しがみついた私に焦った彼は、すぐに片付けの手を止めて私の顔を覗き込んだ。
「どうしたの? 何かされた!?」
「違うんです。彼女、雑誌の副編集長さんだったんです。あの男性が編集長で」
「編集長?」
 貰ったばかりの名刺を彼に見せる。
「とにかくホールに来て下さい。椅子カフェ堂を掲載したいっておっしゃってるんです」
 簡単な説明をして、店長を彼らの前に連れて行った。

「新川昭三と申します」
「店長の有澤永志です」
 二人が名刺を交わした後、田原さんが店長と名刺を交わし合った。
「すみません、閉店のお時間をまたいでしまって」
「いえ大丈夫ですよ。どうぞお座りください」
 恐縮している二人に席を勧めた店長が、彼らの隣のテーブルに着く。私も店長の正面に座った。
「お時間を取らせて申し訳ありません。実はこの度、飲食店に関する新しい雑誌を創刊することになりました。それでぜひ、椅子カフェ堂さんにご協力願いたいと思いまして」
 新川さんが丁寧に店長に説明を始めた。
「どのようなものでしょうか?」
「na-nohaという雑誌はご存知ですよね? 以前掲載されたかと思うのですが」
「ええ」
「na-nohaの派生誌として『カフェどころ』という雑誌を夏に創刊予定なんです。創刊第一号に、こちらの椅子カフェ堂さんの特集をさせていただきたいのです」
 新川さんの言葉を田原さんが遮った。
「急にごめんなさい。本当は、今夜は編集長に知ってもらう為にここで食事を済ませて、編集部に帰ってから会議で決める筈だったんです。そこからメールして、という段階を踏もうかと」
 彼女の説明に新川さんがその場で頭を下げた。
「申し訳ありません。実際来てみたらもう、このお店を掲載したいと、いても経ってもいられなくなりましてね。だったらこの場でお話した方が早いかと思いまして」
「そうでしたか。ありがとうございます」
 頷いた店長は彼らの話を真剣に聞いていた。阿部さんの時とは違い、笑顔が見えない。緊張してる? それとも、もしかしたら私と同じで、まだ彼らの話を信用していないのかな。

「葉嶋出版ということで、よろしいんでしょうか?」
 店長は私が思った通り、彼らのことを確認した。うん、そこははっきりさせた方がいいと思う。舞い上がってて、周りが見えなくなったら怖い。
「そうです。私も以前はna-nohaにいたんですが、新雑誌創刊で配属が変わりました。阿部は私の部下だったのよ」
 田原さんが私に向かってにっこり笑った。
「と言っても信用できないかな。ちょっと待って下さいね」
 彼女は鞄からスマホを取り出し、電話をした。
「阿部ちゃん? 田原です、お疲れ様。今どこ? うん、うんそう。あらすぐ傍じゃない! 椅子カフェ堂さんにお邪魔してるんだけど来れる? 新川さんも一緒。あ、有澤さん、お時間まだ大丈夫ですか?」
「大丈夫です。阿部さんならお会いしたいですし」
 頷いた彼女は阿部さんとの電話を終えた。
「二十分ほどで到着するそうです。彼女が来るまで、もう少し説明をさせてもらってもいいですか?」
「はい。お願いします」

 彼女はその後、自分のタブレットでweb検索をし、葉嶋出版社のホームページに掲載されたna-noha別冊の名称と編集長の名前を名詞と照らし合わせた。
 阿部さんとの電話で信ぴょう性も増し、私も店長も安心して話を聞く体勢に入った。
「椅子カフェ堂さんは、今のところ他に掲載予定はありますか?」
 新川さんが大きな黒い革のシステム手帳にメモを書いていく。
「今週末にあるんですけど、それは地元の町雑誌で、他のお店と並んで小さく載るくらいです」
「そうですか。安心しました」
「安心?」
 問いかけた店長に、新川さんが答えた。
「正直に言いますとね、他誌に取られたくないんですよ」
「え」
「本誌にすら渡したくないな」
 新川さんの低い声に何だか感動してしまった。渡したくない、なんて。椅子カフェ堂に、それほどの価値を見出してくれたということだよね?
 その時、からりんと扉がひらいた。そこには久しぶりの顔。
「こんばんはー」
「阿部さん」
 店長が立ち上がり、私もあとに続いて席を立って、彼女にお辞儀をした。
「有澤さん、駒田さん、ご無沙汰してます」
「こちらこそご無沙汰しております」
 私の名前を憶えててくれたんだ。何だか感動。
 田原さんが阿部さんの方を振り向いた。
「阿部ちゃんごめんね。どうしても椅子カフェ堂さんに信じて欲しかったの。私たちが怪しい者じゃないってこと」
「怪しさが払拭できるか分かりませんけど、お役に立てるなら」
 クスクスと笑った阿部さんに、店長が田原さんの隣の席を勧めた。
「阿部ちゃん、相変わらず失礼よね」
「新川さんも出掛けるって聞いてたんで、そんな気はしてました。いつも急なんですよね〜」
 何かを用意しようとした店長を止め、阿部さんは彼に話した。
「有澤さん、田原さんはやり手なんですよ。全部自分の足で歩いて、舌で味を確かめて、その目で見て納得したお店だけを情報に載せるんです。田原さんが目を付けたお店は必ず上手くいくと言われているくらいなんです」
「だから先に阿部ちゃんに持っていかれて悔しかったわ〜。私の方が先にここを見つけたのに」
 口を尖らせた田原さんをスルーして、阿部さんは店長に言った。
「私が取材させてもらった時よりも、もっと素晴らしい記事に仕上がると思います。どうでしょうか?」
「ええ。ぜひお願いしたいと思います」

