夏休みも終わり、学校が始まった。
木下さんとは、あの水族館の帰り以来、連絡も全く取っていない。林からも何の音沙汰も無かった。
駅のホームには朝から夏の光が降り注ぎ、厳しい残暑が余計身体をダルくさせる。滑り込んで来た電車から生温い風が吹いて通り過ぎた。
もしかしたら、彼女はもう乗っていないかもしれない。そう思うと、ドアが開いても足を踏み出すのが怖かった。
相変わらず空いている電車の中を見回す。正面にはいない。左側にもいない。反対側を向くと、一つ向こうのドア際に立って木下さんが俺を見ていた。
目が合った途端、身体の奥で何かが軋む。朝の光が彼女に当たり、眩しく感じた。一瞬で空気が変わった気がする。少しだけ、いつもより長く彼女に目を向けていたのかもしれない。
ホッとしたような、でもいけないことをしているような複雑な気持ちを抱えたまま、何事も無かったかのように携帯を取り出し、また彼女とやり取りをした。核心には触れようとせず、ただ淡々と、何でもないことをメールにして送った。
「倉田、ちょっと」
移動教室で授業を受けた帰り、林に声をかけられ外へ出た。校庭側の校舎の壁に寄りかかる。もう昼休みで人はいない。遠くを見つめていると、林が口を開いた。
「わかってると思うけど、俺、木下さんに振られた。遊園地で」
「……」
「好きな奴がいるんだってさ。だから付き合えないって言われた」
その言葉に胸が騒ぎ出した。
「聞いたんだよ、俺」
「何を?」
「好きな奴って誰? って」
林は俺の顔を見た。
「友達の好きな人だから、誰にも言えないんだって……さ」
俺は林から目を逸らし、足下の石ころに視線を落とす。
「……そう」
心に起った動揺を見せない為に。
「お前もさ、告られたんだろ? 田辺さんに」
「……ああ」
「何で断ったんだよ。理由は?」
「別に。今まで全然知らない子だったし。だから、」
「違うだろ」
「何が」
「お前も同じ理由で断ったんだろ?」
「え?」
林は俺の右肩を掴んで、自分に向かせるようにした。
「好きな子がいるからって、断ったんだろ」
「……」
「誰にも言えないって、言ったんだろ? その相手」
林は俺から目を逸らさない。
「お前さ、俺に何負い目感じてんだよ。気とか使われるほうが、よっぽど惨めなんだよ」
「何の話してんだか、俺にはわからない」
林から逃れようと、肩に置かれた手をどけると、今度は腕を掴まれた。
「呼んだから、ここに」
「?」
「木下さん。来るからさ、ちゃんと話してやれよ」
「……」
「俺と田辺さんはさ、わかってたんだよ。お前と木下さんが水族館ではぐれた時、田辺さんと二人で話したんだ」
「……」
「遊園地でそれぞれ告って、駄目だったら最後、一緒に観覧車乗ろうって」
「林」
「だから、もういんだよ。お前俺にずっと遠慮してただろ? 俺、ほんとは倉田の気持ち知ってた」
「!」
「知ってて、言わせないようにしてた。……ごめん」
林の言葉に茫然とした。知ってた? あの時と同じだ。林は俺に言わない。知ってて、何も言おうとしない俺を受け入れる。
「……ちゃんと言えよ?」
そう言って林は後ろを振り返る。視線の先を追うと、木下さんがこっちへ歩いてくるのが見えた。
「じゃな」
「林!」
林は俺に背を向けて何も言わずに、校舎の日陰から出て、照りつける日差しの中を歩いて行った。
蝉が鳴いている。それ以外は何の音も聞こえないような気がした。木下さんが俺の傍に来て林と同じ場所に立ち、戸惑ったように笑った。
「私、多分倉田くんと同じ事言おうとしてる」
「……うん」
校庭に目を向けると、遠くのフェンスにいくつか野球ボールが挟まっているのが見えた。空は濃い青がどこまでも広がり、あちこちに真っ白い雲が散らばっている。彼女も俺も壁に寄りかかり、俯いた。
「林って、いい奴なんだ」
「うん」
「中学も一緒でさ、部活でもあいつに一番助けてもらったんだよ」
「うん」
「いろんなことあってさ、それでも俺に一つも文句言ったことも無い」
「うん」
「俺、あいつが無理してる姿とか、もう見たくないんだ」
「……うん」
彼女の返事をする声が胸に響く。観覧車の中で聞いたそれに似ていた。
「庸子もね、優しいの。今も、行っておいでって、笑って言ってくれた」
「うん」
「でも、自分だけそんな風にはできない」
「……」
「できないの」
「……わかるよ」
足下の視界に彼女の靴が見えた。こんなに近くにいるのに、彼女の心もすぐ傍で感じるのに、言わなければいけない。
「……やっぱり、さ」
「うん、わかってる」
俺の言葉に彼女が頷いた気配がわかった。
昼休みの校内放送で流す音楽が、校舎の中から聞こえてきた。
「私、この歌好き」
「俺も」
「きっと、ずっと好きだと思う」
「俺もずっと……好きだよ」
「また、明日ね」
彼女の声が震えている。
「うん、明日」
今、彼女はどんな顔してるんだろう。俺と同じ様に、涙ぐむのを堪えているんだろうか。
「……じゃ、俺先行く」
「うん」
これで、いいんだ。思いを振り切るように、その場から彼女を置いて走り去る。
明日になれば、きっとまた同じ朝が来る。
同じ車両に乗り、遠くから挨拶を交わし、窓の外を見て同じ雲を眺める。
それは変わらない。戻る事も進むこともない。
また、同じ朝が来る。
さっきまですぐ傍にいた彼女の声を抱き締めて走った。息が、苦しい。
今までと何も変わらない筈なのに、胸が張り裂けそうに痛かった。
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