小さな楕円のココットに入ったプリン。スプーンを入れると、底からじわっとカラメルソースが溢れ出た。プリンに絡めてひとくち食べる。
「美味しいけど、なんか違うんだよね」
もっと印象に残るような、一度食べたら忘れられないような、そんなプリンを作るのは難しいんだろうか。職人さんは前に作ったので十分だと言っていたけど、自分ではどうも納得がいかない。
デザート用の厨房でいくつも作ったプリンの残骸と睨めっこを続けていた。ふと時計を見ると、もうすぐ三時。
「先にチーズケーキ作ろ」
気を取り直して明日の仕込みに取り掛かる。
店長、まだ眠ってるのかな。少しは体が楽になっていればいいんだけど……。
チーズケーキが焼き上がった時、遠くでドアの閉まった音がした。店長だ。手を止めて急いで厨房から飛び出すと、こちらに来た彼と鉢合わせた。
「うわ、びっくりした! まだいたんだ!?」
「すみません」
「いや全然いいけどさ。頑張るね」
彼はパジャマから長袖Tシャツとジーンズに着替えていた。顔色が、いつも通りの血色のよさを取り戻している。
「体は大丈夫なんですか?」
「ああ。すごく良くなったよ。くるみちゃんのお粥のお陰かな」
「良かった」
「明日のことが気になって厨房覗きに来たんだ。仕込みはやめておくけど」
「そうですよ。まだ寝てなくちゃ」
出来上がったチーズケーキを冷まし、その間に使用した器具を片付けた。向こうの厨房で彼は冷蔵庫の中身や食料品のチェックしている。
全部を片付け終わると、店長が声を掛けてきた。
「ホットミルク飲まない? 俺飲みたいから一緒にどう?」
「はい。いただきます」
「今あっためてるから、ホールで先に座ってて」
エプロンを外して席に着くと、店長がカップにミルクを入れて現れた。
「蜂蜜入れてみたよ」
「いただきます。美味しそう」
温かくて甘い味が疲れた体に沁み渡っていく。体も心もホッとした。店長も美味しそうに飲んでいる。
今なら、訊いてもいいかな。
「店長。私、何も出来ませんけど、話を訊くぐらいだったらできます。一人で抱えてつらいことがあるんだったら言ってください。何でも」
口の端に付いた白いミルクを店長は親指で拭った。
「どうしたの、急に」
「……この前のおじさんは誰なんですか? そのあとから店長の様子がおかしかったから、ずっと気になって」
最近休む間もなく働き続けて、笑顔も少なくなって、そんなふうにさせたのは、あの人が原因だよね?
店長は一旦私から視線を逸らし、小さく溜息を吐いて静かな声を出した。
「くるみちゃんにも声掛けてたみたいだから、誰なのか知る必要はあるよな。長くなるけど、いい?」
「はい」
長くなる、の言葉に背筋が伸びた。何を聞いても、しっかり受け入れなきゃいけない。そんな気がした。
「嫌になったら途中でも言って。そこで止める。聞きたくないこともあるだろうから」
「大丈夫です」
少しの間を置いて、彼が話し始めた。
「あれはね、俺の親父」
「お父さん……?」
「そう。有澤食堂やってたじーさんの息子で、俺の親父。そんで全国展開してるファミレスと居酒屋チェーン店の社長」
「え」
同業者なの? チェーン店の社長?
「親父は野心家で、何もないところから一人であそこまで伸し上がった。立派なもんだって言いたいけど女癖が悪くてね。俺が大学入ったのを機に母親は親父と離婚した。じーさんはそんな親父見ていつも怒ってたし、親父はこんな定食屋早くやめろって、じーさんに口癖のように言ってた。俺、ばーちゃん子だったって言ったじゃん?」
「はい」
「ばーさん三年前くらいから認知症の症状が少しずつ出ててさ、その頃じーさんも違う病気患ってたんだ。あんま長くないの自分でもわかってたんだけど、自分のことよりもばーさんが心配だってずっと言ってた。親父は二人を邪険にしてたから、もしも自分に何かあったら、ばーさんの居場所がなくなるかもしれないって」
両肘をテーブルに着いた彼は、手を顔の前で組んだ。
「それで俺、養子縁組したんだよ。じーさん、ばーさんと」
「養子ですか?」
「うん。孫のままだと駄目なんだけど、養子に入れば有澤食堂の土地が俺に相続できるんだ。じーさんに頼まれたからってのもあるんだけど、俺もここを守りたかったから同意した」
淡々と語る彼の表情は、一緒に出掛けた先で窓の外を眺めながら話してくれた時のものと似ていた。
「俺はそのあと仕事を辞めて料理の修業へ行き始めた。じーさんは入院して、ばーさんは施設に入った。二人の面倒は兄貴とそのお嫁さんと俺で順番に交代で行ってたよ。食事の時間に様子見たりするくらいなんだけどさ」
頭の中で彼の家族を想像する。大切なおじいさん、おばあさん。お父さん、お兄さん。離婚してしまったお母さん。
「じーさんが死んだのが今から一年前。有澤食堂はとっくに店を畳んでたから、そのあと改装して椅子カフェ堂に生まれ変わらせた。そしたら途端にさ、今まで黙ってた親父が口出して来たんだ」
ふと、彼が顔を上げて私の顔を見た。
「?」
「くるみちゃん、まだこの先あるけど大丈夫?」
「大丈夫です。永志さんが良ければ続けて下さい」
頷いた店長はカップのミルクを飲み干した。
「親父はその頃、俺とたいして歳が変わらない女と再婚したばかりだった。その女にそそのかされたのか、突然俺に椅子カフェ堂を潰して自分の跡を継げって言ってきた。この前もここで言ってたろ?」
「はい。でもどうして急に」
「俺が経営に回って自分らがオーナーになれば安泰ってことだよ。親父はもう若くはないし、いつ死んでも大丈夫なようにしたいんだろ。何も出来ない女の為にね」
「そんな……!」
「俺、前にも言ったけど歳の離れた兄が二人いるんだ。それぞれ家庭持ってるし、子どもは大きい。二人とも俺と同じで親父には関わりたくないから別の仕事をしてる。それぞれ、それなりの地位も確立してる。その点俺は結婚もしてないし、兄貴たちに比べて歳もずっと若い。上手にやれば長く使えると思ったんじゃない?」
彼は自嘲気味に笑った。
「ひどいです、そんなの……!」
「有澤食堂がなくなって、まさか俺が椅子カフェ堂を作って経営するとは思わなかったらしいんだ。俺が親父の要求を断ったら、有り得ない条件を出して来た」
彼が教えてくれたその条件は、とてつもなく難しいものだった。
開店して一年半以内に雑誌の表紙、もしくは見開きページでお店を特集してもらうこと。
または雑誌ではない書籍に値するものに店の紹介が掲載されること。
「これを達成できれば椅子カフェ堂の件で今後一切口を出さないし、親父の跡を継ぐ要求もなかったことにする」
「たったの一年半でなんて、そんな……!」
開店したばかりのお店でも雑誌に掲載されることはある。でも、よっぽどの人気店で無い限りは表紙や見開きのページなんて絶対に無理だよ。増してや書籍になんて……!
