ランチの時間が過ぎ、お客さんのいなくなったホールの隅で、一人まかないにかぶりついた。
住谷パンのバゲットに生ハムとアボカド、クリームチーズがサンドされている。アボガドがはみだしそう。口の周りにも付いてるけど、美味しくて止まらない。
厨房から顔を出した店長が私の方に来た。
「店長これ、すごく美味しいです」
「ほんと? あり合わせで作ったんだけど、気に入ってくれたなら良かった」
ランチに付いていたクラムチャウダーをひとくち飲む。ホッとする味に一息ついてから、またバゲットを口に入れると店長が笑った。な、何?
「意外と大きい口あくんだね」
「!」
「ごめん、それデカくて食べにくかったよな。もっと小さく切ってこようか?」
もぐもぐと口を動かしながら首を横に振った。なんかまた笑ってるんですけど。変顔だった?
零さないようにって思ったら大きい口開けちゃったんだけど、恥ずかしすぎる……。
店長は私の前に座って、エスプレッソを淹れたカップを口にした。
「くるみちゃん、雑貨のこと良晴から何か聞いてる?」
「はい。全部私にくれるって言ってました。でも、もし売りたいなら返品不可で売れって」
「そうか。くるみちゃんはどうしたい?」
「まだ倉庫にも在庫がたくさんあるんです。できる限り、家具と一緒に売りたいと思っています」
「わかった。そうしよう」
溜息を吐いた彼がエスプレッソをもう一口飲む。
「職人さんから連絡は……」
「まだないよ。ほんとにどうしたんだ、あいつ」
職人さんがここを去ってから、二週間が過ぎようとしていた。向こうに着いたら連絡をくれると言っていた職人さんからは一向に連絡が入らない。事情が事情だけに、こちらからは連絡をするのを控えようと決めた店長と私だけど、そろそろ本気で心配になってきた。
職人さん、大丈夫なの?
夕方になる少し前、小さな女の子を連れたお母さんが、スイーツを食べ終えてレジに来た。
「ありがとうございました」
「あの〜」
「はい」
「カップケーキってテイクアウトはできないんですか?」
お釣りを受け取ったその女性が言った。
「ええ。申し訳ないんですがテイクアウトはしていないんです」
「そうですか。おみやげに欲しかったんですけど」
「すみません」
「ほら、駅の傍にある大きなカフェあるじゃないですか。ファミレスみたいな」
「あ、ええ」
カフェ・マーガレテのことだ。
ママ早く行こうよ、とツインテールをした女の子に手を引っ張られたお母さんは、顔だけこちらに向けて話を続けた。
「あそこにも似た感じのカップケーキがあって、あそこはテイクアウトができるんですけど、こちらの方が美味しかったし可愛かったから。この子もすっかり気に入っちゃって」
「ありがとうございます! あの、これお店のカードです。良かったらお持ちください。テイクアウトについて検討する時が来たら記載してあるホームページでもお知らせしますので」
「ぜひお願いします。また来ますね」
女の子にぐいぐい引っ張られたお母さんは、そのまま扉を開けてお店を出た。
すごく嬉しい! でも、やっぱり比較されてたりするんだ。比べられた時に味や居心地の良さで椅子カフェ堂を選んでもらえるようになれば、それが一番いいんだよね。
お店の閉店後、仕込みの前に事務所に呼ばれた。ドアを開けて入るとパソコンの前に店長が座っている。
「店長、今日はお客さん、二十組入りましたよ」
「おう、最近少し増えて来たな。これ、アンケート作ったんだけど読んでくれる?」
「お客さんにですか?」
「そう。簡単なものだけどね。聞いてみるのも参考になるかと思って。ネットでもいいんだけどさ、直接食べに来てくれた人の意見の方が信ぴょう性あるからね」
プリントされたものを受け取り確認した。
内容は、どうやってお店を知ったのか、美味しかったメニューや食べたいメニュー、店員の評価、何かあればひとこと、というものだった。
「いいと思います。店員の評価は緊張しますけど」
「くるみちゃんなら絶対大丈夫だと思ってるけど一応ね。俺も含まれてるから、何か書かれたら二人の責任な」
「DM作って欲しい方に送りますか? アンケートに希望者だけ連絡先を書いてもらうとか」
「いいね。負担にならない程度でやってみようか」
職人さんが行ってしまってから、こうして二人で細かいことを決めるようになった。店長は私に売り上げや、材料のコスト、お店を維持する為にかかる金額なども、包み隠さず教えてくれた。信用してくれているからこそなんだけど、現実を知って自分の甘さに反省した。もっと気を引き締めていかなければ。
「商店街の集まりに行ってきたんだけど、今度駅周辺が新聞取材されるんだよ。街のコーナーみたいので」
「すごいですね〜!」
「うん。個々の店というより全体って感じらしいんだけど、この辺を知ってもらうにはすごくいいと思うんだ。全国紙だしね」
訊いてみようかな。前から気になってたんだけど、いいよね。
「そういう時って……カフェ・マーガレテの店長さんは参加されるんですか?」
「いや、ああいうチェーン店はうちの商店街では基本的にあんまり参加しないな。たまに参加する居酒屋の店長がいるけど」
「そうんなんですか」
「新聞記事でこの近辺がもっと注目されて、また前みたいに雑誌の沿線の特集なんかで使われればいいんだけどね」
