「……古田さん、おはようございます」
「おはようございます。先日は新婚旅行のお土産をありがとうございました。美味しかったよ、コーヒー」
 こちらへ近づいた古田さんが笑いかけた。改札へ向かうサラリーマンが足早に通り過ぎて行く。
「良かったです。あの、今日はお早いんですね。いつも、お車で通勤じゃなかったでしたっけ?」
「そうなんだけど、今日は夜に飲み会があるから電車で来たんだ。なな、えーと奥さんが実家に帰っててね。やることなくて早目に出勤したんだよ」
「そうなんですか」
 古田さんと話しているのに、私の頭の中は住谷パンのおじさんとの会話でいっぱいだった。
 永志さんが私も連れて修業に行くと言うのなら、まず相談されるはずだよね? 言いかけて黙る、なんて必要はないと思う。
 ということは、やっぱり……永志さんは一人で海外に行こうとしているの? 住谷のおじさんは商店街の集まりか何かで永志さんに聞いたのかな。だとしたら、目の前にいる古田さんも、何か知っているのかもしれない。
「これで晴れて、くるみちゃんも有澤さんの奥さんか〜。良かったね」
「……」
「くるみちゃん? どうしたの?」
「あ、いえ。ごめんなさい、何でもないです」
「何でもないって顔じゃないなぁ。住谷パン持ったまま、どこへ行こうとしてたの? こっちの商店街に買い物?」
 鋭い突っ込みに胸がずきんとした。古田さんには嘘を吐いても、きっとすぐにバレてしまう。
「……違います。買い物じゃ、ありません……」
「僕でよければ聞くよ」
 落としていた視線を上げて、古田さんの顔を見つめた。
「いいんですか? お仕事なんじゃ」
「少しなら平気。くるみちゃんにはお世話になってるんだから、これくらいさせてよ」
「すみません」
 横に並んだ古田さんは、私の顔を覗き込むようにして言った。
「ただ、お客さん用のパンを持ち歩いてどこかに行くのは良くないな。椅子カフェ堂までゆっくり歩きながら話そうか」
「はい」
 本当にそうだ。私事で冷静になれないなんてカフェ店員失格だよ。奥さんの前に、私はカフェの店員なんだから。古田さんに声を掛けてもらってよかった。

 雨が降る前の生暖かい風が吹き、石畳の通りに並ぶ木々が青い葉をざわめかす。椅子カフェ堂に戻ったら洗濯物は取り込んで、部屋の中に干そう。
「修業か〜。有澤さんも頑張るね」
 曇り空を見上げた古田さんの言葉を聞く。古田さんは知らなかったんだ。
「永志さんが望むならって思うんですけど……なんか寂しくて」
「くるみちゃんは一緒に行かないの?」
「私に何も言わないということは、一人で行きたいんだと思います。多分」
「結婚したばかりで離れるのはつらいよね。送り出すのだって相当勇気がいるだろうし」
 何かが心に引っかかった。
 離れるのがつらいから? この先が不安だから? だから寂しいの?
「それもそうなんですけど、でもちょっと違うっていうか。……ごめんなさい、上手く言えなくて」
「有澤さんが言ってくれないから、か」
「え」
 古田さんの呟きに私の足が止まる。気付いた彼も立ち止まり、私に向き合った。
「有澤さんが、くるみちゃんにはっきり言ってくれないことに、納得できないんでしょ? 何でそんなに大切なことを住谷パンさんから教えてもらったんだろう、ってさ」
「……」
「それを有澤さんに聞きたいのに聞けないから、椅子カフェ堂とは反対方向に逃げて来て、僕に会っちゃったわけだ」
「……古田さんって、エスパーですか」
「ははっ、まぁね。僕も同じことしてたから、わかるよ」
 古田さんは笑いながら、行こう、と私の肩をそっと押して道を進むように促した。
 よくわからない思いを古田さんに指摘されて納得した。私……永志さんが修業したいとか、もしかしたら離れてしまうかもしれないとか、そういうことに傷ついたんじゃない。私に向き合って言ってくれなかったことに、悲しくなったんだ。
「古田さんも同じことしてたって、本当に?」
「うーん、まぁちょっといろいろあって、結婚直前から奥さんとすれ違いが多かったんだ。相手に嫌われたくない気持ちが強くてカッコつけてたら、意地張って上手く言えなくて……余計にこじれた。だからよくわかるよ、くるみちゃんの気持ちが。今はそういうことを乗り越えてラブラブになったけどね〜」
「……いいなぁ」
 呟いた途端に背中をぱん! と叩かれた。
「きゃっ! ふ、古田さん?」
「悩んでないで、どーんとぶつかればいいじゃない。和フェアの初打ち合わせのとき、僕に啖呵切ったみたいにさ」
「あ……あのときはごめんなさい!」
「いいのいいの、僕も悪かったんだから。でも僕はあれで、くるみちゃんがいい子だな〜ってよくわかったんだ。有澤さんはくるみちゃんの旦那なんだから、もっと言いたいこと言っちゃっていいんだよ」
「そう、ですよね」
「そうそう。有澤さんて、僕の奥さんより鈍そうだからさ〜、どんどん言っちゃえ」
 二人で顔を見合わせて、クスッと笑った。古田さんに吐き出して、ちょっとだけすっきりしたみたい。
 石畳から椅子カフェ堂のある路地に入る曲がり角で、古田さんに頭を下げた。
「すみません、こんなところまで来ていただいて。助かりました」
「いや、全然いいよ。ついでに乾物屋のほう回るから、気にしないで」
「ありがとうございました」
「またね。有澤さんによろしく」
「はい」
 古田さんと話して少し心は落ち着いた。でも、椅子カフェ堂へ戻って永志さんの顔を見たら、急に本当のことを知るのが怖くなって、結局何も聞けなかった。

