明日のチーズケーキの仕込みを終えたところで、店長に呼ばれた。
「くるみちゃん、手空いた?」
「ちょうど終わりました」
「ちょっといい?」
「はい」
意識改革、なんて偉そうなことを宣言してから一週間。
プリンが納得いくものに仕上がり、窓際のディスプレイは好評で、店長のメニューはネットでぼちぼち口コミを見かけるようになり、職人さんの椅子に発注がいくつか入った。なんか、まずまずじゃない? 特に何か新しいことをしたわけではないけれど、椅子カフェ堂に来たお客さんに対して、接客も盛り付けもラッピングも、出来る限り丁寧に手間を掛けて行なうようにした。その成果が少しずつ現れたのかな。私も店長も職人さんも、この状態をキープさせようとそれぞれの仕事に今まで以上に真剣に向き合っていた。
冬に入る手前の夜は、静けさが色濃い影を落としていく。
カプチーノを淹れてくれた店長とホールのテーブルで向かい合わせに座った。閉店後の人のいないホールは、温かい飲み物が恋しくなる程度に冷え込んでいた。
「俺さ、ばーさんをここに呼ぼうかと思って」
「店長のおばあさんを?」
「うん。俺が作ったものを食べてもらおうと思ってるんだけど、どうかな」
照れくさそうに店長が笑った。
「すごくいいと思います……!」
おばあちゃん子だったと店長は言っていた。
ここをカフェにしたのは、おばあさんがハイカラな喫茶店をいつかやりたいと言ったから。
「昨日、施設の人にばーさんの食事について電話で訊いてみたんだ。俺もたまに見に行ってるから何となくはわかるんだけど一応。外出はもちろん、外食もオッケーって許可取った」
手の中のカップが白い湯気を立てている。
「上の兄貴に連絡したら喜んでさ。兄貴の嫁さんが、ばーさんをここに連れて来てくれることになった。まだ日にちは決めてないんだけどね」
「店長のおばあさんに会えるの、とても楽しみです。でも、どうして急に?」
「俺の原点を見つめ直そうと思ってさ。この前、くるみちゃんに話してみて気付いたことがたくさんあった。くるみちゃんの意識改革と似たようなもんかな」
顔を見合わせて笑った。そんなふうに言ってもらえるなんて、何だかくすぐったい。
「それで、くるみちゃんにプリンをお願いしたいんだ。特に制限はないんだけど、飾りの生クリームとフルーツは無しにしてもらっていい?」
「わかりました。気合入れてうんと美味しいのを作ります」
「よろしくな」
「はい!」
お互いにカップを差し出して、約束の乾杯をした。
十一月下旬の木曜日。お天気も良い小春日和の今日、いよいよ椅子カフェ堂に店長のおばあさんがやってくる。
店長は朝から入念に仕込みをしていた。通常のお客さん用の仕込みと、おばあさんの食事分の仕込み。大変な作業なのに、彼はとても楽しそうだった。
プリンを作り終えた私は店内を見直していた。車椅子が通りやすいように入口付近を片付け、出入りしやすい場所のテーブルに予約席のカードを置く。窓際でもなく、ドアから離れているから、ここが一番暖かいはず。
開店後、落ち着かない様子の店長が厨房で私に訊いた。
「まだ来てない?」
「時間的には、そろそろだと思うんですけど……いらしたらすぐ呼びますね」
「うん、お願い」
おばあさんはランチ時の時間を外して、十一時半には到着する予定だった。あと五分。今ホールにお客さんは二組しかいないから、ちょうど余裕を持って迎えることができる。木曜日はいつも比較的少ない来客数だし。
「おい、来たぞ」
レジにいた職人さんが教えてくれた。
椅子カフェ堂の前に到着した一台のワゴン車。この、車椅子用の介護タクシーにおばあさんが乗っている。厨房に駆け込んで店長を呼んだ。
「店長、いらっしゃいました! 私お迎えに行きますね」
「おう、頼むよ。俺は作り始めるから」
「はい」
職人さんがホールを見てくれ、私は椅子カフェ堂のドアを開けて外に出た。
タクシーから降りた車椅子に乗っているおばあさんと付き添っている女性、横に並ぶ運転手さんの前に行く。
「初めまして。こちらで働かせてもらっている駒田と申します」
お辞儀をすると、女性も頭を下げた。
