顔を上げた。
「ママが呼んでる。ごはんかなあ。今夜はエビフライだって言ってたよ。亜衣香の大好物!」
「麻衣香も大好き。お姉ちゃん、行こう」
 私の腕を強く引っ張る小さな手を包み、そこから外した。
「私は何もいらないから、麻衣香と亜衣香はリビングへ行きなさい」
「どうしていらないの? エビフライ嫌い?」
 首を傾げた亜衣香と麻衣香の瞳が私を捉えた。母親に似ている長い髪が同時にさらりと揺れる。
「友達と、おやつ食べ過ぎちゃったの」
「たんだいの?」
「そう」
「ずるーい」
 声を揃える幼い柔らかな頭を、笑いながら交互に優しく撫でた。
「それにもう少し練習したいの。お母さんにごめんねって言っておいてくれる?」
「わかった」
 椅子から飛び降りた二人は部屋の出口へと駆けていく。ドアのそばで麻衣香が振り向いた。
「お姉ちゃん」
「ん?」
「どこにも、行かないよね?」
 麻衣香は亜衣香と手を繋ぎ、不安げに私を見詰めた。髪の色と同じ、黒い瞳で。幼いからこそ敏感な胸の内を持ち合わせている妹に、悟られないよう穏やかに答える。
「……行かないよ。大丈夫だから、早く食べておいで」
「うん!」
 返事をした二人は私の部屋を勢いよく出て行った。色違いで着ている、夏に咲く大きな花柄模様のワンピースが、目に焼き付いたまま離れてはくれない。


 眠りたい。早く、眠りにつきたい。
 何年も何年も毎晩そう思いながら、冷たいベッドで頭から布団を被り目を閉じた。耳の後ろから何かが聴こえる。ピアノの曲や、母の懐かしい声、家族で行ったお気に入りの遊園地、私たちへかける父の優しい言葉。毎回違うその音は、いつまでも私を眠らせずに苦しめた。閉じた瞼に力を入れて、きつく奥歯を噛み締める。
 大丈夫。眠れば暗闇が私を連れて行ってくれる。何もわからなくしてくれる。そして気付けば朝になっている。瞼の裏に現れては消える小さな光を凝視しながら、そう願い続けた。

 先生から借りた楽譜で練習を始めた時、それは眠る前の儀式にとてもよく似ていることに気がついた。ピアノをやめてから、数えるほどしか触れてはいなかった鍵盤を叩くと、思い出した感触はあっという間に私を暗闇へ誘い込み、何も……わからなくした。


 学校帰り、電車に揺られながら座る私の膝の上には、楽譜が二冊入ったベージュのキャンバストート。通い始めて二ヶ月になるレッスン。あれから一度も金曜日に雨は降っていない。
 レペットの赤いバレエシューズの先を擦り合わせ、窓の外を流れる景色を目で追いながら、私は彼に初めて逢った日のことを丁寧に思い出していた。
 あの黒く小さな門が躊躇いも無く開いたのと同じように、焦がれながらも触れることの出来なかったピアノへと、簡単に私を連れ戻してくれた先生の音色を。

 五月の終わりの緑は初夏の匂いを余すことなく漂わせ、住宅街へ入った時から私の鼻先へ軽やかに舞い込んだ。路地へ入ると、遅咲きの小手毬が頭をしならせ、細かい花を乾いた小道へ振りまいている。
 玄関先で耳を澄ます。今日はソナタが聴こえる。
 ピアノが置かれた部屋は防音室になっていて、音は僅かに外へ漏れ出ているだけ。雨の日に私の耳へ流れてきたのは、先生が部屋の扉を開けていたから届いたもので、それは不思議な偶然だった。

 彼が弾く曲をずっと聴いていたくて、呼び鈴を鳴らす手に迷いが起こる。待たせるのは迷惑だからと思い切って押すと、当たり前にピアノの音はそこで止み、暫くして彼がすりガラスの引き戸を開けるのだった。
「どうぞ」
「お邪魔、します」
 レッスンは今日で六回目。彼に会うのは、七回目。
 いつも交わされるこの言葉は、初めからずっと変わらない。廊下に香る微かな匂いも、彼のきちんとした身なりも、綺麗な指も。私へ向ける、離してはくれない視線も。

 閉じられた部屋の中をピアノの音で埋め尽くしながら、レッスンの度に二人の関係だけは緩やかに近付いて変わっていくのを、お互いの肌で感じ取っていた。




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