冷たい風が吹くバスターミナル。空は青く、雲一つない冬晴れのお天気。時間はお昼の一時を過ぎたところ。
家の最寄駅前で待っていると、見覚えのある車が目の前で止まった。助手席のドアが開き、出てきた永志さんが私に笑いかける。
「待った?」
「いえ、全然です」
「くるみちゃんの荷物、貸して」
私の旅行バッグを手にした彼が、車の後ろに回り込み、トランクに入れてくれた。
「いいお天気で良かったですね」
「うん。楽しみだね」
優しく微笑んで頷いた彼が、私の左手を掴んでぎゅっと握る。途端に罪悪感の針が、胸の奥をちくっと刺した。
「……ごめんなさい」
「ん? 何が?」
「今日はしてないの。エンゲージリング」
「え? ああ、いいよ別に。何で謝るの?」
「本当はいつでもどこでもつけていたいんだけど、今回は温泉だし、変色したら嫌だし、何より絶対絶対失くしたくないから部屋に置いて来たの」
何もいらないって言っていた私に、どうしてもあげたいからと彼が贈ってくれた大切な指輪。
「失くしたら、また買ってあげるよ」
「そんなのだめ」
「真面目だなぁ、くるみちゃんは」
「だって……大事なの」
俯いた私の頭を、彼の大きな手がいつものように優しく撫でてくれた。
「ありがと。好きだよ、くるみちゃん」
「私も、好き」
顔を上げて彼の瞳を見つめる。何度も何度も交わされる、この言葉。私、毎日こんなに幸せでいいのかな。
「乗ろうか。良晴が待ってる」
「はい」
彼がドアを開けてくれた後部座席へ乗り込む。首にぐるぐる巻いたマフラーを外し、ダウンコートを脱ぎながら運転席に挨拶した。
「職人さん、こんにちは。運転お疲れ様です」
「どんだけ厚着してんだよ。雪だるまか」
もしかして……職人さん髪切った? 何だかんだ言って張り切ってるのね。
「だって寒いんですもん。車の中はあったかいですね〜」
後部座席にあった彼らのコートを端に寄せ、私のコートと小さなバッグもそこへ置き、シートベルトを締めた。
「出発するぞー」
「お願いします」
運転は職人さん。助手席に永志さん。私は後ろで悠々と到着まで寝ちゃおっかな〜なんて。その時、バックミラーに映った職人さんの視線とぶつかった。
「お前ら一瞬でも寝てみろ。ぶち殺すからな」
怖っ! 完全に心読まれてるよ。
「ナビと話してればいいじゃん」
職人さんの言葉に、穏やかな声で永志さんが答える。
「お前は鬼か。このナビ信用ならねーんだよ。勝手に遠回りしてくし。第一、俺どこに行くのかもよくわかってないんだから永志が指示しろよな」
「わかってるって。とりあえず高速乗ろう」
今日は椅子カフェ堂、冬休みの初日。
前に永志さんが宣言した通り、私たちは社員旅行の為に温泉へ向かっていた。今年はたくさん頑張ったし、夏休みが少なかったということで、永志さんが年末年始の休みを増やしてくれた。まだ帰省ラッシュに入る前だから道も空いている。
途中のサービスエリアに寄り、お手洗いから出て、待ってくれていた永志さんの傍に駆け寄った。彼と一緒に大きなフードコートへ入る。
「あれ? 職人さんは?」
「なんか必死になってメロンパン探しに行ったよ。美味いんだって」
永志さんと顔を見合わせて笑っていると、職人さんがこちらへやって来た。手にはソフトクリームと、ビニール袋を提げている。永志さんが言ってたメロンパンかな?
