ななおさん
6 ひと夜の夢心地
「今日会ったばかりなのに、こんなことを言う僕のこと……軽蔑しますか」
彼の視線が痛くて目を伏せた。
「……軽蔑なんてしていません」
本気、なんだろうか?
「私も、同じことを思いましたから。あなたと」
まだ別れ難いと、本当にそう思ったから。
「それは僕の思いに応えてもらえる、と理解していいんでしょうか」
「……ええ」
もしかしたら、免疫の無い私は、彼の甘い言葉に簡単に引っかかっただけなのかもしれない。簡単に落ちる私は、心の中で笑われているのかもしれない。
でも、それならそれで良かった。
お見合いをして好きでもない人と結婚するのなら、その前に一度でも夢を見てみたかった。恋に近いものに浸って、肌を合わせてみたい。この人とならいいって……そう思えたから。
「そうですか」
意外なことに、彼は一瞬悲しい表情をして口を引き結んだ。その翳りに困惑する。
「ありがとう。もうしばらくしたら部屋に行きましょう。あなたの気が変わらない内に」
あとから後悔しても、もう巡り会えないかもしれない。彼の言葉を無理やり自分に当て嵌めて、自分を正当化していた。
お店を出ると、冷たい風が海の方から吹き上げた。着物の袂がパタパタとはためく。真っ暗な空に月が輝いている。
「結構寒いですね。大丈夫ですか?」
「はい。あ……」
彼が私の肩を抱き寄せた。初めてその手に触れられて……これからこの人に抱かれるんだと、頭ではなく体で思い知らされた。
曇りガラスで出来たカーブを描く横長の壁は、内側から漏れる明かりで全体がライトアップされたように見えた。身を寄せ合いながらそこを通り過ぎ、入口からロビーへ入った。
既に鍵を持っていた彼と客室に向かって進む。先ほどのガラスの壁の内側は、客室前の廊下になっていて、どこまでも温かい明かりが灯り幻想的だった。ひとつのドアの前で彼が立ち止まり、ルームキーを差し込んだ。
部屋に入ると空調が効いているのか、ふんわりとした温かさに包まれた。
ツインのベッドルームが目に飛び込む。その現実を目の当たりにして恥ずかしくなった私は、窓際へ行き、椅子に荷物を置いた。
「外、見えますか?」
部屋の中で初めて彼が言葉を発した。カーテンを少し開けて、外を見る。
「下に、国道を走る車が見えます。江の島の灯台も……」
ガラス窓に、私のすぐ後ろに立つ彼の姿が映っていた。彼は私の両肩に手を載せ、うなじに顔を埋めた。
「!」
驚くほど敏感に体が反応してしまい、大きく身をよじらせた。彼がうなじに何度も唇を押し当てている様子が目の前のガラスに映っている。
後ろから私を抱き締めた彼は、自分の方へと向き直らせた。顔を近づけてきた彼に、咄嗟に固く瞼を閉じる。いきなりこんな……どうしたらいいかわからない。
私の顎を優しく持ち上げた彼は、そっと唇を重ねた。咄嗟に手で押し返してしまいそうになる自分を抑え込み、その腕の中で身を固くさせた。
唇をついばむように何度も彼の唇で挟まれ、それに慣れてきた頃、暖かい舌がゆっくりと私の口の中に入って来た。されるがままにしていると、一旦舌を離した彼が囁く。
「……あなたも」
再び入って来た柔らかな舌に、恐る恐る私の舌を絡ませた。彼は私の舌をすくい取り、何度も強く吸い上げた。初めてなのに不思議な程嫌じゃない。嫌だと思うどころか、もっとして欲しいくらい……
深い口付けに自然と声が出てしまう。反応した彼は私の体を優しく撫で始めた。それだけで気持ちが良くて崩れてしまいそうだった。
しばらくして彼が呟く。
「あの」
「……はい」
「すみません……どこから脱がせたらいいか、わからないんです。女性の着物に触れるのは初めてで」
申し訳なく言った彼の言葉に目が覚める。
「あ、そうですよね」
手が震える。まずは帯締めからで、いいのよね?
