ななおさん
5 鎌倉物語 (3)
時間帯のせいなのか国道は渋滞気味だった。道の左側を江ノ電が走っていく。タクシーは鎌倉高校前を通り過ぎた。
しばらく進み、信号を左折した。暗く静かな坂道を上って行くと、左に学校があった。後ろを振り返る。黒い海と国道を通り過ぎる車のライトが見えた。昼間はとても見晴らしの良い場所なのかもしれない。
坂を上りきる少し手前で右折し、さらに上りきったそのずっと奥に、ライトに照らされた美しいホテルが現れた。
手を固く握り、食事なのだから、と心の中で自分に言い聞かせる。
「あ、ここでいいです」
意外なことに、ホテルの手前で彼が運転手さんに告げた。
「ここでよろしいですか?」
「ええ。ありがとう」
素早く支払いを済ませた彼と共に下りたすぐ前に、古民家のような佇まいの大きな建物。ホテルの敷地内のようだから、もしかしてこれがお店?
「そこ、鉄板焼きが美味しいんですよ」
「初めて来ました」
ホッと胸を撫で下ろす。と同時に彼に対して申し訳ない気持ちが込み上げた。約束通り、食事に連れてきてくれただけなのに。これだから男の人慣れしていない女は駄目なのよ。
「あ、ちょっとここで待っていて下さい。先に確認しておきたいことがあるので」
入口の手前で彼が言った。確認って……?
「すぐに戻りますね」
早足で進んだ彼がお店に入る。手持無沙汰になり振り返ると、一面の曇りガラスからオレンジ色の明かりが漏れる、緩いカーブの造りのホテルが見えた。正面入り口は、そのずっと奥にあるらしい。前から一度は宿泊してみたいと思っていた場所。
ドアの開く音が聴こえ、彼がこちらへやってくる。
「すみません、お待たせしました。行きましょう」
「はい」
店内に入ると、店員さんが軽く私たちへお辞儀をした。
「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」
太い梁が何本も張り巡らされた吹き抜けの天井。カウンター席の前にはお酒の瓶が並び、大きな鉄板があった。
私と彼は窓際のテーブル席へ案内された。窓ガラスの外のずっと遠く、闇の中に小さないくつもの光を纏う江の島が見える。
「どうせなら窓際がいいかな、と思ったんですが、暗くてあまり見えませんね」
椅子に座り苦笑した彼が、店員さんに渡された熱いおしぼりで手を拭いた。私も拭いて、さっぱりした両手を膝の上で組んだ。
「それでさっき確認されてたんですね、窓際の席かどうか」
「あ、ええ、まぁそんな感じです」
お店の前で私を待たせたのは、それが理由ではなかったんだろうか。一瞬戸惑う表情を見せた彼の言動が気になる。
「お酒は飲めますか?」
「少しなら」
実は結構飲む方なんだけど今日は控えめにしておこう。
「僕も少しだけ飲みますね」
メニュー表を見ながら店員さんを呼びとめて、お酒を頼む。
「桃酒を」
「僕は湘南ビールで」
「かしこまりました」
店員さんが去るのを見届けてから、彼が肩を竦めた。
「喉渇いちゃって」
「たくさん歩きましたもんね」
彼のはにかんだような笑顔に合わせて私も笑った。この人のこういう笑い方を、今日は何度か見たけど……何だか可愛いく感じた。きっと私より年下だから、かな。
乾杯をして、一品料理を選ぶ。
「嫌いなものはありますか?」
「いえ、特には。お任せします」
「いくつか頼んで一緒につまみましょうか」
「はい」
料理を待つ間、あずま袋の中で泳いでいた、拝観料と引き替えに渡されるチケットと手帖を取り出した。ひらいて手帖のカバーに挟む。
「それ、手帖に入れてるんですか?」
「ええ。どこかに行ったときは、必ずこうして挟んでおくんです。記念にしたいから」
「……そうですか」
江の島でネックレスを差し出した時のように、彼が再び表情を曇らせた。でもそれはほんの一瞬のことで、すぐに元の優しげな表情に戻るから、私は安心してその後も話を続けた。
お酒を飲みながら初めて口にした生しらすは、ねっとりとしていて味が濃厚だった。湘南で獲れたというお魚のお造りは甘く、大根の煮物はほろほろと口の中で溶けた。
「そういえば、ここからお近いんですか?」
「横浜です。あなたは?」
「僕は都内です。仕事関係でたまに鎌倉には来ているんですが、今日は完全にオフなので、普段は見られない場所に行こうかと、うろうろしていました」
あなたがいてくれて良かった、と彼が呟いた。そんな嬉しいことを言われても、どういう顔をしていいかわからない。
「お待たせいたしました」
地野菜の鉄板焼きが湯気を立てている。続けてテーブルに載った帆立貝と車海老、そして黒毛和牛の鉄板焼きは、塩とわさびで食べるのが美味しかった。でも胸が一杯で、たくさん口にすることは出来ない。
