空気は澄んで、息を吸い込むと冷気が胸の奥まで入って来そうな冷え込みの、天気の良い朝だった。
電車に乗り込むと、今日はいつもよりさらに空いていて、離れた所に木下さんが座っていた。俺も座席に座り彼女にメールをする。
『耳のフワフワ』
『うん。寒かったから耳あてしてきたの。あったかいよ』
彼女がこっちを見て、耳あてに触った。
『可愛い』
送信すると、メールを見た彼女は驚いた顔で俺を振り向いた。いいよな、可愛いくらい。昨日も直接言ったんだし。でも、彼女と目が合った途端に顔を逸らして俯き、そのまま寝たふりをした。
背中に陽が当たる。
昨日俺を好きだと言って来た彼女だったけれど、今朝も変わらず傍に座ることもなく、話しかけてくるようなこともない。いつも通りの彼女に、疑問を持ち始めた時だった。
『今日の帰り、私の降りる駅の五つ先ね』
メールが入り顔を上げると、俺を見て微笑んでる。やっぱり、夢じゃなかったのか。
昨夜いろいろと考えた。けどいくら考えても、上手い答えに辿り着けない。
ファミレスで彼女が言った言葉は、俺に何の見返りも求めてはいなかった。好きだと言ったって、今さらどうにもなるわけではないことを、彼女はわかっている。
今は……それでも俺に好きだと伝えてくれた彼女と、一緒にいたい。それだけだ。
放課後になり、帰りの電車に乗り、木下さんに言われた通りの駅で降りる。
ここで降りるのは初めてだ。小さな駅で乗り換えも無いし、別にこれと言って何もない。ここから通っているうちの学校の生徒も、彼女が言った通り見かけなかった。
先に着いていた木下さんの傍に行く。今朝していた耳あては外されていた。
「耳、つけないの?」
「うん。倉田くんの声、ちゃんと聞きたいから」
その小さな声の持つ意味に、嬉しい戸惑いを隠しながら話を逸らす。
「俺、この駅降りるの初めて」
「私も。わくわくするね」
「探検しようか」
「うん」
嬉しそうに頷く彼女の隣に並び、知らない町に足を踏み入れる。
駅前はファーストフードの店が一つと、あっという間に終わる小さな商店街があるだけだ。そこを越えると住宅街に入る。小さな路地をいくつか抜けると、狭い坂道があった。
「どうする?」
「上ってみたい」
彼女の元気な声を聞いて、俺も坂道を上る足取りが軽くなる。
緩やかな坂は途中まで来ると、突然急な勾配になっていた。気付けば彼女の気配が少し遠くにある。
「ま、って」
その声を聞き、駅で我慢が出来ずに彼女の手を取り、階段を駆け上がったことを思い出した。
他には誰もいない。そう思った時にはもう、はあはあと息を切らして坂道を俺に向かってきた彼女に、手を差し出していた。
「ほら」
「え……」
「引っ張ってあげる」
「……ありがとう」
彼女の手を引いて歩く。こんなこと、もう一生無いと思っていた。駅を降りた時は寒くてたまらなかったのに、今はマフラーを取りたいほど身体が温まっている。
坂を上りきると、知らない町が下に広がった。冬の早い夕暮れに、町の明かりがあちこちで灯り始めている。
まだ呼吸は整わない。坂を上りきったのに、手を離すタイミングなんてわからない。彼女も何も言わずに俺の手を握ったままでいる。
力をこめたら絶対に戻れないのはわかっているから、同じ力で握り続ける。強くならないように、弱くなって手が外れないように。
「……あと二回って、なに?」
眼下の町明かりに顔を向けたまま、彼女に疑問を投げた。
「あと、一日」
「明日の分、あと一回ってこと?」
「そう」
「じゃあ、また戻るっていうのは?」
「……元の私に戻るだけ」
「元の、木下さん」
「そう。こんな風に倉田くんを困らせたりしない、我侭なんて絶対言わない元の私に」
「今は違う?」
昨日から何となく思っていた、有り得ない疑問を彼女に渡す。
「違うけど、同じだよ」
振り返ると、声をかけるのも躊躇うくらい彼女の横顔は真剣だった。
「……どういうこと?」
「明日、話すね」
彼女の悲しげな声を聴き、我慢していた手に力をこめた。もう、戻れないのかもしれない。
「ね、これ」
彼女は繋いでいないほうの手で音楽を流し、鞄から出したイヤホンを片方俺に渡した。耳にはめると、流れてきたのは彼女が学校で好きだと言っていた歌だった。
「この歌すごく好き」
「うん」
「この歌ね、私ずっと好きなの」
「……」
手を繋いで同じ曲を聴き、同じ景色を見つめる。
この思いを、どこにやればいいんだろう。
日は沈み、辺りの木々は影絵の様に黒く浮かび上がる。
凍りついた色の遠くの空に浮かんだ細くて折れそうな三日月が、俺たち二人をいつものように見下ろしていた。
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