「めっちゃうまいぞ、これ」
職人さんが食べているのはジャージー牛のソフトクリーム。真っ白いクリームが美味しそう。
「くるみちゃんも食べたい?」
永志さんが私の顔を覗き込んだ。
「食べたいけど、一個は無理かも……」
「じゃあ俺と半分個しよ」
そう言って、すぐに買ってきてくれたソフトクリームを、永志さんと代わりばんこに舐め合った。もう、もう恋人同士って……すごくいいよね。
「くるみちゃん、着いたよー」
遠くから彼の声がして、ゆっくり瞼を上げた。着いたって、どこに? ハッとして頭を上げる。またやってしまった!
「ご、ごめんなさい。寝ちゃってた……」
いつの間にか宿泊先の駐車場に到着していた。車中に流れていた音楽を聴いてたら、つい気持ちが良くなって……。サービスエリアを出た後、富士山が見えるって騒いだくらいまでは覚えてたんだけど。
先に車から降りた二人のあとに続き、三人分の上着を手にドアを開けた。砂利の上に降り立つと、トランクから出したらしい自分のバッグを持った職人さんが、私の前に立ちはだかった。
「おい、くるみ。何だそのヨダレは!」
「え、あ、わーすみません!」
職人さんに突っ込まれて、慌てて口の端に手をやる。恥ずかしい! って……何にもついてないんですけど。
「寝るなつったろうが。お前、あとで覚えてろよ」
あとで何されるんでしょうか……。怖いよー。自分のコートを私の手から受け取った職人さんが、歩きながら続けて言った。
「温泉のあと、卓球でぶちのめしてやるからな!」
「た、卓球なんてあるんですか?」
私の疑問に、隣で永志さんが笑った。
「多分ないと思うよ。そういう感じのとこじゃないから」
私からコートを受け取った彼は、そのまま私の荷物を持ってくれていた。
「ないのかよ? 何だよ〜張り切ってたのに」
「お前どうせ酒飲んでできないだろ」
「あーまぁそうだけどさ。でも残念」
ものすごく荒々しい卓球を想像してしまった。ほんとにぶちのめされそう……。置いてなさそうで良かった。
永志さんのお父さんから紹介されたという温泉旅館は、落ち着いた外観が老舗を思わせる風情を醸し出していた。
離れに案内してもらった私たちは、その部屋の広さに驚いた。仲居さんが立ち去ってから三人で部屋中をうろうろする。
「広いですねー」
「三人じゃもったいないくらいだな」
十畳の和室が二部屋あり、襖で仕切られている。座卓と座椅子がある方に、ソファを置いた八畳ほどの板の間が繋がり、窓の向こうには美しい日本庭園。このお部屋専用のお庭かな? その板の間から直接露天風呂に出られた。広々としたデッキにベンチとリクライニングチェアが置いてあり、湯船は二人が入って足を伸ばせる広さだった。
仲居さんが私たちに合わせた浴衣と羽織を持ってきてくれた。襖を閉めて、それぞれ着替える。浴衣を着るのなんて久しぶりだよ。合わせはどっちが前だったっけ? あれこれ思い出しながら糊の利いた浴衣を身に着け帯を締め、羽織を着た。
「あのー、着替え終わりました」
襖の向こうに声を掛ける。
「こっちも終わったよー」
永志さんの返事に襖をゆっくり開けて、畳の上を一歩踏み出した。
「お、くるみちゃん可愛いじゃん! こっちおいで」
私を見た彼が手招きする。
私なんかのことより永志さんが……素敵! 彼の浴衣姿に、よろめきそうになりながら近づいていく。襟元から少し覗いた鎖骨とか、細い腰に巻かれた帯とか、どうしたらいいの! 羽織も妙に男らしいというか色気があるというか……もうどうしよう。
「たまにはいいねぇ。色っぽいよ」
「それはこっちの台詞です。永志さん、すごく似合ってる」
「こういうの好き?」
「好きです」