+

 もやもやとした気持ちを抱えながら、一週間が経った。
「はぁ……」
 椅子カフェ堂の二階、私たちの住むキッチンの窓を少し開けて、食器を洗いながら外を眺める。すっかり梅雨に入った空は、私の心と同じような雨模様だ。
 住谷パンのおじさんに話を聞いたあの日の夜、私は生理になってしまい、内心ホッとしていた。だってこんなときに永志さんに抱かれたら、泣いてわがまま言っちゃいそうだもん。
 ため息を吐いてタオルで手を拭いていると、彼の声が届いた。
「くるみちゃん……? もう起きたの?」
「永志さん、ごめんね、起こしちゃった?」
「いや、いいよ。どうした?」
 広いワンルームに置かれたベッドに近づく。横たわって目をこすり、私へ顔を向けている彼の傍で、床に膝を着いた。
「あのね、新しいスイーツを作りたいから、今日は早めに厨房へ入っていい?」
「昨夜もやってたよね。その続き?」
「うん」
 手を伸ばした彼が私の頬を人差し指でなぞった。優しげな眼差しを受けて、切ない気持ちが胸に広がる。
「無理するなよ? 朝メシは食べた?」
「う、うん。大丈夫。じゃあ、お先に行ってます。寝ててね」
「……うん。頑張れ」
「ありがとう」
 彼の笑顔は、いつも通りで何の変わりもなくて、それが寂しかった。どうして何も、言ってくれないの……?
 階下へ降りて椅子カフェ堂の厨房へ入る。
 生理は終わったのに胸が重苦しくて食欲がない。永志さんに聞かなければ解決しないのはわかってる。わかってるのに、何をそんなに臆病になっているんだろう。永志さんにフラれたと思い込んでいたときの私のほうが、まだ強かった。
「あーもう、そういうのは、やめやめ!」
 雑念を消すために頭を左右にぶんぶんと降って、シュー生地を作り始めた。