「この紐を……」
帯締めに手を伸ばしてほどくと、彼がそれをゆっくりと引っ張り、私から取り上げた。
「次は?」
「つぎ、は……。あ」
耳に唇を押し付けてくるから、なかなか手が動かない。私の首筋へ唇を移動させながら、彼は自分の羽織を脱いだ。熱い息遣いと唇に、初めて感じる心地良さで足の間が溶けてしまっているのが、わかる。
「素敵な着物なので、これ以上はやめておきます」
手を止めた彼が、私から離れて言った。
「あなたのお気に入りの着物が皺になったら大変ですよね。すみません、せっかくのいい雰囲気を壊して」
「いえ、そんなことないです。気を遣わせてこちらこそ、ごめんなさい」
微笑む彼は私に軽くキスをしてから、自分の帯に手を置いた。
「僕が先にシャワー浴びますから、その間に……脱いでいて下さいっていうのもなんですけど、着物を畳んで待っていて下さい」
「はい」
私が頷いたと同時に、彼は自分の帯を解いた。見てはいけないような気がして慌てて背を向け、カーテンを引いた窓の方を向いて待つ。
「浴衣がありましたから、あなたの分はベッドの上に置いておきますね」
「あ、はい」
がちゃりと音がして振り向くと、彼は帯をベッドの上に残して、バスルームへ入ったようだった。
一息吐いて帯揚げに手を回す。まだ、手が震えてる。
帯をほどき、紬を脱いだ。ベッドの上に広げて丁寧に畳む。足袋も襦袢も脱ぎ、急いでホテルの浴衣に身を包んだ。
紙袋の着替えの中にある風呂敷を取り出す。壁際にあるデスクの上に広げ、畳んだ着物や帯や襦袢を重ねた。
シャワーの音が消えた。
心臓が大きく鳴り始め、動きが止まってしまう。このあと、またあんなに熱いキスをされてしまうんだろうか。というか、キスどころの話じゃないわけで……
「……?」
帯締めがない。彼、どこへ置いたんだろう。辺りを見回してみる。窓際へ歩み寄ると、椅子の上にあった。けれど、蝶の形の帯留めは紐から抜けてしまったのか見当たらない。取り敢えずと思い、帯締めだけを着物の上に載せた時、バスルームのドアが開いた。緊張で肩が縮まる。
「お先にすみません。どうぞ」
彼はバスルームで脱いだらしい着物を手にして、ホテルの浴衣を着ていた。前が少し肌蹴て鎖骨が見えている。
「あ、はい」
「畳めました?」
「ええ。おかげさまで」
仕方がない。帯留めはあとで探そう。
素早くシャワーを浴び、おかしなところがないかどうか、タオルで拭きながら、自分の体を見つめた。何度も深呼吸をして気持ちを落ち着ける。もう決めたんだから、迷わない。
バスルームのドアを開けると、部屋の明かりは薄暗いものに調節されていた。タオル地のスリッパを進ませ、ベッドに座る彼の傍に立つ。
「お待たせしました」
「いえ。シャワー熱くなかったですか?」
「はい。ちょうど良かったです。温まりました」
「そうですか。確かめさせてください」
私へ手を伸ばした彼は隣へ座らせ、首筋を指先でゆっくり撫でた。小さく溜息を吐いた時、彼が呟いた。
「僕の名前は」
肩に回された彼の右手に、強い力がこめられた。左手で私の首元に光るネックレスを弄んでいる。
「そうすけ、と言います」
……そう、すけ。どういう漢字で「そうすけ」と書くんだろう。
「わかりませんか?」
「え……?」
わからないってどういうこと? 心を読まれてしまったのかと驚く。でもまさか漢字のこととは思えないけれど……意味が良くわからない。答えに困っていると彼が再び言った。
「あなたの名前も教えてください」
「……七緒、です」
彼の真似をして下の名前だけ。どんな字なのかも言わなくていいよね。
「ななお、さん」
「はい」
返事をした唇を重ねられた。そのままそっと押し倒され、ベッドに仰向けになる。心臓が聞いたことのないくらい大きな音で鳴り響いている。体が緊張で強張り、痛いくらいだった。
唇を離した彼が耳元で囁いた。
「ななおさん……好きです」
「え……?」
顔を上げた彼が私の瞳を覗き込む。
「あなたは? 僕のこと、少しでも好きになってもらえたでしょうか?」
応えても、いいのだろうか。
「……ええ、好きです」
躊躇うことなど許されない眼差しに、自然と唇が動いていた。
その言葉に嘘はない。好きじゃなければ、こんなこと出来ない。
眉根を寄せて大きく息を吸い込んだ彼は、再び私を見つめて言った。
「明日の朝、僕のことを教えます。何もかも全部。だからあなたのことも教えてください。僕に全て」
教えるというのは、名字や歳やお互いのプライベートのこと……?
