眩い朝日に照らされた瞼を、そっと開けた。壁に掛かった時計は朝の八時過ぎをさしている。
 久しぶりのこの匂い。見慣れた天井。肌にしっくりくる寝具の心地良さに、大きく息を吸い込んだ。
 あーやっぱり家っていい……! といっても、新婚旅行前に同居を始めたばかりの椅子カフェ堂の二階、永志さんのお部屋なんだけどね。
 昨日帰国した私たちは、たくさんのお土産とともに家へ帰ってきた。ホッとしたのと、長い移動時間に疲れたこともあって、早目に眠ってしまった。向こうは暑いくらいだったから、六月に入ってもこっちはとても涼しく感じる。
 ハワイ、楽しかったなぁ。海と空が真っ青で、暑くても爽やかな風が吹いて、のんびりしてて、甘い匂いが漂っていて。甘いといえばパンケーキが美味しかった。滞在中に入った三件のパンケーキ屋さんは、それぞれ個性的な味付けと盛り方で、全部美味しかった。もう少しボリュームと甘さを抑えたパンケーキをカフェのメニューに取り入れてみようかな。作り置きが出来ないとなると、やっぱり無理かな〜。でもお客さんは喜んでくれるよね。うーん……
「……くるみちゃん」
「わ、はいっ!」
 突然、長い腕に体をすっぽり包まれた。いい匂い。私の大切な旦那様の匂い。……旦那様だって。うーダメだ、自分で思っておいて、ニヤニヤが止まらない……!
「どうしたの……?」
「う、ううん。おはよう、永志さん」
「おはよう」
 永志さんの手が私の髪をゆっくりと梳き、そこから頬を撫でた。……いい気持ち。
「眉間に皺が寄ってたよ」
「見てたの?」
「うん、見ちゃった」
 私の眉間に人差し指を押し付けた永志さんの、クスッと笑った息が耳に掛かる。
「ハワイで食べたようなパンケーキをメニューに加えられないか悩んでたの」
「仕事熱心だな。新婚旅行は楽しかった?」
「すごくすごく楽しかったです」
「また行こうな、絶対」
「うん……!」
 いつかまた本当に、永志さんと一緒に行きたい。夢のような甘い甘い数日間を思い出した私は、彼のほうへ体を向けて、その胸に顔を押し付けた。そんな私に応えてくれるように、永志さんの手が優しく抱き締めてくれる。
「あーあ、明日から仕事か〜。ていうか、早速今夜は仕込みだし」
 彼の大きなため息が私の体へ伝わった。
「あっという間でしたね」
「本当だよ。まだこうしてくるみちゃんと、ぬくぬくうだうだ、いちゃいちゃしてたいなー」
 ベッドが大きく軋んだと思ったら、掛け布団の中で体を起こした彼が、私の上に乗っていた。
「え、永志さん?」
「抱かせて」
 真剣な表情で、急にそんなことを言うから、どうしていいかわからずに、顔だけ熱くして彼の顔を見つめ返した。
「イヤ?」
 答える前にロンT脱いじゃってるんですけど、永志さん。
「イヤじゃない、です。あ……んっ、んう」
 唇を重ねられ、激しくキスをされた。永志さんの舌が、私の口の中全部を舐め回してる。全部呑み込まれちゃいそう。あ、彼の大きいのが、私の太腿にあたってる……
 我慢できないというふうに、永志さんは私のパジャマと下着を素早く脱がせ、自分の穿いていたものも全て脱いでしまった。
 あっという間に裸にされて温かな肌が合わさる。ど、どうしちゃったんだろう、永志さん。何かすごい勢いなんだけど。この段階で、いつもより息が荒い感じがするし……
「少し焼けたね」
「……うん」
「ビキニの痕が付いてて、ちょっとエロイな」
「日本だったら、あんなの絶対着れないです」
 永志さんは私のそこら中に、唇を音を立てて押し付けた。その感触にぞくぞくとして体を捩らせると、胸の先端にいきなり吸い付かれた。
「あっ、やぁ……!」
 唇を放し、硬くなった先端をぺろりと舐めて、こちらを見た永志さんと目が合う。
「イヤなの?」
「い、意地悪……」
 クスッと笑った永志さんは再び先端を吸い始めた。
「あ、ああ、永志、さん……んんっ」
 旅行での数日間に何度も抱かれてしまって慣れていたせいか、朝から体がすごく敏感で、とろとろに溶けていくのがわかる。腿に、つうっと蜜が垂れた。
「あ……っ!」
 永志さんの指が濡れているそこを撫で、するりと指を滑り込ませた。
「たくさん濡れてるよ」
「や、言わないで」
 指を出し入れして、わざと水音を響かせている。これじゃあ私のほうが待っていたみたいで……恥ずかしいよ。気持ちよさに腰が勝手に浮いてしまう。
「ごめん、くるみちゃん」
「な……に?」
「もう挿れたい。ダメだ、我慢できない。早過ぎる?」
 眉根を寄せた彼が熱い瞳で訴えてくる。反応した私の下腹が疼いた。確かにいつもより急かされているけれど、私も……すぐに繋がりたいから、いい。
「大丈夫……挿れて」
 返事が終わるか終らないかのうちに奥まで貫かれた。
「ひゃ……っ! あっあっ!」
 一気に突き入れられて、勝手に大きな声が出てしまう。窓、閉まってるよね? 通勤や通学で外を歩く人に聞こえないよね? そう思った途端、背徳感のせいか逆に快感を煽られ、声を我慢することが出来なくなってしまった。
「っあ……あ、あ、あぁ」
「あ、くるみ……好きだよ、くるみ……!」
 熱い吐息とともに名前を囁くその声が、私の体の隅々まで浸透していく。彼の激しい動きに翻弄されながら、その背中に必死にしがみついて彼の名を呼んだ。
「永志、さん、永志さん……!」
 愛しい人。一生傍にいると誓い合った人が、こんなにも私も求めて、私で感じてくれている。なんて……幸せな行為なんだろう。
 何度も何度も揺さぶられて、お互いの息が混じり合って、うっすらと汗を掻き始めた頃……彼が私の内で愛しい熱を放ってくれた。

