椅子カフェ堂の扉には、私からのささやかなお祝いとして持って来た、紫陽花のドライフラワーでできているリースを飾った。くすんだその色は木製の扉と相性がいい。
表の立て看板に料理の画像を印刷したメニュー表を貼りつけ、その上に大きく「リニューアルオープン!」と目立つポップをくっつけた。
ホール内の各テーブルに、色の違う花を挿した小さな花瓶を置いた。お店に入れば職人さんが作った飾り棚とそこに載せた雑貨が、ひとめでわかる場所に配置されている。
ポケットに入れておいたスマホを取り出した。開店時間の十一時から五分が経過している。厨房から出てきた店長がカウンター横に立つ私の隣に来た。二人で背筋を伸ばして、窓の外の道行く人を目で追う。人がいないわけじゃ、ない。むしろ普段の平日よりも多い。
「誰も、来ませんね」
「うん。なんか俺、胃が痛くなってきた」
椅子カフェ堂のお盆休みは少な目だったから、世間ではまだお休み中の人が多い。家族連れや、若い女の子たちがグループで楽しそうに歩いて行くのが、窓の向こう側に見えた。
ホームページでしっかりリニューアルの日時は宣伝した。SNSも駆使して宣伝しまくったんだけど、効果はあんまり無かったのかな……。
私、チーズケーキ、3ホールも作っちゃったよ。余るの確実かも。
店長が溜息を吐いた瞬間、家具の前にしゃがんで作業をしていた職人さんが立ち上がった。彼は今日一日家具は作らず、主にレジの手伝いをしてくれることになっている。
「おい、これ貸せ」
レジ脇に置いてあるものを指差した。
「チラシですか? どうぞ」
「永志、店の前、チラシ配るの許可取ってんだろ? いつまで?」
「え? あ、ああ一応今週いっぱい分は。って何、今配るの?」
「今配らないでいつ配るんだよ。永志はそこにいろ。くるみ、お前来い。行くぞ」
「は、はいっ!」
昨日も配ったんだけど、まだ結構チラシは余っている。ドアを開けて外に出ると、もわっとした夏の空気が体を包んだ。
「俺は女に渡す。お前は男狙え。いいか? 愛想良くにっこりな」
愛想良くって、まさか職人さんに言われるとは思わなかったよ。
「一人でも店に入ったら、お前は戻れ」
「わかりました」
意外と行動派な職人さんに驚いてしまう。いいとこあるじゃん。
「椅子カフェ堂リニューアルしましたー。良かったらどうぞ」
「え? あ、はい」
彼の大きな声に女の子が立ち止まった。
「このチラシでエスプレッソ一杯、無料ですよ」
ちょっとちょっと、職人さんがにっこり笑ってるよー。チラシを渡された二人の女の子が頬染めてるよー。まあ、普通にしてればかっこいいんだもんね。すっかり忘れてたけど。
私も声を出してチラシを配る。やっと受け取ってくれた男の人はチラリとしか見てくれなかった。営業マンて感じだもんね。忙しいサラリーマンにそんな暇ないか。がっかりしていると、職人さんの前にいた女の子のグループがチラシを受け取り、お店に入ってくれた。リニューアル後、第一号のお客様だ!
するとそれを見かけた数人が、急に立て看板の前で立ち止まり、何だろうとお店を覗く仕草をした。これは、いい連鎖になっているのかも。
「くるみ、行け。永志が困る。俺は、もう少し配ってから手伝いに行くから」
「すみません。お願いします!」
さー、行くぞー! せっかく来てくれたお客さんを、がっかりさせないようにしなくては。
ホームページに作った割引券を、印刷して持って来てくれた人もいた。あの常連のおじさんもチラシを持って来てくれた。立て続けに人がお店に入ってくる。
七組目のお客さんのオーダーを取り、厨房へ飛び込んだ。ちょうど、店長が盛り付けの終わったお皿を並べていたところ。
「バジルベーコンのドリアとランチ出るよ」
「はい。店長、次のオーダーお願いします。マンゴーカレー、茄子と海老のトマトソースパスタ、食後にエスプレッソふたつ。あと別のオーダーでランチと、親子丼セット」
「はいよー」
「あとは食後に、チーズケーキ……ふたつと、カプチーノ、です」
初めてチーズケーキのオーダーをもらった。嬉しいんだけど、何だか気恥ずかしくて声が小さくなってしまう。いよいよ、私が作ったものを食べてもらえる時が来たんだ。
「やったじゃん、くるみちゃん。大丈夫だよ、きっと。俺のお墨付きなんだから」
一瞬手を止めた店長の優しい言葉が、私の緊張をほどいてくれた。どうか、お客さんに喜んでもらえますように。
「デザートの盛り付けは任せていいんだよね?」
「はい。私がやります」
そのあとも途切れることなくお客さんの出入りがあった。チーズケーキを食べている人の顔を見たかったんだけど、そんな余裕ない。チラ見だけて終わってしまって残念。
私の手が忙しい時は店長が厨房から出てきて、直接お客さんに料理を運んだ。その度、女の子たちが何かを言ってる気配が伝わってきた。……だよね。かっこいいもん。