椅子カフェ堂の存続の条件をクリアする期限は、あと半年を切った。その現実にどうしても焦ってしまう。
「あの、自分から雑誌社に売り込んでいくのは駄目なんでしょうか。阿部さんとか……」
「う〜ん。それは最後の手段だな。売り込んでもページを貰えるとは限らないし、見開きページや表紙に相応しい店になってないといけないし、難しいとこだよ」
確かに店長の言う通りかもしれない。いくら阿部さんと繋がりが出来たからって、雑誌の趣旨と違っていたら意味の無いことだし……。浅はかな自分の考えに落ち込んでしまう。
「くるみちゃん、俺最近さ」
「はい」
「条件をクリアしなきゃならないけど、そこに拘り過ぎるのはどうかと思ったんだ。俺が思い詰めてるのが、どこかでお客さんに伝わってるのかもしれないって、良晴に言われた後気付いた」
私の誕生日を祝ってくれた時、職人さんは店長を心配してたっけ。
「くるみちゃんにも心配かけすぎてるしな。そういうのって店の雰囲気に出ると思うんだよ。リニューアルした後は店が生き生きしてたし、お客さんも楽しそうだった。そういう雰囲気を作るのは俺の責任なんだってことを忘れてた気がする」
店長は私の知らないところでたくさん悩んで、理想と現実の間で何度も苦しんでいたはず。その中で見付けた大切な答えを、今私に話してくれている。
「だからまずはお客さんに喜んで貰うためにはどうしたらいいか、そのために毎日精一杯頑張ることが先だって思ったんだ。ごめんな、勝手な事ばっかり言って」
横に立つ私を見上げた店長が言った。
「私が以前出した結論も同じです。まずはここに来てくれるお客さんを大切にすること。もちろん宣伝したり、新メニューを考えたり、工夫していくことは大事ですけど、それが一番かなって」
「そうだな」
「あの、職人さんもいないし、まだまだ大変なことはありますけど、乗り越えていきましょう一緒に」
「おう!」
返事をした店長は、一度黙ってから呟いた。
「もしも、あの条件がなかったら」
「……なかったら?」
「こんなふうに真剣に、この店のことを考えなかったかもしれない。親父が大事なきっかけを作ってくれたのかもしれないな」
「店長」
「くるみちゃんのおかげだよ。こういう考えになったのも」
「え」
「いつも前向きだし、くるみちゃんが頑張ってると、本当に何でもできるんじゃないかって思えてくる。くるみちゃんには感謝してもしきれないよ俺。乗り越えて行こうな、一緒に」
そんな優しい声で、優しい表情で、言わないでほしい。また気持ちがグラついちゃうよ。
返事もできずに店長の顔を見つめていると、視線を逸らさずにいた彼の表情が変わった。何か言いたげな唇が言葉を迷っているように見える。どうしたんだろう。
「……まだ」
「え?」
「いや、何でもない。ごめん」
店長はパソコンの方を向いて、今日の売り上げや来客数を打ち込み始めた。何を言おうとしたの?
事務所から出て明日の準備をする。
昼間のお客さんにカップケーキを褒められたから、調子に乗って飾りに使うマシュマロフォンダントをたくさん考えてしまった。自分で言うのも何だけど、すごく可愛く出来たんだよね。
そのお陰か、仕込みにずいぶんと時間がかかってしまった。店長の方は、とっくに仕込みが終わった様で隣の厨房にはいない。事務所かな?
厨房を出てホールに入ると、店長はホールの椅子に座ってテーブルに突っ伏していた。
「……店長?」
傍に寄ると、彼はノートの上で顔を横に向けて眠っていた。レシピノートではなくて経営プランや、他の店舗についてのことが書かれているみたい。
右手にシャーペンを持ち、左手はだらりと下がったまま。
疲れてるんだろうな。起こしたくはないけど、このままじゃ風邪引いちゃうよ。
事務所へ行き、着替えて自分の荷物を持ち、椅子にかかっていた彼のグレーのパーカを手にして急いでホールに戻った。
寝ている彼の肩にパーカを掛けて、そっとその背中に頬を寄せた。背中越しに寝息が伝わってくる。彼のことはもう諦めているし、どうにもならないのはわかってる。でも今だけ。まだ目を覚まさないで。
感謝してると言われて嬉しかった。
私の目を見つめて何かを言おうとした彼の表情に、息が止まるくらい苦しかった。
「無理しないでくださいね」
小さく呟いて彼の背中から離れ一歩踏み出したその時、後ろから手首を掴まれた。同時に何かが音を立てて落ちた。
「!」
慌てて振り向くと、シャーペンが床に転がっている。店長はまだテーブルの上に顔をつけたまま、静かな声で言った。
「ありがとう、くるみちゃん」
「いえ。あの寒くないですか? 風邪引いちゃいます」
彼の表情がわからない。
「大丈夫だよ」
「私、帰りますね」
掴まれている手首が熱い。
「……うん。おやすみ」
「おやすみなさい」
彼が手を離すのと同時に急いで歩き、一度も振り向かずに椅子カフェ堂を出て、外から扉の鍵を閉めた。
早足で歩きながら掴まれた左手首を右手で握る。心臓がまだ、ドキドキしてる。
石畳の道で立ち止まり、大きく深呼吸した。見上げると薄い雲にかかった丸い月が浮かんでいる。
どういうつもりで、こういうことするの? 諦めようとしてるのに、全部が無駄になってしまう。
いつまでもこんなのって……ずるいよ。