「あー俺……自己嫌悪」
 柔らかいお布団の中で私を抱き締める永志さんが、深いため息を吐いた。まだ体中が熱くて蕩けている。
「自己嫌悪、ってどうして?」
「昨日こっちに戻ってきて、今朝目が覚めて、隣にいるくるみちゃんが俺の奥さんになったんだ、って改めて実感したら、その、興奮しちゃってさ。自分一人で気持ちよくなっちゃって、ごめん」
 思いがけず差し出された言葉が、私の心臓をぎゅっと掴んだ。それは彼の大きな手のひらと同じ優しい温度で、心や体の隅々までも満たしてくれる。
「ううん、嬉しい。永志さんの、そういうところあんまり見たことないから」
 ほんとに? と聞いた彼へ小さく頷くと、今度は強く抱き締められた。心臓の音が溶け合っていくみたいで、心地いい。
「くるみちゃん、俺さ」
「はい」
「いや……何でもない」
「どうしたんですか?」
 すぐ傍の顔を覗き込む。困ったように笑った永志さんが、また謝った。
「ごめん、変な言い方して。たいしたことじゃないんだ」
「……気になります」
 何かあるのなら何でも言ってほしい。彼にはもう、重たいものを一人で抱え込ませたくはないから。
「ベッド大きいのに買い替えて正解だったよなーと思って」
「……」
「いろんな恰好でできるしな? 前も後ろも座っても」
「も、もう……!」
 本当に、何でもないんだよね?
 胸に起こった小さな不安をかき消すように、永志さんの胸に顔を埋めた。


 翌朝、いつもより早い時間に階下へ降り、仕込みの前にホールのお掃除を始めた。窓を全開にして風通しを良くする。永志さんも早目に厨房に入って仕込みを始めていた。
「うーん、いい天気だー!」
 椅子カフェ堂のドアを開けて伸びをし、外に出てドアに飾られたリースを眺めた。私たちの結婚披露パーティー用のグリーンに真っ白いお花をあしらったリース。
「可愛いから、このままでいいかな」
「何ぶつくさ言ってんだよ」
 聞き慣れた声に急いで振り向き、私を見下ろす不機嫌そうな人へ、深々と頭を下げる。
「職人さん! おはようございます!」
「おう、無事で何よりだな。飛行機の中で子ども用のおもちゃもらってきたか」
「も、もらうわけないじゃないですか。ていうか、人妻の雰囲気ムンムンですので、そういうネタはもう有り得ないですから」
「それお前だけだろ、思ってんの」
 ドアを開けて、相変わらずの職人さんに中へ入ってもらう。私も店内へ入り、彼の前に回り込んで再び頭を下げた。
「職人さん。先日は結婚パーティーの司会をしてくださって、本当にありがとうございました」
「んーどういたしまして」
 職人さんには本当に感謝してる。三人揃って椅子カフェ堂だもんね。職人さんがいてくれて、私と永志さんのことを見守っていてくれるから、安心して仕事ができるんだ。
 顔を上げると、私の前に彼の手が差し出されていた。
「何ですか? それ」
「もらってやるよ、土産。あそこにあるの、俺のだろ?」
 職人さんは壁際のテーブルに置かれた大きな袋を指さした。
「あー、あれは職人さんのじゃないですよ。結婚パーティーに来てくださった商店街の皆さんのお土産です」
「俺のは?」
「ないです」
「は!? 司会して、お前らが旅行中は家具造りしながら、ここの掃除までしてやった俺の分がないとか、逆にすげえな!」
「なーんて嘘ですよ。さっき意地悪言ったお返しです。職人さんのもありますから、その辺で座っててください」
「俺を一瞬でも騙そうとするとは、度胸が据わってきたじゃねーか」
 伸びてきた大きな手をさっと避けて、レジの後ろへ回った。こわー、頭ぐりぐりされるとこだった。

