カルボナーラとフレンチトースト    番外編

(1) お酒のせいじゃなくて




 最近少し気になっている、同じ部署の先輩を遠くから見つめる。
 彼は皆川みながわ 彰一しょういちさん。今日は少しでも近くでお話したかったのにな。随分離れた席になってしまって、がっかり。

優菜ゆうなちゃん、ほら飲んでる? 俺が次頼んであげようか?」
「ありがとうございます。でもまだ、全っ然平気ですから」
 思いっきり、作り笑いをして答える。どうしてこの先輩、こんなにくっついてくるんだろう。いつの間にか下の名前、ちゃん付けで呼んでるし。同期の子達も皆遠くの席になったから、助けを求められない。

 就職して五ヶ月。今夜は入社五年目くらいから下の、割と若いメンバーだけでの飲み会だった。
「じゃあ、次はカラオケ行こうカラオケ!」
 お店を出ると外の空気が気持ちいい。ああ、やっと解放された気分。鞄の持ち手を握り締めて、盛り上がっている皆の所へ行こうと足を踏み出すと、後ろからいきなり肩を掴まれた。
「ね、優菜ちゃんも行くよね?」
 ……またさっきの先輩、津田つださん。皆と一緒に行きたかったけど、やめた方がいいかもしれない。これ以上しつこくされたら本当に困るよ。あーもう、秋子あきこ助けて! って視線を送っても、仲良しの彼女はお目当ての先輩の所に行ったきりで、こっちには全然気付いていない。
「あの、もう遅いんで私」
「大丈夫、帰りは俺が家まで送るからさ。明日休みだしいいじゃん。ね?」
 それ、どういう意味? 津田さんは私の手首を掴んで連れて行こうとする。ちょ、ちょっと、無理無理無理! 絶対無理! 先輩とか関係なく、もうほんとにやだ。掴まれた手首を、思い切り引っ張り返した時だった。

「津田、俺もう帰るわ。企画書作んないとなんないし」
 私の真後ろで声がした。この声……み、皆川さんだ。
「何お前、明日出なの?」
「そう。工藤くどうさん、帰るなら一緒に帰ろう。じゃあな津田」
「え、おいちょっと、彰一」
「いこ」
 皆川さんは私の腕を掴むと、何か言っている津田さんを置いてさっさと歩き出した。

 夜の繁華街に、二人の靴音が響いている。歩く速度を落とした皆川さんは、私の方を向いて言った。
「ごめんね?」
「え?」
「津田ってさ、悪い奴じゃないんだ。俺と同期なんだけど」
「そんな、皆川さんが謝らないで下さい」
「あいつ工藤さんの事、気に入ってるんだよ。けど、さっきのはちょっとね。あいつ彼女いるしさ」
「そうなんですか?」
「がっかりした?」
「ええ? いえ全然。ってあ、すみません」
 今のは津田さんに対して失礼すぎだったかな。ど、どうしよう。口ごもる私を見て、皆川さんは可笑しそうに笑った。
「そっか。じゃあ心配いらなかったかな」
「いえ……でも、ありがとうございました」
「俺からもあいつに釘刺しとくから」
 お辞儀をする私を見て微笑む先輩に、お酒のせいじゃなく頬が熱くなる。
「大丈夫? ほっぺ赤いよ」
  皆川さんは手の甲で、私の頬にほんの少しだけ触れた。そこからまたさらに顔が赤くなるのがわかる。
「だ、大丈夫です」
 ほんとは全然全くちっとも、平気なんかじゃない。こんな気持ち久しぶりかも……。

 駅に着き改札を通ると、彼は同じホームに上がり私の隣に立った。昼間はまだまだ暑いけど、夜はもう秋の匂いがする。
 ホームに滑り込んで来た電車に二人で乗り込む。隣に並んでつり革に掴まり、いろんなことを話した。皆川さんも一人暮らし。休みの日はDVDを見るのが好きで、好きな映画のジャンルも私とほぼ一緒だった。
「そのDVD持ってるから、今度貸してあげるよ」
「嬉しい。すごく見たかったんですそれ」
 次から次へと話が止まらない。さっきまで飲み会の席で落ち込んでいたのが嘘みたい。

 あっという間に、私が降りる駅のアナウンスが流れた。まだ降りたくないな……。皆川さんに視線を向けると、彼はつり革を掴む自分の手首に付いている腕時計を、チラリと見た。
「今日はお疲れ様でした」
「うん。お疲れさま」
 ドアが開き、彼に会釈をしてホームへ降りる。一歩足を踏み出した後、もう一度顔が見たくて振り向くと、何故か目の前に彼がいた。
「え? あの、ここの駅でしたっけ?」
「ううん」
「?」
 鞄を手に持ちスーツのズボンのポケットに片手を入れ、私と一緒に駅の階段を下りる彼が質問してきた。
「家まで遠いの?」
「いえ、近いです。歩いて5分くらい」
「暗い道?」
「大通り沿いです」
「遅いから送ってく」
 思ってもみなかった言葉に驚いて、じっと皆川さんを見つめると、彼は私から目を逸らし、首の後ろに手をやりながら困ったような表情をした。
「あのさ、俺全然酔ってないから大丈夫だよ。普通に心配なだけだから、近くまで行ったらもうそこで帰る。明日仕事だし」
 あ、あそうか。私が警戒してるって思ったのかな。
「いいんですか?」
「工藤さんがいやじゃなければ。もうちょっと話したかったし」
「じゃあお願いします。私も……もっと話したかったから」
 私の返事に彼も照れたように笑ってくれた。どうしよう、送ってもらえるなんて嬉しすぎる。

 車も少なくなった道路沿いを二人で歩き、信号を渡る。すぐ視界に入ってきたマンション、駅から近いのが今夜はうんと恨めしい。
「ここなんです。ありがとうございました」
「ほんと近いね。これなら安心か」
「はい」
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
 皆川さんは、元来た道を歩いて行った。一度だけこちらを振り返り、見送っていた私に向かって何かジェスチャーしてる。……マンションに入れって言ってるんだ。
 彼に返事をするように頷いた後、手を上に上げてぶんぶんと振った。彼もそれに答えて、笑顔で大きく手を振ってくれている。

 もう遅いから、ヒールの音をさせないようにマンションの階段を上り、そっとドアを開けて靴を脱ぐ。けど我慢できなくて部屋に入った途端、鞄ごとベッドにダイブした。抱き枕をぎゅうっと抱き締めて、顔をこすり付ける。

 ついさっきまで隣にいた彼の、見たこと無い表情、知らなかった優しい声。ちょっと思い出すだけでも胸が一杯になって、叫び出してしまいそう……!
 ほんの少し彼の手の甲が触れた私の頬。私もそっと触ってみる。きっと昨日の私と全然違う。

 いつまでも枕を抱き締めながら、月曜日彼に言うお礼の言葉を、何回も何回もベッドの上で練習した。



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