今日は肌寒い。
梅雨が明けそうだと思っていたのに昨夜から雨は止む事なく降り続いている。俺はその日制服のシャツを長袖にし、登校した。
次の授業は移動教室だ。教科書を持ち、廊下へ出る。
美緒と別れてから、いつものことだけど俺は告白されまくっていた。同じ学年だけでなく、後輩、三年生の先輩からも告白された。もう誰に言われたんだかすらもよくわからなくなりつつある。いつもだったら、一週間くらい間を空けてからすぐに次の彼女を作るんだけど今回は何故かそんな気になれなかった。
梅雨時だからか? あんまりテンションあがんないし。美緒に言われた事が気になってる、って訳でもないんだけど。
科学室に入ると適当に座った。
というか、俺はまた廊下で女の子に声を掛けられてたから教室に入るのが遅くなって、席も空いてる場所が少なかった。というわけで今俺は、あの鈴鹿さん、彼女の目の前に座っていた。五人ずつの班になって一つの机に座っている。
あの屋上の日から、彼女とはほとんど口をきくこともなかった。ちらりと彼女の方を見ると、黒板を向ききちんとノートをとっていた。姿勢も良く、何かちょっとした仕草に惹きつけられるものがある。だからか、しばらく彼女を見つめすぎていたのかもしれない。
彼女がこっちを見た。
やべ、見すぎたかな。すぐに目を逸らすけど何故か今度は彼女が俺から視線を外さない。もう一度彼女を見るとやっぱり俺を見ている。な、何だろう。え、ちょっと待て。怒ってるのかな、あんま見ないでとか? いやいやそれは訳わかんねーよ。
彼女は俺を指差した。正確に言うと、俺の頬杖ついた手首を指差していた。
「取れそうだよ」
彼女に言われ自分の手首を見ると、ワイシャツの袖のボタンが取れかかっている。
「あ、」
何だ、これのことか。俺を見てたっていうより、俺のボタンを見てたわけか。
彼女は自分のポケットを探り、何かを取り出し俺にちらっと見せた。何だろう。ああ、針と糸が入ってるやつか。にこっと笑うとまたノートを取り始めた。
実験になり立ち上がると、彼女が声を掛けてくる。
「あたしもさっき取れちゃって、自分の直したばっかりなんだ。吉田くんがよければ、つけるよ」
「え……」
「別にそのままでいいなら構わないし」
彼女は落ち着いた声で言った。俺に近付く女の子達は、こういう言い方はしない。何だか新鮮だった。
「じゃあ、頼むよ」
「わかった。授業終わったらここに残ってくれる? その場で付けるから」
「う、うん」
何だよ俺。何緊張してるんだ?
「栞、どうしたの?」
授業が終わり、彼女の友達が二人、俺達の傍に寄ってきた。
「吉田くんのシャツのボタン取れそうだから、つけようと思って。ごめん、ちょっと残るね」
「うん、わかった。お先にー」
彼女の淡々とした言い方は、本当に何というか、さっぱりしたもんだった。だからなのか変に騒がれず、普通にこうして二人でいる。
「何かごめん。友達、用あった?」
「ううん。全然大丈夫。動かないでね?」
ワイシャツの袖口だから脱ぐわけにもいかず、手首を彼女に向けて出して縫ってもらっている。
何だろう。別にボタン付けてもらってるだけじゃんか。なのに、何だか恥ずかしかった。彼女はさっきの受け答えと同じ様に、淡々とボタン付けをしている。俺と二人でいるという事も、別に何とも思っていないようだった。
けど俺はそれとは対照的に、そわそわして落ち着かない。彼女の針と糸を持つ手をじっと見たり、たまに近付く髪が、彼女のシャツにぱらりと落ちる音とか、彼女の椅子が軋んで俺の手首に伝わる振動とか……いちいち、緊張が走る。
どうしたんだろ俺。別にこんなの何でもない事なのに。今までだってあったのに。彼女といると、いつもと違う自分がいるみたいだ。この前の屋上の時もそうだったけど。俺は反対の手で頬杖をつきながら、なるべく平静を保っていた。
屋上の話を出そうかとも思ったけど、やめてしまった。彼女も何も言わない。それが余計緊張を誘っていた。
「はい、終わり」
少しの時間だったけど、やけに長く感じた。きちんと留められたボタンを見て口を開く。
「ありがとう」
「ううん。お待たせしました」
「え?」
「ほら、女の子達待ってるよ?」
彼女に言われて、教室のドアを見ると確かに数人の子がこちらをじっと見ている。
「誤解されちゃったかな? 全然何でもないのにね」
くすっと笑う彼女の表情に、何故か言葉が出なかった。
「じゃ、先教室行ってるね」
彼女は自分の教科書を持つと、足早にその場を去った。
「何でもない、よな、確かに」
独り言を言ってボタンを見つめ、俺も教室に向かった。
Copyright(c) 2009 nanoha all rights reserved.