「はいどうぞ。開けて開けて」
 窓際の席に座っていた職人さんに、事務所に置いておいた袋の一つを手渡す。中に手を入れ、取り出した箱を見た彼が、ため息を吐いた。
「……マカデミアナッツチョコって、お前いつの時代の観光客だよ」
「えー美味しいじゃないですか、マカデミアナッツ。いらないならください」
「いやだ。まぁ美味いけどな。好きだけどな」
 もう一つの袋の中身は私が取り出して、職人さんの前に並べた。
「えっと、あとはドライフルーツとコーヒーとクッキーと、はいこれ」
 椅子から立ち上がって、職人さんの首に掛けてあげる。あ、綺麗。
「!?」
「ハワイっぽいでしょ」
「何で俺がこんなもん首にぶら下げなきゃいけないんだよ……! ここ日本だろ!」
 黄色とオレンジの大きな花のレイを掴んだ職人さんが叫んだ。
「似合いますよ〜。ほら、こっちのアロハシャツも一緒にどうぞ」
「お、それいいじゃん。あんま派手派手しくなくて」
 カーキ色にベージュのお花模様だから、落ち着いてて職人さんにも似合うねって永志さんと選んだんだ。探すの大変だったんだから。
「Tシャツもあるんです。夏に椅子カフェ堂で着ようかって。私と永志さんと職人さん、お揃いなんですよー」
「おおー、それはいいな。皆で着ようぜ」
 朝日の入るホールではしゃいでいる私と職人さんの傍に、厨房から現れた永志さんがやってきた。
 あ、仕込みのいい香りが漂ってる。いつもの椅子カフェ堂が始まることに胸が躍った。お休みはもちろん好きだけど、やっぱり私は椅子カフェ堂で働くのが大好きなんだな、と再確認して頬が緩む。
「良晴、レイ似合ってるじゃん。アロシャツも着て店に出れば、お客さん喜ぶんじゃない?」
「お前は鬼かよ。でもまぁ、気に入った。ありがとうな土産」
「いやこちらこそ、司会ありがとう。評判良かったみたいで俺らも嬉しいよ」
 ハワイでSNSを確認したら、パーティーの様子の画像をアップした人がたくさんいた。楽しんでくれたのはもちろんのこと、職人さんの司会が良かった、という感想もちらほら見かけて、私も永志さんもとても嬉しかった。