 今日の分のケーキ類を作り終えた私は、シュークリームの試作品をホールへ運んだ。永志さんと職人さんが壁際のテーブルに二人並んで座っている。久しぶりだよね、このシチュエーション。二人の前にお皿を差し出した。
「新作のシュークリームです! 定番商品としてどうかなと思いまして、作ってみました」
「おー美味そうだな!」
 職人さんが身を乗り出して目を輝かせた。
「懐かしい感じだね。粉糖がたくさんかかってて、美味そう」
 永志さんは顔を近づけて、いろんな角度から私が作ったシュークリームを眺めてる。
 シュー生地は少し固めに焼いて、中身の下半分はカスタードクリーム、上半分は生クリームを絞った。
「パンケーキも考えたんですが、厨房にこもりっきりになってしまうのでやめました。試食お願いします」
 いただきまーすと挨拶した二人は直接手でシュークリームを掴み、大きな口を開けてかぶりついた。ご、豪快だなぁ。
「うん……うーん?」
 もぐもぐと口を動かした永志さんが首を傾げた。彼の隣に座る職人さんは、先にシュークリームを飲み込み、グラスに入った麦茶を口にして、大きなため息を吐いた。
「くるみ。お前、これ味見したよな?」
「え……?」
 残りのシュークリームをお皿に置いた職人さんが、睨むように私を見つめた。彼が続きを食べないなんて初めてだ。悪い予感が頭と体を駆け巡った。
「具合でも悪いの? くるみちゃん」
 永志さんも、私の顔を心配そうに見つめている。
「いいからお前も食ってみろよ。あのでろでろな灰色の飲むヨーグルトなんて可愛いもんだぞ?」
「い、いただきます」
 慌てて自分の分のシュークリームを手にし、一口かじる。中に詰めたカスタードクリームが、ぼやけた味で舌触りが悪い。お砂糖の量を間違えた……? 甘さが控えめ過ぎて、おかしなことになってる。
「……まずい、です。す、すみません……!」
 あまりの失敗に冷や汗が出てきた。胃が痛い。
「いや、たまにはこういうこともあるって。男と違って、女の人は体調もあるだろうしさ」
「いえ、ダメです! うっかりとか、体調が味に出るとか、そういうのは絶対に絶対にダメです。楽しみに来てくださったお客さんや、初めて来てくださったお客さんに、申し訳なさすぎ、で、す」
 永志さんがフォローしてくれたのに、ぽろっと涙が零れてしまった。
 ここのところの不安と、不出来なシュークリームを目の前にして、溢れ出た感情が涙に変わっていた。……卑怯だよ、こんなの。こんな場面で泣くなんて情けないにもほどがある。
「す、すみませんっ! また後日、お願いします!」
 シュークリームが残ったお皿を奪うようにして二人の前から下げ、厨房へ足早に向かった。

 椅子カフェ堂の開店前に、職人さんが全部のケーキの味見をしてくれた。シュークリーム以外はいつもと同じだと言われて安心する。
 その後も、何とか仕事はこなしていたけど、やっぱりこういうのダメだ。一人でぎくしゃくしてるし、自信の無さが顔に表れている気がする。ちゃんと、永志さんにはっきり聞こう。怖いけど、聞いてしっかり受け止めるんだ。私は彼の……奥さんなんだから。
 ホールの時計は夕方の五時半を指していた。半分以上のテーブルが、お客さんで埋まっている。窓の外は雨が上がって夕焼け空が綺麗に見えた。明日は久しぶりに晴れるのかな。今夜早速聞いてみる? それともお休みの明日がいい?
「店長、オーダー入ります。カプチーノ二つと、豆乳ラテひとつです」
 厨房に入りながら永志さんに声を掛ける。ショーケースのチーズケーキが減ってたっけ。ついでに今、出しちゃおうかな。
「……了解。ねえ、くるみちゃん」
「はい」
「俺に何か言うことない?」
 永志さんの強い視線に体が固まる。言うことって、それは私が聞きたいくらいなのに。でも今は仕事中だ。作り笑いをして彼の視線から逃れ、そそくさと通り過ぎようとした。
「えっと、後ろ失礼しますね。チーズケーキを、」
「こら!」
「ひゃ」
 ぐいと腕を引っ張られ、ぎゅううっと後ろから抱き締められた。え、え……!? 何!?
「永志さ、ん、ダメ」
「ダメじゃない」
 声を落として抵抗しても、全然やめてくれない。
「や、やめてください。営業中、です……!」
「いくら営業中でも、こんなんじゃ俺、仕事にならないよ。この前から何をずっと悩んでんの?」
「え……」
「俺が気付かないとでも思ってた?」
 彼の腕の中にすっぽり包まれて身動きが出来ない。低く穏やかな声が私の耳の中へ入ってくる。
「気付かないわけないだろ。言ってくれるまで放さないからな、くるみちゃん」
 さらに強く抱き締められた。優しい言葉に涙がこみ上げる。仕事中なんだから泣いちゃダメ……!
「あ、明日のお休みに」
 何とか堪えて、彼に訴えた。
「ん?」
「前に連れて行ってくれた公園へ行きたいの。そこで話します」
「連れて行ったら、本当に話してくれる?」
「話します」
「わかった。約束だよ?」
「……はい」
 小さく頷くと、腕を緩めた彼が私を解放した。