彼が私の隣の椅子を見た。
「荷物多いですよね。重くなかったですか?」
「え、ええ、全然。……お土産なんです」
まさか着替えの洋服が入ってるなんて想像もできないよね、きっと。折りたたみのパンプスもあると知られたら、一体どんな顔をされるだろう。
「言いそびれていましたが……その着物、あなたにとてもよく似合ってますよ」
「あ、ありがとうございます。これ古着なんです。とても綺麗な色で秋らしいかと思って買いました。でも初心者なので、これで良いのかよくわからないんです。男性の着物姿も、とてもいいですよね」
「僕も実は初心者なんですよ。何を合わせたらいいのか、まるでわからないんで、呉服屋で選んでもらったのをそのまま着てます」
「ご自分で着られるんですか?」
「一応。趣味で始めたばかりだから、着慣れてる人から見ればおかしなところがたくさんあると思いますよ」
「そうなんですか」
お互い初心者だということに、またひとつ緊張が解けた。私の様子に気付いた彼が、覗き込むように上目づかいで言った。
「安心しました?」
「……安心しました」
「僕も」
二人で顔を見合わせて、クスクスと笑う。今日何回目だろう、こんなふうにして笑うのは。男の人と胸をときめかせながら話すという、この感じが……知ってしまったら抜け出せないくらいに心地良い。このままずっと浸っていたいくらいに。
「今度はお互い着物じゃない時に、源氏山の方へでも行きませんか」
「銭洗弁天や、佐助稲荷があるんですよね」
「あの坂は雪駄じゃなく靴で行かないと、まだまだ僕には無理だと思います」
「私もです。靴でも少し大変ですよね」
今度、なんて約束に答えてしまっていいのだろうか。三日後に予定しているお見合いのことが頭を掠めた。でも今は何も考えたくない。
鎌倉周辺の話やこれから行ってみたい場所、着物のあれこれ、お互いの仕事の話を少しだけして、時間は瞬く間に過ぎて行った。
「お時間、まだ大丈夫ですか?」
「ええ。明日も有給を取ってあるので」
「……そうですか」
微笑んだ彼は窓の外へ視線を移した。私も追って窓の外へ目を向ける。暗闇を見ていたはずなのに、いつの間にかガラス越しに彼と見つめあっていた。
気付いてしまった途端顔が熱くなった。恥ずかしいのに、なかなか視線を外すことができない。
しばらくしてふいに、彼が立ち上がった。
「ちょっと失礼。すぐに戻ります」
「あ、はい」
お手洗い、かな。
「好きな物、頼んでていいですからね」
「ありがとうございます」
彼の笑顔に私も笑顔で返す。
江の島の灯台の明かりが規則的にこちらへ光を投げている。さっき島の上から見下ろしていた遠くの場所に、今私がいる。それが、とても不思議なことに思えた。
しばらくして彼がテーブルに戻って来た。
「お待たせして、すみません」
「いえ」
「……」
席に着いた彼は私を見ずに、窓の外を見た。表情から笑顔は消え、何も言わずに黙り込んでいる。
「……あの?」
不安な気持ちが自然と口から零れた。急に雰囲気の変わった彼に胸が苦しくなる。
私が、調子に乗り過ぎたのかもしれない。ずいぶん時間が経ったというのに帰ろうとする素振りも見せないことが重荷になったのかもしれない。こんな時に気の利いた言葉ひとつ思い浮かぶことのできない自分が情けなかった。
「……そろそろ、帰りましょうか」
私の言葉に反応した彼が、ゆっくりと振り向き、私をじっと見つめた。何か言いたげな瞳を見つめ返し、再び口をひらこうとした時、彼が静かに言った。
「部屋を、取りました」
「え?」
「正直に言います」
真っ直ぐな眼差しに捉えられて身動きが取れない。
「着物姿のあなたを見かけた時から、気になって仕方がありませんでした。高徳院では偶然を装って、あなたに近付いたんです。ぶつかりそうな振りをして」
大仏様の後ろ側に回り込んだ時のことが頭に浮かぶ。……偶然では、ない?
「一緒に過ごしてみて、僕の思った通りの人だということがわかりました。控え目で慎ましくて、笑顔が素敵で……離れがたくなりました」
まだほとんど口を付けていない焼酎の入ったグラスを、彼は両手でぎゅっと握った。私の心まで一緒に掴まれたようで、息苦しささえ感じる。
「江の島に行ったのも、食事に誘ったのも、何とか時間を掛けて一緒にいたかったからなんです」
彼の言葉で私の中が一杯になり、いくら冷静に考えようとしても無駄だった。彼の瞳を見つめたまま、ひとことも言葉を発することができない。
「あなたと、このまま別れたくないんです」
切なげな声に胸が痛む。
「朝まで……僕と一緒にいてくれませんか」