新社会人が駅を行き来し、新しいランドセルを背負った一年生が学校へ向かっている。
桜の花はすっかり舞い落ちたあとで、葉桜の緑が眩しい。
もうすぐ椅子カフェ堂の一周年。ほんの少しだけど、最近は一時期よりもお客さんの入りが増えているみたい。
誕生日を祝ってもらってから一週間。私の苺フェアや店長が作る春の新作メニューが口コミでネットに掲載されているのを見つけた。ひとつだけだったけれど、高評価でとてもありがたいものだった。
そういえば最近、貴恵さんの姿を見ない。新年度だから忙しいのかな。
「おはようございま〜す」
椅子カフェ堂の扉を開ける。仕込みのいい匂いがホール中に溢れていた。でも店長がいない。また市場かな?
その時、奥から足音が近付いた。
「あ、職人さん、おはようございます。早いですね」
どたどたと急ぎ足でこちらに来た職人さんに挨拶する。彼は私をちらりと見て、何も言わずに大きなバッグをテーブルの上に乱暴に置いた。機嫌悪いのかな。
「あの」
「くるみ、悪い」
職人さんが私の前に来て、大きな溜息を吐いた。
「どうしたんですか? 急に謝ったりして」
「俺、ここ辞めるかもしれない。いや、辞めることになるな、多分」
「え……」
「永志の奴、どこ行ったんだよ。スマホも出ないし」
苛々とした口調で彼はポケットから自分のスマホを出した。
ちょっと、待って。どういうこと? 今辞めるって言ったよね?
「う、嘘ですよね? また変な冗談言って」
「冗談でも嘘でもねーよ」
「何でですか? どうして」
スマホを見て舌打ちをした職人さんが私を見た。
「昨夜親から連絡があった。急いでこっちに来いって」
「ヨーロッパに住んでいらっしゃるんですよね?」
「そう。今はイギリスにいる」
「何かあったんですか?」
「はっきりとは言われなかったけど、多分病気だと思う。今までこんなふうに呼ばれたことなんて一度もなかったからな。二人とも結構な歳なんだよ」
彼は大きなカバンのファスナーを閉めながら、話を続けた。
「アメリカで結婚した姉貴がいるんだけど、あいつはもう先に出発したらしい。いつまでもふらふらしてるんなら、二人と一緒に住んでやれって説教されたわ」
「そうなんですか……」
「わりーな。ここが大変な時に」
「店長は、このこと」
「まだ知らない。俺、今日はもう帰って荷造りしなきゃなんないんだけど、永志が来るまでは待つから」
何を言ったらいいのかわからない。突然すぎて言葉が出てこない。
呆然としたまま職人さんを見上げていると、気付いた彼は私に言った。
「くるみ。家具は全部売って構わないからな。但し、メンテできないから、それ承知してくれた人だけな。雑貨は全部お前にやるよ。売りたいなら売ってもいいけど返品不可って言えよ? 面倒なことにならないように」
「職人さん」
涙が一気に溢れて零れ落ちた。
「泣くなよ。またぶっさいくになってるぞ」
「だって職人さんがいなくなったら、椅子カフェ堂じゃなくなっちゃう……!」
「くるみ……」
「ごめんなさい。職人さんが大変な時に我儘言って。でも」
「椅子カフェ堂で働く者として、今はお前を認めてやる。お前なら、永志とここを守って行けるよ」
「そ、そんな優しいこと言わないで、くださ、い。全然、似合わな、い」
「そんなに泣くなよ。俺だってつらいんだからさ」
職人さんが私の頭に、ぽんと手を置いた。いつもと違う優しい感触に余計涙が溢れてくる。
ドアが開き、入って来た店長の声が後ろから届いた。
「くるみちゃん、どうした……?」
「店長」
振り向いた私を見た店長が荷物を落として、職人さんの前に駆け寄り大きな声を出した。
「何で泣いてるんだよ。良晴お前、何した!?」
店長に肩を掴まれた職人さんが宥めるように言った。
「落ち着けって。別に苛めてるわけじゃねーよ」
「じゃあどうしたんだよ」
「永志、俺……今日でここ辞めることになると思う」
店長から目を逸らした職人さんが呟いた。
「え?」
「親に呼ばれた。すぐに来いって」
「何かあったのか?」
「はっきりとは言われなかったけど、多分親父が病気だと思う。姉貴に、一人でいるなら一緒に住んでやれって電話で言われたわ」
私に教えてくれたものと同じ内容を話してから職人さんは俯いた。外で元気よく鳴いている鳥の声がホールに何度も響き渡る。私たちの気持ちとは正反対のその声は、やけに耳について離れなかった。
「わかった。ここは気にしなくていいから、とにかく早く行ってやれよ。いつ出発なんだ?」