 翌日の午前中。約束通り、永志さんの運転する車に乗って、芝生のある大きな公園へやってきた。ここは彼と初めて結ばれた翌朝に連れて来てもらった公園。永志さんのおじいさんとおばあさんが、彼の小さい頃ここへ連れて来て、遊んだという思い出の場所だ。ここでならきっと素直に気持ちを言える。
「梅雨の晴れ間だな〜。いい天気だ」
 伸びをして青空を仰いだ永志さんは、大きなバッグから敷物を取り出して芝生の上に敷いた。
「はい、くるみちゃん。ここね」
「?」
 靴を脱いで胡坐をかいた彼が、自分を指さしている。
「ここに座るんだよ、俺の膝の上」
「え! そ、そこに座るの……!?」
「そうだよ、早く」
「あの、他に人がいるから、隣じゃダメ?」
「ダメ。逃げないようにして聞くんだから」
 に、逃がさないようにって……。周りを見回し、人がいなくなった瞬間、素早く靴を脱いで、そっと彼の膝の上に腰を下ろした。
「……お邪魔、します」
「それで? 俺に言いたいことは何? 何を悩んでるの?」
 後ろから伸ばした永志さんの両腕に閉じ込められた。耳に彼の息がかかる。途端に顔が熱くなって、肩を縮ませ、目を閉じた。
 甘い雰囲気に流されちゃダメ。聞きたいことをしっかり話さないと。深呼吸をして、目を開け、顔を上げた。
「ずっと一緒にいたいって、ここで言ってくれたこと、覚えてる?」
「覚えてるよ。忘れるわけないじゃん」
「私も同じ気持ちです。ずっと傍にいたいし、一緒にいたいです。でも永志さんが……」
「俺が?」
「夢を追いかけるなら、私は離れていても大丈夫です。椅子カフェ堂は、できる限りのことをして私が何とかやっていきます。大丈夫だから、ちゃんと言ってほしいの。内緒になんてしないで、はっきり言って欲しい、の」
「何を?」
 彼の言葉に、かっと顔が火照った。
 涙ぐみながら彼の手を押しのけて、勢いよく立ち上がる。まだ誤魔化すの? そんなに教えたくないの?
「何をって、永志さんが海外へ修業に行くことです……!!」
 仁王立ちで彼を見下ろし、大きな声を上げた。だってこんなの、ひどいよ。
「……ごめん」
「あ、謝らない、で……!」
 我慢していた涙が零れ落ちた。謝るってことはやっぱり海外に行くの? 濡れた頬を拭って確かめようとしたとき、ぽかんと口を開けて私を見上げていた永志さんが、ゆっくり言葉を吐き出した。
「いや……くるみちゃんが何の話してるのか、何を泣いてるのか、俺、さっぱりわからないんだけど」
「え?」
「俺が海外修業に行くって、どういうこと? 海外ってどこ?」
「ど、どうって、あの……住谷パンのおじさんが、永志さんが海外へ修業に行くって、えらいなって言ってたの」
「住谷のおっさんが!?」
 声を出す代わりに大きく頷くと、何かを思い出したように永志さんが笑った。
「あーそうか、うんわかった。それ誤解だよ」
「誤解?」
 いいから座って、と手を引っ張られ、再び彼の膝の上に乗って腕の中に閉じ込められた。
「俺がくるみちゃんを置いて、一人で海外へ行くと思う?」
「思いたくないけど……でも」
「やっと店が安定してきたんだ。これからまだまだ新しいものを提供して、今来てくれているお客さんを逃がさないようにしなきゃいけない。その大事な時期に、椅子カフェ堂を離れることなんてできないよ。だろ?」
「……」
「椅子カフェ堂の売り上げがどうしようもなく落ち込んで、全部をひっくり返すほどに模索しなければいけないっていう大ピンチに陥ったら、そういうことは考えるよ。でもそのときだって、くるみちゃんは一緒に決まってるじゃん。椅子カフェ堂にも俺にも、くるみちゃんが必要なんだからさ」
「永志さ、ん」
 また涙が溢れ出た。
「馬鹿だなぁ。そんなことでずっと悩んでたの?」
「う……うん」
「おかしいなと思ったら、まずは何でも言ってよ。もう夫婦なんだからさ、俺たちは」
「うん、うん……ごめんなさい」
 何でも言っちゃえって、私に助言した古田さんの言葉を思い出す。あのあとすぐに永志さんに聞けば、こんな馬鹿みたいな思いしなくて済んだのにね。
「私……」
「うん、何でも言って」
 包む込むように、永志さんが後ろからそっと私を抱き締めてくれた。
「大好きな人が決めたことなんだから、それは止めたくないって、でも、どうして言ってくれないのって、ずっと思ってたの」
「……」
「永志さんが前に何か言いたそうだったから、きっと海外に行くことだって、勘違いしてた」
 永志さんの手が私の顎に伸び、彼のほうへ向かせた。軽く唇を重ねた私たちに、夏に変わる前の爽やかな風が通り過ぎ、互いの髪がふわりと揺れる。
 唇を離して、額をこつんと合わせた永志さんが目を細めた。
「優しいね、くるみちゃんは。誤解って言ったのはさ、来年の春に行こうと思ってたことなんだ」
「どこに?」
「北海道」
「北海道!?」
 全然話が掴めない。どういうこと?
「十日間くらいかけて酪農家とか、その土地限定で扱ってる乳製品を使ったレストランとか、そういうのを見て回りたいと思ったんだ。修業と呼ぶにはゆるすぎるレベルだけどね。住谷のおっさんにチラッとそういう話をしたんだけど、場所は勘違いしたんじゃないかな。結構、人の話聞いてないから」
 永志さんを振り向き、視線を合わせて思わず笑ってしまった。確かにあのおじさんなら、勘違いも有り得るかも。
「北海道だけじゃなくて、いろんな土地の人気の店をこの目で見て、味を確かめたいんだ。椅子カフェ堂があるから長期は無理だけど、この前みたいに新婚旅行で休んだ十日間くらいなら、毎年行けるんじゃないかと思ってさ」
「それを言おうとしてたの?」
「ああ。ただ、ちょっと言いにくかったんだ」
「どうして? すごく素敵な提案なのに」
 自分の予想を裏切った彼の話は、悲しさから一気に幸せな気持ちへと引き上げてくれた。こんなに嬉しい提案なら、その場で大喜びしてしまうのに。
「いやその……その頃に、くるみちゃんが妊娠してたら連れて行けないしな、って」
「え!」
「そういう可能性もある、だろ? ……なんか照れるな」
「う、うん」
 熱くなった私の頬に、永志さんが自分の頬を押し付けてきた。彼も熱くなってることに、胸がきゅんとして、私の頬がもっと熱くなる。
「まぁ、そうなったらなったで、そのとき考えればいいか」
「うん、そうですよ。何とかなると思います、何事も」
「くるみちゃんが言うと、本当にそうだなって思えるよ。よし、これで仲直りだな!」
「きゃ!」
 突然抱き上げられ、お姫様抱っこをされた。
 一緒に幸せになるんだと結婚パーティーで誓ったときのように、まつ毛が触れそうなほどの近さで熱い瞳を交わし合い、お互い照れたように笑って、そっとキスをした。

