BACK TOP NEXT

金曜日はピアノ


2 わたしの先生



 雨で濡れてしまったサンダルは素足にべたついて引っかかり、急ぎたい私をもたつかせた。ストラップを無理に引っ張り、踵を外し、やっとのことで玄関先へ揃える。意外と広さのある三和土には、私の他に彼が脱いだ男物のサンダルしか置かれてはいなかった。
「お邪魔、します」
 妙に響いた自分の声に驚く。足裏に触れる、ひやりとした廊下の板張りは、薄暗い中でも美しく黒光りしているのがわかった。上品な香りが鼻先へ届く。何の匂いだろう。
 男の人は私を一度も振り向かず、さっさと歩いてどこかの部屋へ入ってしまった。

 他に物音はしない。話し声も聞こえない。彼と二人きりなのだという確信が、急に私を怖気づかせた。
「……」
 本当にピアノを弾いてくれるのだろうかと、不安に駆られ始めた私の耳に、外で聴いたものとは比べ物にならないほどの大きく美しい音色が届いた。
 廊下を駆け出し、音が流れ出ている部屋の入り口で足を止める。ドアが開け放たれた、廊下と同じ板張りの部屋には、奥行きの狭いグランドピアノがひとつ。二人掛けのソファがひとつ。楽譜の入った棚がひとつ。彼が弾き続けるピアノの音は、絶え間なく部屋の隅々まで広がり、ひしめき合い、私を包み込んでそこから動けなくした。持っていた鞄を足下へ落とし、空いた両手を合わせて強く握り締める。

「気に入らなかった?」
 曲が終わり、振り向いた彼に言われて、自分の頬が濡れていたことに初めて気付いた。
「いえ、違います」
 俯き、指で手早く拭い、お辞儀をした。
「とても素敵でした。本当にありがとうございました」
 素敵だった。他には何の言葉も思い浮かばないくらい、素敵だった。

 顔を上げると、椅子に座る彼は、まだ私を見詰めていた。
 紺色のVネックのニットから、白いボタンダウンのシャツが覗いている。首元のボタンは一つだけ外されていた。ベージュのチノパンにはきちんとアイロンが掛けられ、まだ何も知らない彼の性格を私へ教えているようだった。きっと年上なんだろうけれど、若くも見える。
 表札に書かれていたものを頼りに、名前を呼んだ。
「あの、みやま、さん」
「はい」
「ピアノを教えていただけませんか」
 私、何を言っているんだろう。もう一人の冷静な自分を置き去りに、抑えきれない衝動が私の言葉を押し出した。
「……僕に?」
 眉を寄せた彼は、玄関で私を見かけた時と同じ顔をした。
「いつか、この曲を弾いてみたいと思っていたんです。でも小学生の時にやめてしまって」
「どうしてやめたの」
「引越しをしたんです。それで」
 咄嗟に嘘を吐いた。一度も引越しなんてしたことはない。
「僕はピアノ教師でも何でもない、普通の会社に勤めるサラリーマンだよ」
「かまいません」
「ちゃんとしたピアノ教室に通った方がいいと思うけど」
「……深山さんに教えていただきたいんです」
 暫く沈黙した後、彼は大きな溜息を吐いて、ピアノの蓋をそっと閉じた。さっきまで鍵盤に乗せていた人差し指で黒いピアノの蓋をトントンと叩き、考えながら仕方無さそうに口を開いた。
「どこまでやったの? 練習曲は?」
「ごめんなさい。あの、下手なんです」
「いいからどこまで? 小学生でやめたって言うと、ブルグミュラーかソナチネあたり?」
「いえ、ツェルニーです」
「何番?」
「三十番の終わりの方と、バッハのインヴェンションとシンフォニアを併用していました」
「……ふうん」
 意外だという目をこちらへ向けて、彼は続けた。
「真面目に練習してたんだ。何年生まで?」
「五年生の終わり、です」
「それきり弾いてないの? ピアノは?」
「ほとんど触ってません。ピアノはまだ家にあって、一応調律はしてもらってます」
「だったら問題ないけど、僕は人に教えたことはないから、どうなるかわからないよ?」
「はい」
 もしかすると教えてくれるのかもしれない。今のやり取りに期待を乗せ、弾んだ調子で返事をする。いつの間にか嬉しさに顔が綻んでいた。そんな私とは反対に、男の人は身体ごとこちらを振り向きながら、不機嫌な表情を浮かべた。
「ねえ、ちゃんと聞こえた?」
「え?」
「僕の言ってる意味だよ」
 低い声に身体が緊張で強張る。
「……どうなるかわからないって、言ったんだけど」
 私を見上げる睨むような眼差しに胸が震えた。怖い、というのとは違う。言葉の意味に気付いてしまった方がいいのか、知らない振りをしていた方がいいのか……。迷う私を拒否した唇が、考えるよりも先に動いていた。
「大丈夫、です」
「あ、そう」
 ふいと横を向いてピアノの上にあった楽譜を手にしながら、彼が独り言のように呟いた。
「金曜の六時。それしか時間は取れないから」
「いいんですか?」
「楽譜はまだ持ってる? なければ貸すけど」
「バッハはあります。ツェルニーはもう、ないかもしれない」
「いきなりインヴェンションは難しいだろうから少し戻そうか。ここで待ってて」
 ピアノの椅子から立ち上がった彼は部屋を出て行った。

