黒い森

8 秘密の約束




 土日を含めた週三回のシフトということでマスターと折り合いをつけた。それでも僕にとっては死活問題だ。
 自炊しようにも母親の縛りがあってできない。そう、あの家の中に於いてはどんな些細なことも、自室以外では僕に自由が与えられることはなかった。

 僕は父を母以上に軽蔑している。
 中学に入ってすぐ、恵人から父の行為を知らされた。
 母は嫉妬深く、元から持ち合わせていた気質から疑り深く、見返りを求めるばかりで、歪んだ愛情を父に叩きつけることしかできなかった。耐え切れなくなった父は外に逃げ場を作った。
 父の浮気を知った母は、今までどうにか抑え込んでいたものを一気に解放させ、それがあたかも当然のことであるかのように発狂した。その捌け口に利用された矛先は、父ではなく、母親自身でもなく、恵人でもない。

 僕は父に顔立ちが似ている。
 だから僕は有りのままでいることを許されない。
 ……僕は一体、どこに逃げれば良かったというのだろう?


「誰か待ってんの?」
「え?」
「椿樹、最近なんとなく落ち着かないじゃん。ドアの方ばっか見てるし」
 バイト仲間の小田切(おだぎり)が親指でカフェの扉を指した。
「気のせいだよ。早く帰りたいだけ」
「俺は専学だからいいけど、椿樹は大学志望だったよな。こんな時期にバイトしてていいのかよ?」
「余裕」
 カフェのドアが開いた。
 ……来た。
 逸る胸を抑え、彼女の前に立つ。
「いらっしゃいませ。おひとり様ですか?」
「はい」
「こちらへどうぞ」
 窓際の席に座った彼女が、メニューを渡す前に僕を見上げて言った。
「カフェオレください」
「かしこまりました」
 白いブラウスに葡萄色のカーディガンを羽織り、煉瓦のような色のスカートを穿いている彼女は、大きなバッグから文庫本を取り出した。

 今日は珍しく客が少ない。
 カフェオレができるまでの間、マスターがいるカウンターの前から離れた場所にいる彼女を見詰める。
 文庫本だって? 他の女のようにスマホを弄るでもなく? 文学女でも気取ってんの?
 かといって、その行為が僕を意識しているようなものには思えず、なぜか無性に腹が立った。
「お待たせしました。カフェオレです」
 彼女はミルク色のカフェオレボウルに並々と注がれた液体を眺めた。
「ごゆっくりどうぞ」
 僕が声を掛けても、今度は顔すら上げない。何だよそれ。
 文庫本はテーブルの上に表紙を伏せて置かれてしまい、結局彼女が何を読んでいたのかわからなかった。
 彼女は店が終わるまでの二時間、カフェオレの次に紅茶を頼み、僕に何かを訴えるわけでもなく、視線を向けるでもなく、ひたすら本を読み続けていた。
 支払いの時は小田切が応対し、僕は違うテーブルの片づけをしつつ、彼女を見ていた。絹華さんは僕の方を見向きもせずに、カフェのドアの向こうへ消えた。

 それは駅で見たあの背中に似ていた。
 オーダーをマスターに伝えた僕は、扉を開けて急いで階段を下りた。彼女の後姿はなぜか僕をたまらない気持ちにさせる。
「絹華さん!」
 路地を歩く彼女を呼んだ。立ち止まった彼女が僕を振り向く。
 こんなのってないじゃないか。本当はずっと、待ってたのに。
「何で帰るんだよ」
「だって迷惑そうだったから」
 目を伏せたままの彼女が答えた。
 そうだ。僕は絹華さんと僕との、この温度差に無性に腹が立っていたんだ。
「迷惑じゃないよ」
「もう終わるの?」
「あと十分」
「待っててもいい? 話があるの」
「……いいよ。この辺危ないから、下の店にいて」