好き好き大好き! って抱きついちゃいたいくらい。溜息を吐いて彼と見つめあっていると横から低い声がした。
「おい、お前ら」
いけないいけない。また二人の世界に入り込んでしまった。
「職人さんも似合ってますねー浴衣」
それは本当。背が高い二人が並んでいると、圧倒される感じだけど、二人ともカッコいいからよく似合ってる。
「お前も良かったな、合うのがあって」
「?」
「子供用だろ、それ」
「ち、違います! っていうか、いつでもどこでもブレませんね、職人さんは。ある意味尊敬します」
「恐れ入ったか」
はい、恐れ入りました。私も少し見習わせてもらいたいけど、逆にシメられそうだから、やっぱりやめておこう。
お部屋の露天風呂はあとで、ということになり一先ず大浴場へ向かった。彼らと時間を決めて、男女の入口前で分かれる。
古いけれど清潔感のある脱衣所で羽織を脱ぎ、帯を外した。温泉の匂いがする。永志さんたち、仲良く入っているのかな。なんか想像すると笑っちゃう。
大浴場の引き戸を開けると温かい蒸気が体を包んだ。誰かが使う桶の音が、コーンと響いた。あー早くあったまりたい。暗くなる前に露天風呂に入っちゃおう。
体を流して外に出た。まだ時間が早いのか、露天風呂には誰もいない。雪の冠を被った富士山が見える。
「くーっ、寒いー」
湯船は目の前にあるのだけど、辿り着くまでの数歩がつらい! 湯煙の中、石造りの露天風呂へ足先をそろりと入れる。熱く感じるお湯に、ゆっくりと腰まで沈み、頭にタオルを載せた。
お湯の中にしゃがんで入り、肩まで浸かりながら、広い方へ移動した。
じわじわと体中が温まってくる。いい気持ち。思わず、ふう、と大きな溜息を吐いた。夕暮れの早い空を仰ぐと、高い場所を鳥が飛んでいた。体がほぐれると同時に、たくさんのことが頭を過ぎった。
この一年、本当にいろんなことがあったなぁ。
na-nohaの撮影は、ちょうど一年前だった。初めて雑誌に掲載されて、そのあとカフェ・マーガレテが出来てピンチがやってきて、職人さんはいなくなっちゃうし、椅子カフェ堂はしばらくギリギリの状態だった。
田原さんに創刊号の話を貰って、職人さんが帰ってきて、永志さんのお父さんにも認めてもらえて、椅子カフェ堂の存続が無事に決まって……ピンチの後はいいことずくめの日々だった。
透明なお湯に、どこからか飛んできた枯葉が一枚落ちた。そこから綺麗な波紋が生まれ、私の前まで辿り着いた。
でも、存続が決まったから安泰というわけじゃなくて、椅子カフェ堂はまだやっとスタート地点に立ったばかりなんだよね。これからもっともっと、今まで以上に私も努力していかないと。
……プロポーズもされたんだし。
「……」
真面目なことを考えていたのに、どうしてもにやけちゃう。思い出すだけで赤面してしまう。
自分の部屋に置いて来た婚約指輪は、シンプルで華奢なデザインのダイヤモンドリング。仕事中はつけられないけど、永志さんとお出かけしたり、彼の部屋にお泊りの時には、必ず身につけて過ごしていた。家にいる時も、自分の部屋で指にはめたリングを見ては、ずっとニヤニヤしてる。
結婚式の話も出てるし。なんだか本当に、幸せすぎて……あ、のぼせそう。そろそろ出ようかな。
と、とにかく浮かれてばかりもいられないの。なかなか餡子作りも上手くいかないわけだし。このままじゃ、古田さんにまたお世話になることが確実になってしまう。永志さんの和食メニューに合わせた和スイーツのために頑張らないと。
露天風呂から出て洗い場で体と髪を洗い、今度は内風呂に入ってゆっくりとお湯を楽しんだ。
女風呂の暖簾をくぐって廊下に出ると、傍にある木製ベンチで二人が私を待っていた。