「……わかりました」
「ありがとう。朝までは、僕のことだけ考えていて下さい」
不覚にもその言葉に胸がきゅんと痛んだ。私の上に乗っている彼がネックレスに再び触れる。
「これ、お店で名前が付いていたのを見ましたか?」
「いえ」
「古都に咲く花、と書いてありました」
「古都に咲く花……」
「僕にとって、あなたがそうです」
「!!」
強く唇を塞がれた。息が出来ない程激しく吸われ、悲しくも無いのに目に涙が浮かぶ。顔を離して私の浴衣を脱がせた彼は、肌に唇を押し付けて吸い付いた。あちこち舐められて、その度に体が跳ねてしまう。彼も浴衣を脱ぎ、私に肌を合わせた。何度も深く重ねる口付け、出し入れされる指先……彼を受け入れて初めて感じる大きな痛みは、喜びに変わった。
ななおさん、ななおさん、と何度も彼に名前を呼ばれた。
心から愛されているのではと勘違いしてしまいそうな、そんな声だった。
なかなか眠れずにいた私は、一晩中うつらうつらしていた。ベッドサイドの時計は朝の五時をさしている。目の前で眠る彼の顔を見つめて涙ぐんだ。
私……この人のこと、本気で好きになってしまった。たった一日、一緒にいただけなのに。こんな気持ち、知らなければ良かったと後悔しそうになるほどに。
でも、私みたいな年上の女に付き纏われたら、きっと迷惑だろうな。この歳になって初めてだということも、結局気付かれてしまったし。
好きだなんて言ってくれたけど、終わってもずっと抱き締めてくれていたけど、朝が来て私の顔を見たら冷静さを取り戻して、気が変わってしまうかもしれないんじゃないかと怯えていた。そんなふうに思われるのが、怖い。
もしもこの先、この人と一緒にいることになっても、家を出たいというプレッシャーに押されて、結婚を迫ってしまうかもしれない。迫らなくてもこの人にはきっと感じ取られてしまう。そんな面倒な女、すぐに嫌われてしまう。だったら綺麗な思い出のままでいた方がいいのかもしれない。
「……」
帰ろう。彼が目を覚ます前に。
音をたてないようにそっとベッドを下り、彼の寝顔を確認した。私に全く気付かず、ぐっすり眠り続けている。昨日はたくさん歩き回ったから疲れているんだろう。
離れた場所に置いてある袋から着替えを出した。ニットワンピにカラータイツを身に着け、パンプスを履く。風呂敷に包んだ着物を袋へ入れ、もう一度ベッドを振り向くと、寝返りを打ったらしい彼はこちらに背を向けていた。
ベッドサイドにあるホテルのメモ用紙とボールペンを手にして、デスクでメモを書いた。
一夜の素敵な夢をありがとうございました。
七緒
一万円札を一枚、五千円札、そして千円札を二枚。昨夜の食事の分も合わせてこんなんじゃまるで足りないのは十分わかっているけれど、お財布にあるだけのお札をメモの下に置いた。
部屋の扉を開けて廊下に出て、静かに閉めてルームキーをゆっくりと回す。
壁一面がガラス張りの廊下は、まだ薄暗かった。急いでロビーへ行き、誰もいないフロントに立ち寄りスタッフを呼び出した。先に帰るからと、ルームキーを彼に渡すようお願いした。
自動ドアから外に出る。早朝の寒さに身を縮ませながらウールのショールを肩に掛けた。早足で歩き、彼と夕食を共にした古民家の横を通り過ぎて、ホテルの坂道を下りる。歩いている内に辺りは少しずつ明るくなってきた。
広い道に出たところを左に曲がると、視界が一気にひらけ、真っ直ぐ伸びた坂道の終点に青い海が見えた。日が昇って来たのか、紺色だった空は水色に変わり、星が空に溶けている。
「……綺麗」
呟くと同時に涙が零れた。こんなに綺麗な朝の海を、部屋から一緒に眺めたかった。
急な坂道を海に向かって下りていく。
歩く度に、じんじんと鈍い痛みが押し寄せ、体も心も私の全部が、彼とのことを思い出していた。