頬を突き刺すような午後の冷たい北風が、私の巻いていたマフラーのフリンジを揺らした。
「くるみちゃん? どうしたの?」
 手にしていたお土産の袋を落としそうになった私を見て、永志さんが顔を覗き込む。
「いえ、あの……本当に、ここなんですか?」
「そうだよ。ほら、ここ」
 彼が指差した表札を見る。うん、門の横に「有澤」って書いてあります。優しい笑顔に応えたいけど、どうしたって顔が引きつっちゃうよ〜。

 一月中旬、三連休最終日の今日、私たち二人は結婚の挨拶に彼の実家へ訪れた。もちろん私はここに来るのは初めてで、それだけでも緊張しているんだけれど、現れた大きな家を目にして、緊張どころか胃が痛くなってしまった。
 都内の高級住宅街にあるこの家は、彼のお父さんが再婚を機に建てたもので、その前から独り暮らしをしていた永志さんは、ここに一度も住むことなく椅子カフェ堂に落ち着いたらしい。
 それにしても何坪くらいあるんだろう。シャッターの下りている駐車スペースは三台分あるし、門の向こうにあるモダンな造りの二階建て住宅の横には、綺麗な芝生のお庭がある。この広さに永志さんのお父さんと再婚相手の人、二人だけで住んでるんだよね? 古田さんも言ってたけど、やっぱり永志さんのお父さんてすごい人なんだ……。
 はぁ、とため息を吐いたと同時に隣で永志さんが、門の横にあるインターホンを押した。
『はい』
「永志です。帰りました」
『お帰りなさい。今開けますね』
 その声に両肩が縮こまってしまう。私、変な恰好じゃないよね? コートの前を直していると彼がクスッと笑った。
「そんな緊張しなくていいって」
「だって今の、永志さんのお母さんですよね?」
「いや、家政婦の角田(かどた)さんだよ」
「か、家政婦さん?」
「うん。ここを建てた時からいるんだ。週に何回かは泊まり込みで働いてくれてる。すごくいい人だよ」
「……そうなんですか」
 さすがというか何というか……。家政婦さんなんて、テレビドラマでしか見たことないよ。

 門から入り、永志さんが玄関前に立つと同時に、大きな扉が開いた。
「お帰りなさい。永志さん」
「ただいま。親父は?」
「今いらっしゃいますよ」
 にっこり笑った家政婦の角田さんが、私たちを中に入れてくれた。マフラーを取り、コートと靴を脱いだところで、奥から彼のお父さんが現れた。
「おかえり」
「ただいま。彼女が駒田くるみさん。店で会った事あるよね?」
「ご無沙汰しております……!」
 深くお辞儀をして挨拶した。
 彼のお父さんに会うのは、椅子カフェ堂の存続を認めてくれた時以来の数か月ぶり。き、緊張する……!
「ああ、久しぶりだね。待ってましたよ」
 優しげな声にホッとして顔を上げた。そこには声色と同じ温かな表情。
「角田さん、お茶お願いね」
「はい。リビングでよろしいですか?」
「そうだね。頼むよ」
 頷いた角田さんはそこを去り、永志さんのお父さんが足を踏み出した。私も彼もお父さんの後ろをついて行く。
 二人の後姿を見比べた。彼のお父さんがお店に来てくれた時も感じたけれど、笑顔が永志さんに似ている。この年代の人にしては背が高い。お腹が出ているわけじゃないし、服装も若々しくて素敵なんだよね。永志さんも、いずれはこんなふうになるのかな……
 リビングと思われるお部屋に入った所で、永志さんがお父さんに訊ねた。
「弓子さんは?」
「二階の部屋にいるよ」
「……何で?」
「最近イライラが酷くてな。……お前が会社を継がないなんて言うから」
 彼の問い掛けに、お父さんがこそっと答える。
「俺のせいかよ」
「あ、くるみさんは気にせんでいいからな?」
「は、はい……」
 くるりと振り返ったお父さんが私に微笑んだ。
 弓子さんは永志さんのお父さんの再婚相手。永志さんの五つ年上という若さらしかった。どんな人なんだろう、と思ったその時、階段を下りてくる音が聴こえ、振り向くと綺麗な女性がこちらへやってきた。
「……いらっしゃい」
 私と永志さんの前で立ち止まった女性は、不機嫌そうな表情を私たちに向けた。
「お久しぶりです」
「そうね」
 永志さんの挨拶に女性はにこりともせず小さく頷いた。細身のワンピースに綺麗な色のニットを羽織った線の細い人。緩く巻いた長い髪、大きな切れ長の目に、引き結んだ唇。貴恵さんとは違うタイプの綺麗な人だった。
 この美しい人が……。
 椅子カフェ堂存続に反対して、永志さんに会社を継がせようとした、その人なの?
「弓子、彼女がくるみさんだ」
 お父さんの言葉に慌てて頭を下げる。
「初めまして。駒田くるみといいます」
「どうも。そんなところに突っ立ってないで、皆さん座ったらどうなの?」