「明日の航空券は取った。ごめん永志。俺、多分そのまま、ここ辞めるから」
「それは仕方ないよ。いろいろと、ありがとな」
「こっちの台詞だろ、それは。いろいろお世話になりました」
職人さんがぺこりと頭を下げた。
本当に本当なの? 急すぎて全然実感が湧かない。
「永志。椅子カフェ堂の名前、変えろよ?」
「できないよ、そんなこと」
「いいから。椅子が無きゃ意味ねーだろ」
大きなバッグを肩に担いだ職人さんは、私の前を通り過ぎた。
「良晴、向こう行ったらすぐに連絡くれよな」
「ああ。どうせ一回帰って来ないとならないしな。処分しなきゃならない物が倉庫にたくさんあるし、今のアパートに荷物置きっぱなしだしさ」
扉の前で立ち止まった職人さんが、こちらを振り向いた。
「じゃあ。一週間後くらいにな」
「気を付けて行けよ」
ああ、と頷いた職人さんは私を指差した。いつものように、人差し指でびしっと。
「くるみ。めそめそしてないで、永志と一緒に店のことちゃんとやれよ? いつか俺がここに来た時、椅子カフェ堂が駄目になってたら、またほっぺつねってやるからな!」
「い、嫌です……」
「ふん。口答えできるんなら大丈夫だな」
「気を付けて……行ってらっしゃい。職人さん」
私の呼びかけに、にやっと笑った職人さんは扉を開けて躊躇いもせずに行ってしまった。
お店が終わってレジを締めてから、後ろにある雑貨と家具の前に行き、溜息を吐いた。
職人さんがいなくなるなんて。仕方のないことだけれど、悲しくてたまらない。直接カフェにはあまり関わっていなかったけれど、彼のことを心の拠り所にしていたのも確かだった。私がこんな気持ちになるんだから、店長はもっともっとつらい気持ちになっているはず。
足音が後ろから近付いた。ゆっくり振り向いて彼を見上げる。
「くるみちゃん」
「店長。私、何て言っていいか……」
「大丈夫だよ」
優しく微笑んだ彼の表情に涙が滲む。
「私は残りますから。絶対に辞めません」
「ありがとうな。でもそれはくるみちゃんの自由だからさ。もし辞めたくなったら、はっきり言うんだよ?」
右手の甲で涙を拭いて首を横に振った。
「私は店長の気持ちを知りたいです。私がいない方がやり易いのなら辞めます」
隣に来た彼は、職人さんが作った家具の上に並ぶ琺瑯のマグカップを手にして、静かな声で言った。
「俺は辞めて欲しくないよ」
「……」
「前にも言ったけど、くるみちゃんがいなかったら椅子カフェ堂は機能しない。ここに必要な人なんだ」
「ありがとうございます。私、店長がこの前、出来る限りのことはやって、最後の最後まで諦めたくないって言っていたの、とても共感したんです。お手伝いさせて下さい」
「ここまで来たら、やるしかないもんな」
よし、とマグカップを置いた店長が私の方を向いた。
「これからはなるべく一緒に考えて意見を出し合っていこう。俺もホームページ周りのことやるし、くるみちゃんに俺の仕事で覚えて欲しいことは教える。ただ、無理だけはしないで欲しいんだ」
「大丈夫です。無理だと思ったら、はっきり言います」
「うん、そこは頼むよ。それから、良晴はああ言ってたけど、俺は椅子カフェ堂って名前を残しておきたいんだ」
変えてしまうなんて寂しすぎる。それこそ椅子カフェ堂の存在が否定されてしまうようで怖かった。だから店長のその気持ちが、私も嬉しい。
「家具は一時生産中止ってことにして、良晴と連絡が取れてから、また考えよう。それまでは在庫がある限り売っておけばいい」
「そうですね。いつか……何年も先になるかもしれないけど、また職人さんが家具を作ってここで売りたいって言った時に、その場所を残しておいてあげたいです」
「ああ、そうだな。そのためにも、ここを失くさないように頑張ろう」
「はい!」
私の返事に大きく頷いた彼が右手を差し出した。
「改めて、よろしく。くるみちゃん」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
彼の手に、自分の手を合わせた。
久しぶりの彼の温もりに胸が痛くなる。そういえば、椅子カフェ堂リニューアルの後もこんなふうに握手を交わしたっけ。仕事仲間としての大切な儀式。そこに好きだの恋だの、そんなこと言ってはいられない。
今日から二人で椅子カフェ堂を守っていく。
誓いを立てるように彼の手をぎゅっと握ると、彼も握り返してくれた。私よりもずっと強い力で。