 急いで店に戻り、マスターに挨拶をして学校の制服に着替えた。
「椿樹。さっきの子、忘れ物だったん?」
「そんなもん。じゃあ悪いけどお先に」
「お疲れー」
 更衣室を飛び出して、カウンター越しに再びマスターへ会釈をし、ドアを開けて階段を駆け下りた。僕は何をこんなに焦っているんだろう。
 急に、心配になったんだ。本当に絹華さんがまだそこにいるのかどうかが。
 息を切らして階下の店に行くと、客は誰もいなかった。きょろきょろと店内を見回して彼女を探す。
 いない。
 どこにもいない。
 たったこれだけの時間を待ってられなかったのかよ。軽い失望を覚えて舌打ちした時、後ろから声を掛けられた。
「椿樹くん」
 振り向くと絹華さんは店の入り口に立っていた。
「中にいろって言ったろ……!」
「ごめんなさい」
 カーディガンの柔らかい腕を掴み、店の前の路地を駅に向かって歩く。
「それで話って?」
「この前、どうして私が椿樹くんのところへ行ったのか教えてって、言ってたから」
「ああ、あれね。本当に教えに来てくれたんだ。わざわざ律儀だね、絹華さんも」
 期待していた自分を隠し、素知らぬふりで学校の鞄を肩に掛け直した。
「下の名前を教えるって言ったのは口実で、ずっと忘れられなかったの。恵人くんと似てないって言った時、椿樹くんの雰囲気が急に変わって、嫌な気持ちにさせたんだと思った。だからいつか謝らなくちゃいけないって……。それに」
 彼女の膝でスカートの裾がひらひらと揺れている。
「椿樹くんのこと、何だか放っておけなかったの。気になって……毎晩眠る前に思い出してた」
 言い終わらない内に彼女の腕を再び掴み、ビルとビルの間の路地ともいえない薄暗く狭い通路に押し込んだ。
「椿樹く、」
「遅いんだよ」
 彼女の髪を左手で頭ごと掴み、激しく唇を重ねた。空いている右手で抵抗する彼女の手に丸めた紙切れを掴ませ、上から強く握りしめる。
 何度も顔の傾きを変えて、舌をねじ入れ、絡ませ、長いこと蹂躙した。息苦しいのか、もがくように呻くその声が、さらに僕の征服欲を刺激し、留めることを放棄させる。
 次第に抵抗する力は弱まった。
 彼女の柔らかい唇と湿った温かい口内は、僕に味わい尽くされている。
 絡めていた舌を離した後は、しつこく彼女の下唇に吸い付き、瞼を開けてその表情を観察した。苦しそうに眉根を寄せ、固く目を閉じた彼女の、近すぎてぼやけるそれをもっと見たくて、仕方なく唇を離した。
「合格」
 息を吐きながら呟くと、同時に笑みが零れた。だって、その顔。
 僕を見詰めるその瞳は屈辱にまみれた色を落とし、濡れた唇から甘く荒い息を吐いて、髪は僕のせいで乱れていた。
 可愛いよ、と言ってあげたくなる。
「……合格って?」
 しゃがんで足元に落とした鞄を拾いながら彼女が僕を見上げた。
「模範解答。いや、それ以上だったかな」
 僕のことを放っておけない、だなんて。
「これは?」
 彼女の手に持たせた一枚の紙切れ。くしゃくしゃになったそれを広げた絹華さんは、薄暗い中、目を凝らして書かれた文字を見つめた。
「店に来てくれたら教えるって言ったじゃない、僕のこと。住所と学校名とアドレスとID、誕生日、血液型と……性癖」
 よろけそうになりながら、彼女は何とか立ち上がった。その弱々しい様子が僕を一層興奮させて、どうにかなりそうだった。
「詳しく書いてあるから家に帰ったら読んで」
「私が知りたいのは、もっと違うことだよ」
 手で髪を直しながら彼女は僕を睨んで言った。
「女の子ってこういうこと知りたがるんじゃないの? まあ性癖は別としてもさ」
「椿樹くん、わかってない。全然わかってないよ」
 通りから、夜の冷たい風が吹き込んでくる。
「たかが一個上で年上ヅラされたくないな。何を知りたいって?」
 苛つきから声を荒げる僕を見て、一瞬怯んだ彼女は自分を励ますかのように僕に向かって大きな声を発した。
「椿樹くんの心」
 意外な言葉に胸が締め付けられた。
 反射的に彼女の手を握り、歩きだし、元の通りへ出た。

 誰にも触れられないと思っていたものを? 彼女はなぜこうも僕の隙間に入ろうとしてくるんだろう。

「遅いって、何が遅かったの?」
 僕の早足について来ようとする小走りの足音。僕よりも小さい手の温もり。すっぽり収まってしまうその大きさが、何ともいえない優越感を持たせた。
「僕がバイト先で、どれだけ待ってたと思ってるんだよ。来るのが遅すぎる」
「待ってたって、私のこと?」
「他に誰がいるの」
 通りの隅で、つむじ風が落ち葉を舞い上がらせた。
 鬱陶しい音が散乱するこの場所では彼女の声がしっかり聴き取れない。一言も聴き漏らしたくはないのに。
「絹華さん。今度はここじゃない、どこかで会おうよ。二人きりで」
 歩くスピードを緩め、彼女の手を強く握った。
「恵人に内緒でさ」
「……」
「返事は?」
 黙り込む絹華さんの頭上から声を振り下ろす。恐怖を感じさせないぎりぎりの、逆らうことを許さない声色で。
「返事」
「……はい」
「いい子じゃん」
 大声で笑いたくなったのを何とか堪えた。僕の問い掛けに素直に返事をする彼女が愛しくてたまらない。
「恵人ってさ、絹華さんのこと好きだよね?」
「……なんで」
「見てればわかるよ。告られた?」
「ううん。言われてない」
「だよね。そんな感じ」
 スナックのドアから漏れ聞こえてくるカラオケの声が煩い。
「周りから言われるだけで、恵人くん本人からは何も」
「絹華さん確認しないの? 私のこと好きなんでしょ? って」
「そんな図々しいこと言えない」
「言えないんじゃなくて、言わないんだろ?」
「え?」
「確認したくないんだよね、絹華さんは。恵人が自分を好きだ、なんてわかったら逃げられなくなる。周りに仲が良いと冷やかされるくらいなのに、今さら恵人を拒んだら悪者になって周りとの友情も壊れる、そんなところ?」
「どういう意味?」
「絹華さんが恵人を好きになるとは思えないから」
「……どうして、そんなことがわかるの」
「わかるよ。絹華さんは僕を好きなんだ」
「!」
 立ち止まって顔を上気させた彼女の耳元で囁く。
「恵人のことは好きだと思ってた。でもそれはただの友情なんだと僕に出逢って気付いた。違う?」
 否定をしないことが答えだと受け取る。
「僕も絹華さんが大好きだよ。だから」
「……だから?」
 初めて逢った時から感じていた。
「恵人に隠れて、僕とたくさん秘密を作ってよ。恵人だけじゃない、人に言えない秘密をさ」
 絹華さんは僕のように穢れていない。
「ダークチェリーを食べた時も、今のキスも、絹華さんは僕を最高に喜ばせてくれる」
 両親の元で惜しみなく愛されて過ごして来ただろう、僕が望んでも手に入らないものを気付かずに垂れ流している人。そのお零れを、地面を這いずり回ってでも掻き集めたいんだ。
「……最高に」
 恵人よりも彼女の傍に。
 兄の知らない彼女の顔を見る幸福。

 もっともっと僕を気にかけてよ。
 これからずっと……僕の居心地良い場所になってくれるよね? 絹華さん。








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