「……」
何を落ち込むことがあるんだろう。店長を目当てにお客さんが増えれば、それは喜ばしいことなんでしょ? 自分で言ったくせに、この複雑な気分は何なんだろう。
その時、からりんとベルが鳴り、年配のお客さんが入って来た。
「いらっしゃいませ」
「いっぱい?」
急いでホールを振り向くと、本当だ。客席はカウンターに至るまで全て埋まっている。
「そうですね、すみません。何名様でしょうか?」
「三人なんだけど。外で待ってればいい?」
まさか客席が埋まるなんてそんなこと予想外で、何も考えてなかった。どうしよう。
「暑いのに申し訳ありません。こちらの日陰で、お待ちいただけますか?」
庇の下に移動してもらったけど、暑いし立ちっぱなしじゃ嫌だよね。事務所から椅子を持ってこようか。迷っていると、後ろでドアが開き、中から職人さんが出てきた。
「申し訳ありません。よろしかったらお使いください」
彼はそう言って、お客さんの前に自作の新しいスツールを、何のためらいもなく二つ置いた。
「ありがとうね」
「いえ、もうひとつお持ちしますね」
ドアを開けて中に入る職人さんについていくと、こそっと彼が言った。
「倉庫から、もっと椅子持ってくるから」
「でもあれは……」
新品の売り物なのに。全然動じない職人さんの横顔を見て、私の方が不安になる。
「いいよ、まだ注文入ってないし。何より宣伝にもなる。それより待ってるお客さんの名前訊いて書いておけ。俺は事務所の団扇持ってきて椅子と一緒に渡すから」
「はい。ありがとうございます」
私、全然駄目だ。予測できないことが起きると焦っちゃって、なかなか臨機応変に動けない。これじゃあ、前の職場にいた頃と一緒だよ。
でも、落ち込んでる暇なんてなかった。お客さんの名前を控えてから急いで厨房へ行くと、忙しく動き回っている店長が、少し大きな声で言った。
「くるみちゃん、マンゴーカレーこれで終わりね。いつものビーフカレーはあるから」
「わかりました」
オーダーのチーズケーキを盛り付け、店長の後ろを通りながら声をかけた。
「チーズケーキもこれで終わりです」
「おーやったじゃん」
厨房の時計は四時半を指していた。え、もう四時半!? ほんとに!?
「そうだ、外の看板直してきますね」
「そうだな。わるい、頼むよ」
お客さんの元へチーズケーキを運び、急いで外の立て看板のメニューの前に行く。マンゴーカレーと記載してある横、値段の場所にマスキングテープを貼り、ペンで「sold out」と書き込んだ。チーズケーキの部分も同じようにする。
ふと、その文字を見てにやけてしまった。だって品切れ、だよ? 嬉しすぎない?
にやついた頬をぱんと軽く叩いてお店へ戻ると、焦った顔をした職人さんが足早にやってきた。
「おいくるみ、お前あっちやってくれ」
「どうしたんですか?」
「ラッピングが全然上手くいかねんだよ。つか、急に雑貨が売れ始めてるんだけど」
「えー昨日あんなに練習したのに……」
「出来ないもんは出来ないんだよ。これでさっきのことはチャラにしてやるから、いいだろが」
確かにたくさん助けてもらったんだから文句は言えないかも。
「わかりました。デザート入ったらすぐに教えて下さいね」
「んー」
結局閉店時間まで、椅子カフェ堂を訪れるお客さんが、後を絶たなかった。
祭りのあとってこういうの? ちょっと違うかな。自分たちでライブしたあと、みたいな。体はひどく疲れたけど、心は満ち足りてるような、そんな感じ。
「ビール買っておいたから、飲もうぜー」
事務所の冷蔵庫で冷やしておいたビール缶と、おつまみを抱えながら、楽しそうにホールに入って来た店長を見つめた。
「店長」
「ん?」
「……五十一組、です」
レジでオーダーの紙を数えた私は、それを手にしたまま放心していた。私の呟きを聞いた二人も、私と同じように口を開けたままでいた。スイーツだけの人もいたし、エスプレッソだけの人もいたけれど、でも。
「組、だから何人入ったのかな……。二人で来てるとしたら百人近く、でしょうか」
私がここで働き始めてから一か月の間、椅子カフェ堂に来るお客さんは、一日最高で十組だった。
「マ……マジで!? そんなに入ってたか!?」
「入ってたんだよ。俺、レジ超大変だったもん」
テーブルにビール缶を置いた店長が、両手を上にあげて飛び上った。
「いやったーー! 初めてだよ! 初めてそんなに人が入ったよ! じーさんの定食屋でも、そんなの見たことなかったよ!」
くるくる回ってガッツポーズを何回もしている。店長がこんなに喜ぶなんて。
「良かったですね、店長!」
「おう! こっち来て、くるみちゃん。飲もう、飲もう!」
まずは大成功、って言ってもいいんだよね?