「あ、そうだ永志。今度の定休日、車使う?」
「いや、使わないよ」
「悪いけど貸してくんない?」
「いいけど、仕事か?」
「仕事じゃないな。ちょっと個人的に使いたいんだ」
「珍しいな。いいよ、使えよ」
「ありがとさん」
 どこにお出かけするんだろう。職人さんの個人的なお出かけって、ちょっと気になる。
 もうひとつあった小さな袋を見つけて、慌てて職人さんに差し出した。忘れるところだった。
「これは小川さんにあげてください。香水とアロマキャンドルなんです。すごく可愛いの。……って、彼女がここへ来た時に私が渡せばいいんですよね」
「いや俺が渡す。今度の定休日に会うから」
「お休みに会うんですか?」
「まぁな。悪いかよ」
「悪くないですけど」
 袋を手渡しながら考えた。さっき職人さん、定休日に車を借りたいって言ってたよね。それってもしかして。
「ということは……小川さんと会うために車を?」
「そういうことになるな」
「ええーー!! まさかもしや、あの……デート、とか?」
 個人的に車を出して小川さんとお出かけなんて、それしか考えられないよね? 思わず興奮して身を乗り出すと、職人さんが頭を掻きながら呟いた。
「デートっていうのか、あれ」
「? どういう意味ですか」
「お前らが旅行中にも出かけた」
「小川さんと?」
「おう」
「ど、どこに……?」
「プラネタリウム」
「ぶは……っ!」
 私が噴き出す前に、横に立っていた永志さんが笑い出した。うん、私も堪えるのが大変です。
「おい、永志」
「悪い悪い、お前がそういうところに行くなんて意外だなーと思ってさ」
 職人さん、ものすごい形相で睨んでるよ。私だって馬鹿にしてるわけじゃないけど、やっぱり聞きたい!
「それでプラネタリウムはどうだったんですか……!?」
「どうって別に。今のプラネタリウムってすごいんだなとは思った」
「手とか繋いだの!?」
「お前は中学生かよ。どうだっていいだろが、そんなこと」
 その言い方は繋いだのでは……と妄想が膨らむ。うーん、でも意外にそういうところは真面目なのかも。
 それにしても不動の職人さんをここまで行動させた小川さん、すごいよ……!
「それで楽しかったのか?」
「まぁ、どっちかと言えば楽しかったんじゃないの。次も会おうと思ったから」
 永志さんの問いかけを受けた職人さんが素直に頷いた。この台詞、小川さんにも聞かせてあげたい……!
「ニヤニヤするな、オラ」
「いたっ!」
 こちらを向いた職人さんに、久しぶりのデコピンを食らわされた。
 怒ってるのかと思ったら、すごく機嫌が良さそうに見える。小川さんとイイ感じなのかな? それだったら私も嬉しい。ここは余計なことをせず、静かに見守ってあげよう、うん。

+

 旅行から戻って二週間が経った、六月中旬の朝。
 住谷パンへ向かう途中で、薄曇りの空を見上げた。梅雨時特有の湿った空気が辺りに漂っている。午後に少し雨が降るみたいだから、干してある洗濯ものに気を付けないと。
「おはようございまーす! 椅子カフェ堂でーす」
 ドアを開けた途端、パンの焼ける香ばしい匂いに包まれた。おじさんが振り向き、いつもの笑顔で答えてくれる。
「おーおはよう! 出来てるから、ちょっと待っててねー」
「お願いしまーす」
 季節の変わり目に必ず新作のパンが出るんだよね。今回は胡桃と無花果がごろごろ入ったハードパンだ。すごく美味しそう。自分用に買っていっちゃおうかな。
「はい、お待たせね〜。今日は特別美味く焼けたよ!」
「ありがとうございます」
「それにしても有澤さんは、えらいねえ。あ、くるみちゃんも有澤さんか」
「え、えへへ」
 笑ったおじさんと一緒に私も笑顔で返す。それにしても、永志さんの何がえらいんだろう?
「あの、えらいって……?」
「ほら海外へ修業に行くって話。雑誌に載って繁盛して、この辺りじゃもう有名店だよ、椅子カフェ堂は。それでもまだ自分の腕を高めに行くって言うんだから、たいしたもんだ。いい旦那だよねえ。奥さんのためかな?」
 どくん、と心臓が大きな音を立てて、目の前が暗くなった。
 おじさんがしているのは誰の話……? 私、そんなこと知らない。全然、何も、知らない。
「くるみちゃん?」
「あ、その新作美味しそうだなって思って。買ってもいいですか」
「いやいや、オマケで入れてあげるよ、大サービス」
 ありがとうございますって笑顔で返事をして、胡桃と無花果のパンが三つ入った紙袋を受け取った。

 気が付けば椅子カフェ堂とは反対方向へ歩いていた。
 修業って、本当に……? 海外に行くなんて私、何も聞いていない。ふと、新婚旅行から帰ってきた翌朝のことを思い出した。
 永志さんは何かを言おうとして、やめた。苦笑いをして、私を優しく抱き締めた。もしかして、このことを言いかけていたの……?
 覚束ない足取りで、駅前を通り過ぎ、向こう側の商店街に入る。
 逃げたって仕方がないのに、足はどんどん椅子カフェ堂から遠ざかっていく。胸がすごく重苦しい。
 ショックだった。何で、そんな大切なことを言ってくれなかったんだろう。私は永志さんの奥さんなんだよね……?
「くるみちゃん」
 男の人の声に振り向くと、そこには眼鏡を掛けてスーツを着た、みもと屋の息子さん、古田さんがいた。