 前を通り過ぎた弓子さんに促され、広いリビングの一角にあるゆったりとしたソファへ座る。
 大きな窓から冬の陽射しが入り、明るくて暖かく、心地よい空間だった。目の前にあるお庭が綺麗。手入れをされた芝生の隅には花壇があってお花が咲いている。
 角田さんが紅茶を淹れてくれた。いい香りが鼻先をくすぐる。よし、出すなら今だよね。
「あの、これ良かったらどうぞ召し上がってください。私が作ったチーズケーキです」
 彼のお父さんの前に差し出した。
「ああ、どうもありがとう。このチーズケーキは、とても美味しいんだよ。弓子、今いただくかい?」
「……いらないわ。今は食欲ないのよ」
「そうか。じゃあ、後でいただくかな。冷蔵庫に入れておくか。よいしょっと」
 怠そうに呟いた弓子さんの口調を気にするでもなく、お父さんはケーキの箱を持って行ってしまった。
 弓子さんは不機嫌そうな表情のまま、お庭を見つめてから、紅茶を口にして溜息を吐いた。
 どうしたらいいんだろ、この雰囲気。沈黙が怖いよ……。
 不安になって横に座る永志さんを見つめると、気付いた彼が、ん? という表情で見つめ返してくれた。口をひらこうとした時、弓子さんが言った。
「永志さん」
「あ、はい」
「彼女をどうするつもりなの?」
「え?」
「結婚してからのことよ」
 射抜くような視線で永志さんを見つめてる。私、何か怒らせるようなことでもしたんだろうか?
「どうするっていうのは?」
 弓子さんは永志さんの質問には答えず、私の方へ顔を向けた。
「あなた、もちろんお仕事は辞めて家のことに専念するのよね? 子どもはすぐに作るんでしょう? 早く産んでちょうだいよね」
「ちょっと弓子さん」
 身を乗り出した永志さんに彼女が言った。
「永志さんが継がないと言うのなら、あなたたちの子どもをこちらで養子にして継がせたっていいと言っているのよ」
「な、何訳の分かんないこと言ってるんですか!?」
「あなたが義志(よしじ)さんの会社を継がないことは仕方なく承知したけど、結婚まで承諾するなんて言った覚えはないわよ、私」
 弓子さんは紅茶の入ったカップの持ち手を取り、優雅な仕草で紅茶を飲んだ。
 思ってもみなかった言葉を次々と投げられて、上手く考えがまとまらない。椅子カフェ堂は守れたけれど、永志さんとの結婚は駄目、なの……? 子どもを引き取る? 結婚もまだなのに、どうしてそんなことを言うの?
 困惑して俯いた私の右手を彼がぎゅっと握った。驚いて顔を上げると、彼は弓子さんに向かってきっぱりと言い放った。
「親父がキッチンから戻ったらすぐに言うつもりでしたが、俺は彼女と結婚します。認められなくても構わない。ましてや子どものことなんて、あなたにとやかく言われる筋合いはない」
「それで?」
「弓子さんは親父と仲良くやっていれば、それでいいじゃないですか」
「永志さん待って」
 彼の真剣な横顔に、熱い思いが込み上げた。
「くるみちゃん……?」
 私を振り向いた彼の瞳を見つめてから、視線を弓子さんに移す。こちらを睨む彼女の眼差しが怖かったけれど、でも……永志さんを大好きな気持ちは認めて欲しいから。
「あの、永志さんの料理、召し上がったことありますか?」
「は? あるわけないでしょ」
「でしたら一度、椅子カフェ堂にいらして下さい。永志さんが作った料理を食べてみて欲しいんです」
「嫌よ、あんな汚い店。義志さんと車で通り過ぎたことのある所でしょ?」
 リビングへ戻ってきたお父さんに向けて、弓子さんが大きな溜息を吐きながら言った。
「いや、それは有澤食堂な。永志はそこをリニューアルさせてるから、あの時よりはずっと綺麗だよ」
「義志さん。私が好き嫌いたくさんあるの、知ってるでしょ? 意地悪言わないでよ」
「メニューは豊富だから、ひとつくらい弓子が好きなものはあるんじゃないか?」
 永志さんのお父さんは、バツが悪そうにひとつ咳払いをした。
 椅子カフェ堂のメニューを網羅していたんだから知ってて当たり前なんだけど、その点を反省している表情なの、かな?
 気を取り直して、もう一度弓子さんに話しかけてみる。
「お待ちしています。私、チーズケーキだけじゃなくて、他にもスイーツを作っているんです。ぜひ食べにいらしてください」
「食べに行ったから何なのよ」
「食べていただければ、永志さんと私の思いが伝わると思うんです」
 永志さんのおばあさんに、彼の味が伝わったように。美味しいものは、それだけで人を幸せにしてくれる不思議な力があると思うから。
「弓子、行っておいで。彼女が作るデザートは本当に美味しいよ。それとも私が一緒について行こうか?」
「それくらい一人で行けるわよ。あ」
 弓子さんが、しまったという表情をした。すかさず立ち上がり、彼女に頭を下げる。
「お待ちしています」
「……ひとくち食べて不味かったら、その場で帰るわよ」
「それはもちろん、って……いいですよね? 永志さん」
「ああ、願ってもない話だね。ありがと、くるみちゃん」
 私に微笑んだ永志さんは、背筋を伸ばしてお父さんに向き直った。
「親父も俺たちの結婚に反対してる?」
「私は……弓子が椅子カフェ堂に行った後に、決めるかな」
 永志さんのお父さんは私の顔を見て笑った。その表情はとても優しくて……私たちのことを反対しているようには見えなかった。