「かんぱ〜い!!」
缶を突き合わせて乾杯をした。店長も職人さんも、一気にぐびぐびと飲んでいる。私もそれほどじゃないけど、炭酸の冷たさを喉の奥で存分に味わった。
「やべー、俺明日の仕込が大変だ〜。売り切れ続出だったもん〜」
「私も私も〜」
こういう時のビールって何でこんなに美味しいんだろう。それに加えて気分が高揚してるから、おしゃべりが止まらない。
「俺、店で初めて椅子売れたんだけど。びっくりしたわ」
「チーズケーキ、全部売れて良かった〜!」
「やっぱマンゴーカレーいけたな!」
「ホームページ見て来てくれた人、結構いたんですねえ」
「あれはプロフの俺の顔がいいからな!」
「俺だろ俺」
嬉しくて楽しくて涙が出そうだった。こんな充足感を味わったのは、生まれて初めてかもしれない。
二人の話に笑っていると、店長が突然立ち上がり、私の横に立った。
「ありがとう、くるみちゃん。感謝します」
右手を差し出している。これは握手、ってことだよね?
「いいえ。全然たいしたことはしていません。私の方こそ、貴重な経験をさせていただいて、ありがとうございました」
椅子から立ち上がり、おずおずと手を出すと、店長はその大きな右手で私の手を握り、左手で上から優しく包んでくれた。あったかい。良く見ると彼の手には、点々と細かく赤い、火傷の痕がついていた。古い傷と、新しい傷。料理の最中に火を使うから当たり前なんだろうけれど、今まで気付かなかった。
「大丈夫ですか?」
「何が?」
「火傷……」
「ああ、これ? いつものことだよ。全然平気。これってね、ヘタクソだから火傷すんの。火傷は料理人の勲章なんて言うけど、本当はこれじゃ駄目なんだよな」
店長がはにかむように笑った。その笑顔を見た途端、胸の奥がきゅっと狭くなった。同時に昼間来ていた女性客の、店長に対する視線を思い出した。どうしたんだろう、私。
ずかずかと傍に寄って来た職人さんが、私と店長の肩をバンバンと強く叩いた。……超痛いんですけど。なんかいい感じだったのに、全部吹っ飛んだんですけど。
「お疲れさん。でも、最初だけかもしれないからな。これを継続させることが出来たら、お前を認めてやってもいい」
「……はい?」
いつから私の師匠ですか。
「お前、途中グダグダだったろうが。俺がいなかったらどうなってたことか」
「そうですけど、でもチャラにするって言ったじゃないですか。ラッピングの件で」
「そんなこと言ったっけ?」
「い、言いましたよ!」
私と職人さんが睨みあっていると、店長が声を出して笑った。
「お前ってほんと、常に上から目線な〜。くるみちゃん、負けんなよ?」
あ、離れちゃった。店長の温もりが残っている手が、何だか寂しい。
「良晴も、ありがとな。チラシとか、さ。あれで勢いついたし、胃が痛いのもすっとんだよ。俺がもっとしっかりしなきゃいけないのに、ごめん」
「別に。俺は店長じゃないし、好きなようにやってるだけだから、気楽なもんだよ。お前の方が精神的に大変だろ」
この二人って、本当に信頼し合ってるんだな。私も職人さんにちゃんと言おう。店長の言葉を聞いていたら、ムキになっている自分が恥ずかしくなった。
「職人さん。私が困ってた時、全部フォローしてくださって、ありがとうございました。明日からなるべくご迷惑おかけしないようにします」
「ま、その心掛けはいいんじゃないの」
ほんっと減らず口なんだから。
「よーし、片付けて仕込みするか! くるみちゃん、やるぞ」
「はい!」
うーんと伸びをした職人さんが、天井を仰いだ。
「俺は帰ろうかな〜」
「駄目です。職人さんはラッピングの練習して下さい、そこで」
「俺に感謝してたじゃん、たった今」
「それとこれとは別です。店長、片付け一緒にしますね」
「うん。ちゃっちゃとやっちゃおうぜ。明日も頑張るぞー」
空き缶を手にして、ふとホールを見渡した。さっきまであんなにたくさんの人がいたなんて、不思議な感じがする。
椅子カフェ堂。
突然やって来た私に勝手に弄られてしまって、本当は嫌だったのかもしれない。でも、この変化をほんの少しでも気に入ってくれたなら……そうだったら私、とても嬉しいな。