 足音が遠ざかると同時に大きく深呼吸をした。美しく光るピアノには私の姿が映っている。
 見ず知らずの、それも男の人にこんなことを頼む自分がいるなんて、まだ信じられない。けれど私は、自分の奥にひた隠しにしていたものを、彼の奏でる音とその瞳の奥に見つけてしまった。……見つけたような気がした。だからと言って、これ以上知りたいわけでもない。ただ、それだけ。

「捨てたと思ってたのに、まだあった」
 苦笑しながら戻ってきた彼は、古ぼけた楽譜を手にしていた。
「指慣らしってことで、ラジリテーの三曲。簡単だし、これなら感覚がすぐに戻るよ。その後ツェルニーへ移行しよう。上手く弾けなくてもいいから練習してきて」
「ありがとうございます」
「最終的にベルガマスク組曲でいいの?」
「そんなにずっと、いいんですか?」
「さあ。君の頑張り次第だけど」
 大丈夫だと言う同意を得た彼は、私を試すように言った。
 この人はなぜ、私をここに招き入れてくれたんだろう。初対面でピアノを教えて欲しいなんて、普通はそんなこと受け入れられない。けれど、ただの興味本位というなら、それはそれで良かった。たとえこの先、求められたとしても。
「あの、お月謝は」
「いらない」
「でも」
「本当にいらないよ。僕は教師じゃないんだし、それに」
 すぐ隣に立っていた彼は、戸惑う私の指を自分の手でそっと取った。余りにも自然で、抵抗することなど思いつかないくらいに。
「責任持てないからね。君の指に変な癖がついたとしても知らないし、さっき言ったように、どうなるかもわからない」
「……」
「それでも構わないなら来週から来ればいいし、嫌なら来なくていい。貸した楽譜はいらないから、君がそのまま処分すればいいよ」
 名残惜しさなんて微塵も無く、彼は私の手を離す。触れられた指先は、残された熱を感じていた。

「ああ、そうだ」
 微かに聴こえる雨音だけが二人の間を埋め尽くしている。薄暗くなった部屋の明かりを点けると、歩き出した彼はピアノの上に置いてあるものを取り上げた。
「名前。ここに書いて」
 促された私はそこへ近づき、彼が差し出した革の手帖へ、池森苑子と記した。
「いけもり、そのこ?」
「はい」
 名前を呼ばれ、奪われそうになった何かを隠しながら頷く。
「深山さんは、」
「さとし」
 先生は私が返したボールペンを左手で持ち、自分の名前を書いた。

 ――深山聡。今日から私の、先生。




BACK TOP NEXT

Designed by TENKIYA