「親父は不可能だとわかってるから、そんな条件を提示したんだよ。でも、その条件を呑む以外に椅子カフェ堂を残す方法はないと悟ったんだ。親父はやろうと思えば金に任せて、今すぐにでも椅子カフェ堂を潰すことが可能だからね」
優しそうに見えたおじさんが、レジで私に向けた冷たい表情。あと一年待たずに椅子カフェ堂が無くなると、そう言っていた。
「でもそうしなかったのは、猶予を与えれば俺がその条件の為に振り回されて、親父が敢えて何もしなくても、いずれは椅子カフェ堂の経営に嫌気がさして自分から諦めると考えたんだろうな。その方が親父も無駄な金を使わずに済むし。でも……俺が諦めさえしなければ、まだ可能性はあるんだ。どんなに無茶な条件でも」
胸が痛くて押し潰されそうだった。怒りで手が震えている。
「なーんて言っても、突然ここに現れた親父にあんなこと言われて、結局焦ってムキになって仕事しまくって体壊してたら世話ないんだけどな」
「……」
「くるみちゃん?」
椅子カフェ堂はもう、私にとっても大切なお店。なくてはならない存在。
「酷いです。何の権利があってそんなこと……そんなひどいことするんですか!? 永志さんは嫌がってるのに。椅子カフェ堂がなくなっちゃうなんて絶対に嫌です!!」
勝手に涙が溢れてくる。
「くるみちゃん、これだけは信じて欲しいんだけど」
彼が私の手を掴んだ。握手をしてくれた時のように、両手で私の右手を包んでいる。
「その条件をクリアするために、くるみちゃんを採用したわけじゃないからね。俺」
真剣な瞳が私を捉えて離さない。
「今までもこの先もずっと、これは俺と親父の個人的な問題だから。くるみちゃんを利用して親父との条件に備えようなんて思ったことはないよ。それだけは信じて欲しい」
「店長はそんな人じゃないって、わかってます。椅子カフェ堂を人が来るお店にしたいっていう、純粋な気持ちが伝わってきたから、私もここに来ることを決めたんです。でも」
空いている方の左手で涙をぐいっと拭いて、彼の目を真っ直ぐ見つめた。
「私も一緒に頑張らせて下さい。雑誌に掲載されるなんて夢のようなお話です。前にお出かけした時、カフェで話しましたよね? それを叶えるためのお手伝いを私にもさせて下さい!」
大きく頷いた彼が、私の手をそっと離して微笑んだ。
「俺の話はこれでおしまい。店のことは全部話したよ。もう秘密はなし」
「ありがとうございました。大切なお話なのに、私が無理やり聞いちゃったみたいで、すみません」
「良晴も知らないこと、たくさん話しちゃったからなぁ。誰にも言わないでね?」
「は、はい」
そうなんだ。私なんかに話してしまっていいことだったのかな……。
外は秋の夕暮れの気配がした。ホールの空気がひんやりとしている。電気を点けていない部屋はいつの間にか薄暗くなり、外から入り込んだ淡いオレンジ色に満たされ始めた。
「店長!」
テーブルに両手を着いて立ち上がる。
「ど、どうした?」
「条件クリアしましょう! 大丈夫です、絶対イケる!」
最初にここへ訪れた時の情熱が再び湧きあがった。私、何を迷っていたんだろう。恋したからってうじうじして、叶わないからってめそめそして。椅子カフェ堂と一緒に自分も変わる為にここへ来たのに。
「え、そ、そう? くるみちゃんが言うと本当になりそうな感じもするけど」
彼の役に立ちたい。
「もっと宣伝して、もっと評判上げて、口コミ増えるように頑張りましょう!! 私、プリン作るの気合入れます! あと生ケーキのメニュー増やしていいですか!!」
「ど、どうぞ!!」
「店長!」
「おう!」
「もう寝て下さい!」
「ってなんだよー、ノッてきたのに〜!」
「だって……心配なんです」
「わかったよ。ありがとな」
店長が教えてくれた大切な家族のこと、一人で抱えて悩んでいた条件、話してくれたその全てを受け止めて、私の出来る限りの力を尽くしたい。椅子カフェ堂がいつまでも、この場所に在る為に。