「有澤好子(よしこ)と言います。永志さんの兄の嫁です。主人は今日仕事で来られませんでしたので、私が付き添いに参りました。よろしくお願いします」
「こちらこそお願いします。店長がお待ちですので中へどうぞ」
開け放した椅子カフェ堂のドアへ促すと、私を見たおばあさんが呟いた。
「可愛いお嬢さんだねえ」
「初めまして。今日はゆっくりしていってくださいね」
「はい、ありがとね」
表情が柔らかくて優しそうな人。真っ白い髪を、後ろでふんわりとひとつに丸めてる。腰が曲がって体は小さく見えるけれど、どこか存在感がある。店長はこの人に可愛がられて育ったんだ。
一時間後に迎えに来ると言って、タクシーはそこを去った。
おばあさんは車椅子のままテーブルに着いてもらい、すぐ横に店長のお義姉さんが座った。お水を出して、店長が手書きをした特別なメニューを二人の前に置く。
「おばあちゃん、長芋のしんじょですって。すまし汁お好きでしょう?」
「うんうん。好きだねえ」
「お豆腐のつくねに、蒸し野菜の卵あんかけも美味しそうね」
お義姉さんは楽しそうにメニューの内容をおばあさんに説明していた。
「あの、店長がお義姉さんの分もご用意しているそうですので、よろしかったら一緒にお召し上がりください」
「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて少しだけいただきますね」
厨房に戻ると、店長はいつにも増して真剣な表情で、おばあさんに作った食事を丁寧に美しく盛り付けていた。
「よし。くるみちゃん出してくれる?」
「あの、私が出してしまっていいんですか?」
「俺は食事が終わった頃、テーブルに直接行くから」
「わかりました」
良かった。たとえおばあさんに店長のことがわからなくても、この料理を作った人が誰なのかは知って欲しかったから。
十二時過ぎ、ランチのお客さんが入って来た。木曜ということもあってまだ人は少ない。タイミングを見計らって店長が厨房から出てきた。私はお客さんが去ったばかりの隣のテーブルを片付けながら、様子を見守った。何だか自分のことのようにドキドキする。
ゆっくりと歩いて来た店長は、二人のテーブルの前に立ち、おばあさんに声を掛けた。
「いかがでしたか?」
「大変おいしゅうございましたよ」
返事をしたおばあさんは、テーブルの上に飾ったチョコレートコスモスの花びらを触った。
「そうですか。ありがとうございます」
「公志朗(こうじろう)さんが作ったのかしら?」
「え?」
「公志朗さんの味がしました」
顔を上げた店長のおばあさんは、にっこりと彼に微笑んだ。
店内が混み合ってきた頃、おばあさんとお義姉さんは、少し早目に迎えに来たタクシーへ乗り、施設へと戻って行った。椅子カフェ堂にいつもの忙しい時間が訪れる。
私はホールを動き回りながら、胸に焼き付いてしまったおばあさんの言葉と、その時の店長の表情を極力思い出さないように努めていた。一瞬でも思い浮かんだら、切なさに仕事どころではなくなってしまう。
三時を過ぎてホールに人がいなくなり、片付いた全てのテーブルをもう一度拭いてから厨房へ入った。
「店長。今、ホールにお客さんはいません」
「おう。お疲れ」
レシピノートから顔を上げた店長は立ち上がり、それを閉じて傍にあるスツールの上に置いた。
「ありがとうな、くるみちゃん。ばーさん全部食べてたな。くるみちゃんのプリンも」
「……はい」
「義姉さん喜んでたよ。最近で一番嬉しそうな顔してたってさ」
無理に笑顔を作っているように見えた。彼は何かを思い出したように鍋をガス台に載せ、冷蔵庫から食材を取り出した。口を引き結び何かを堪えているその横顔が、私に彼の名前を呼ばせた。
「永志、さん」
その呼びかけに手を止めた彼は、こちらに背を向けて俯いた。調理台に右手をつき、左手で顔を覆った彼が静かに呟いた。
「……公志朗って、俺のじーさんなんだ」
反射的に踏み出した足を躊躇うことなく進めた私は、小さく震える彼の背中に駆け寄った。おでこをあてて瞼を閉じる。彼の温もりを感じて、我慢していた涙が零れた。
今はこうする他に何もできないけれど。ほんの少しでいい。その気持ちを、分けて欲しいから。