+

「リベンジのシュークリームです!!」
「今度は大丈夫だろうな?」
 職人さんは、テーブルに置かれたシュークリームを怪訝な表情で見つめた。
「もう大丈夫です。すっかり……ラブラブなので!」
「はぁ? 夫婦喧嘩が原因かよ、くだらね〜な〜」
 職人さんはパクパクとシュークリームを頬張った。永志さんは、彼の隣で肘をつき、その様子をじっと見ている。
「まぁな。お前も夫婦になればわかるよ。より愛情が深まっていいぞ〜」
「そういうことを臆面もなく言えるかね、普通」
 呆れた声を出した職人さんは、私に向かって「合格」と言ってくれた。良かった、美味しかったんだ! 今回は絶対自信があったもんね。
 永志さんと視線が合った。よかったね、というふうに彼に微笑まれて、私も思わず微笑み返す。心が温かくなって、じんわりと幸せな気持ちになった。こういう瞬間が大好き。
「結婚て……いいかねぇ?」
 指に付いたクリームを舐めながら、職人さんがぶっきらぼうに言った。
「いいに決まってんだろ。新婚の俺たちに聞くか、それ」
「そうか、いいもんか。ふーん」
 職人さんがそんなことを聞くなんて珍しいよね。もしやこれって、小川さんと特別に進展している証拠……!?
「あの、職人さんも、いかがでしょう。ここはひとつ、結婚しちゃって、いた……っ!」
「余計なお世話だっつーの。したくなったらする」
 デコピンが飛んできた。でも何だか満更でもなさそうな感じ?

 永志さんと私の関係は、店長と店員から恋人へ、そして夫婦へと変わった。
 関係が変わらなければ気付けなかったこと、気付いて深まるものがあることを知った。これって、椅子カフェ堂と、私たちの関係に似てるよね?
 少しずつ変わりながらも、そこに有り続ける椅子カフェ堂みたいに、私たちもそうなれたらいいな。

 椅子カフェ堂のドアを開けて、お店の前を箒で掃除する。
 梅雨が明けたばかりの青空は澄み切って、私が初めてここを訪れた日と同じように、白い雲が輝いていた。