 そこから本格的な話に変わっていった。時計の針は九時を指している。
「ムック本というのはご存じですか?」
「ムック本、ですか?」
 店長がよくわからない、という表情をすると新川さんが説明を始めた。
「雑誌と書籍の間、というのがわかりやすいかもしれませんね。例えば旅行の雑誌やインテリアの本なんかが多いです。隔月刊などで、雑誌よりも厚くてしっかりとした作りのモノなんですが」
 いくつかの有名雑誌を取り上げて説明してくれた。私もたくさん持ってる。
「それならわかります」
 店長の返事に今度は田原さんが話を繋げた。
「初回からしばらくは隔月刊で出していく予定なの。創刊号の特集は『毎日通いたい個性派カフェ』」
 毎日通いたい、個性派カフェ……。
 店長は誰でも気軽に入れる、何度でも通いたくなるお店にしたいと、以前私に話してくれた。その椅子カフェ堂に、ぴったりの特集だと思う。
「このムック本が順調にいけば月刊誌になります。月刊誌になる前に、彼女の食べ歩き書籍を出す企画が出ているんですが、ご了承いただければそちらにも椅子カフェ堂さんを掲載したいんです。ただ、まだこちらは完全に予定が立ったわけではないので、はっきりとした期日は出せないんですが、それは追々ということで」
 体中に鳥肌が立った。書籍に……掲載。まだ喜んじゃ駄目。今言われた通り、これは決定された企画ではないんだから。
「ご存じでしょうけど、とても食いしん坊なの私。ここは理想的だわ。本格的なカプチーノに美味しいチーズケーキ、料理も文句なし。テーブルと家具が素朴で内装はシンプルで落ち着いている。帰り際にヴィンテージ雑貨を眺めて気に入ったら家具も買える」
 田原さんは顎に手を置いてぼんやりと空を見つめた。あ、この表情、ここで料理やケーキを食べている時のものと同じだ。
「料理やスイーツが完璧に美味しくて、家具も雑貨もここまで良いモノを揃えているカフェなんて滅多にないわ。そしてまだそれほど目立っていない。掘り出し物のお店なんだから放っておけないわよ」
「彼女が一押しって言うから来てみたんです。やっとわかりましたよ。創刊号のイメージも固まりました」
 新川さんが田原さんの様子を見ながら笑った。阿部さんも同じ表情で微笑んでいる。
「駒田さん、でいいのかしら」
 我に返った田原さんが私に言った。
「はい。駒田くるみです」
「駒田さん、この前は失礼な事を言ってごめんなさい。あなたを試したんだけど、私の負けでした」
 カフェ・マーガレテと比べられたこと? あの時彼女に言った言葉は、逆に自分を支えてくれた気がする。
「真剣に取り組んでいるところは必ず成功する。それがあちこちから感じられるんです、このお店は。特に駒田さん、あなたから感じられるの」
「そう、ですか?」
「くるみって、このお店にぴったりの可愛い名前ね」
「あ、ありがとうございます」
 大人の微笑みと言葉に照れてしまう。

 彼女はタブレットに予定表を表示させた。
「創刊号は夏に発売だから、できれば梅雨に入る直前がいいのよね。雨が降らない内に。六月の初めでどうでしょうか?」
「ええ。大丈夫です」
 店長が頷くと彼女は新川さんに確認した。
「いいですか? 編集長」
「そうだな。余裕を取りたいからそれくらいでいいと思うよ」
「有澤さん、夏用のメニューを作っていただけますか? 駒田さんのスイーツもそれに合わせて下さったら嬉しいかな」
 タッチペンで予定を書き込んでいる彼女の手元を見ながら、ふと思い出した。
「店長。それくらいならショーケースが届いていますよね?」
「そうだな。月末って言ってたから、ちょうどいいかもしれない」
 テイクアウトを始めることを話すと、それも宣伝材料になると言って彼らは喜んでくれた。
「予定としては……六ページ分、写真の出来具合によっては表紙にも使わせていただくかもしれないけれど、そこは大丈夫ですか?」
 彼女に訊かれて、彼も私も返事ができなかった。店長の気持ちが痛いほど伝わってくる。驚きと嬉しさと信じがたい喜びで、声が出ないんだよね……?
 黙り込んでいる私たちに、田原さんが残念そうな表情をした。
「駄目だったかしら? 無理だったら断ってね?」
「いえ……ぜひ、ぜひその方向でお願いします!」
 絞り出すように放った店長の声は震えていた。私も、胸の前で組んだ手の震えが止まらない。

 説明が終わり、帰っていく田原さんたちをお店の外で見送った。彼らの姿が見えなくなっても、私と店長はその場で立ち尽くしていた。
 夜風と共に、さわさわと樹々のざわめきが聴こえる。通り過ぎる車のライトが私と彼を照らしていった。いつまで経っても足が動かないよ。
「夢じゃ、ないんですよね?」
「撮影が終わるまでは、気を抜くのはやめよう。企画が変わることもあるだろうし、期待しすぎるのは良くない」
 外灯の下で、お互いにまだ遠くを見つめたまま、会話を続ける。
「そうですよね」
「でも」
「……でも?」
 顔を上げて首を傾げた私に、彼はにっと笑って両手を差し出した。
「やったな、くるみちゃん!」
「はい!」
 彼はその胸に飛び込んだ私を抱き上げて、椅子カフェ堂の前をくるくると回って喜んだ。嬉しい、嬉しい、本当に嬉しい!!

 椅子カフェ堂。
 あなたを確実に守れる第一歩を踏み出せたのかな。それが現実となるまで、あともう少しだけ待っててね。