 冬の夕暮れの道を彼と並んで歩く。昼よりもずっと冷たい風が吹き、澄んだ空に星が瞬き始めていた。
「くるみちゃん」
「はい」
「ごめんな、嫌な思いさせて。まさか弓子さんが、あそこまで言うとは思わなかったんだ。ほんと、ごめん」
 歩きながら私の肩を抱いて引き寄せた永志さんが、悲しそうな声で言った。彼のダッフルコートに頭をくっつけて返事をする。
「謝らなきゃいけないのは私の方です。……ごめんなさい」
「何で、くるみちゃんが謝るの?」
「椅子カフェ堂に来て下さいなんて、勝手に言い出しちゃったから。でも私、どうしても黙っていられなかったんです」
「それは全然気にしなくていいよ。くるみちゃん、かっこよかったし。俺の出る幕無かったな」
 笑った永志さんが私の肩をもっと強く抱いた。それに応えるように、私も彼の腰にそっと手を回す。前よりは自然にできるようになったと思うんだけど、まだ少しだけ恥ずかしい。
「ああいう時は怒っちゃいけないって、学んだんです」
 回したその手を彼の右手に取られた。
「学んだ?」
「はい。私、和フェアの打ち合わせで古田さんに言われたことにかっとなって、つい大きな声出して怒っちゃったんです。でも古田さんは全然余裕で、怒るどころか……楽しそうに笑っていました」
「それって、言い合いになったんじゃなかったっけ?」
「私だけが怒っていたように思えます。古田さんは、大人でした」
 椅子カフェ堂に嫉妬したと正直に話してくれたことも、そのあとからしっかりと話し合いしてくれたことも、コラボした商品の通販まで考えてくれたことも、古田さんが自分の仕事を足元からしっかりと固めていたからこそ、なんだよね。年齢が上だからというだけではなく、あの余裕は私にはまだ真似できない。
「……ふーん」
 う、この返事は……。もしかしてまた焼きもち妬いてくれてる? それは嬉しいけど、前みたいに変に誤解されたら私の身が持たない……!
「あの、別に古田さんと会ってるとかないですし、たまに偶然買い物に出た時に会っちゃいますけど、餡子のことはおじさんとおばさんに直接聞いてますし、だからその……」
「そんな慌てなくても大丈夫、わかってるよ。俺も朝商店街でたまに会うしさ。それに古田さん、最近結婚したんだよね?」
「あ、そうみたいです。お見合いしたって言ってましたけど、どんな人なのかな」
「あの人のことだから、好みとかうるさそうだよな〜」
 彼が笑ったから、ホッとして私も顔を上げて笑う。気付いた彼が私に向けて言った。
「とにかく俺は誰に何と言われようと、くるみちゃんと結婚するから」
「……永志さん」
「これだけは譲れないから、安心してていいよ」
 胸がきゅんとして同時に温かさが体の隅々まで広がっていく。こんな思いにさせてくれるのは、永志さんひとりだけ。
「すごく嬉しい、です。でも頑張らせて下さい」
「頑張る?」
「うん。やっぱり納得してもらいたいから。永志さんの……」
 自分で言うのは恥ずかしいこの言葉。だけど聞いて欲しいから、彼の瞳を真っ直ぐ見つめて伝える。
「お、お嫁さんとして、きちんと認めてもらいたいの」
「……くるみちゃん」
「わ」
 な、何? 急に立ち止まるから、つまずきそうになってしまった。彼は私を道の端に寄せて、優しい声で囁いた。
「ありがとう。嬉しいよ」
「!」
 少しかがんだ永志さんが私に軽くキスをした。こ、こんな場所でまた……。もうすぐ駅に着く住宅街の道は静かで、人通りが少ないから大丈夫だとは思うけど焦ってしまう。
「続きはあとでね」
「……続きって?」
「今夜は俺の部屋来ないの?」
 当然のように言う彼に顔を覗き込まれて頬が熱くなる。いつまで経ってもドキドキさせられて困ってしまう。
「い、行きます」
「うん。おいで」
 頭をぽんと撫でた彼はその手で私の手を取り、再び歩き出した。
 永志さんとずっと一緒にいたい。私を大切にしてくれる永志さんを、私も大切にしたい。彼が結婚することを、彼の家族に喜んでもらいたい。心から、そう思うから。

 凍りつきそうな細い三日月を見て、大きく息を吸い込んだ。
「永志さん、作戦会議しましょう!」
「お、おう。って、え? 作戦会議?」
「そうです。弓子さんが椅子カフェ堂に来る前に。私、新作考えます……!」