黒い森

7 白い天井




 頬に当たる土は柔らかく冷たかった。
 たくさんの大きな樹が見下ろし、その葉で僕を隠してくれている。
 もうどこも痛くないし、気持ちが悪くも、苦しくもない。
 誰もいないのに寂しくはなかった。
 久しぶりに、ゆっくりと眠れそうだった。

 この時、僕は初めて黒い森にいた。


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 目が覚めた。
 見たことも無い白い天井が広がっている。自分の家ではない場所で横になっていた。視線をずらすとそこには知っている顔。
「……恵人?」
「椿樹? 大丈夫か?」
 頭がぼんやりとしていた。動かした右の手首に痛みを感じ、顔をしかめると恵人が言った。
「点滴がついてるから動かさない方がいい。あとで看護師さんがもう一回来るって」
「病院なの? ここ」
「あんまり痛がるから救急車呼んだんだ。腹は? まだ痛いか?」
「もう何ともない」
「点滴に痛み止めと吐き気止めが入ってるんだってさ。父さんが今入院の手続きしてる」
「入院するの?」
「良くなればすぐに出られるって」
 溜息を吐いた恵人の横顔を見つめた。僕とひとつ違いの兄は、今年入ったばかりの中学で学級委員をしている。部活は小学校の時から得意なバスケ部。椿樹も中学に入ったら、うちの部活に来いよ。いつも笑って僕を誘う。
 椅子に座り、点滴を見上げた恵人が言った。
「椿樹お前、何食ったんだよ? 吐きまくってたじゃん」
「……母さんに言わない?」
「? ああ。母さんここにいないし」
「どこにいるの?」
「救急車呼んだ時、父さんがちょうど帰って来たんだ。母さんは具合悪いから家に残るって言って、俺と父さんで救急車に乗った」
 母はここにいない。僕に付き添うことを拒否した母に失望する気持ちは湧かず、それどころか心の底からホッとしていた。
「で? 何食ったんだ?」
「冷蔵庫にあった、肉まん」
 恵人は顔を傾けてしばらく考えたあと、僕に問いかけた。
「肉まん? そんなのあったっけ?」
「ちょっと変な味したけど、お腹空いてて我慢できなかったんだ。家に帰っても言わないでよ? 絶対」
「わかったよ」

 ここで言わなければ、タイミングを逃してしまう気がした。兄にそれを知られるのが本当は嫌だった。自分の惨めさを伝えるのが怖かったけれど、この先の身に降り掛かりそうな恐怖に比べれば、容易いことのように思えて、告白した。
「恵人」
「なんだよ」
「俺……僕、母さんに嫌われちゃったみたいなんだ」
「嫌われた?」
「夕飯、食べたらダメなんだって、僕」
「は? 俺が部活から帰った時、母さん、椿樹は夕飯とっくに食べ終わったって言ってたけど」
「恵人が帰ってくるまで部屋にいろって。帰ってきても出て来るなって。もし訊かれたら食べたことにしろって言われた」
「それ、今日の話?」
「ううん。火曜日から」
「四日前からかよ!? でも朝メシは俺と一緒に食ってたじゃん」
「朝のパンはいいみたい。でも学校帰ってからのお菓子は駄目だし、冷蔵庫も勝手に開けるなって言われた」
 恵人は困ったように頭を掻いて僕の話を聞いている。
「何か買ってこようと思ったんだけど、おこづかい少ししかなくて。お年玉は全部取りあげられたんだ、通帳ごと。もちろん自分でお金をおろしたことなんかないよ。それなのに」
「……マジ?」
「本当に何もしてないんだよ、俺。……じゃなくて僕」
 言い慣れない言葉に、何度も舌を噛みそうになる。
「どうしたんだよ、さっきから。普通に俺って言えよ。なんかお前、最近変だぞ」
「母さんが、俺って使うなって。あと眼鏡しろって。僕、目悪くなんかないのに。早く買ってこいって」
「眼鏡?」
「眼鏡買うお金なんてないよ。どうしたらいいの、僕。何で急に、こんなに……嫌われちゃったの?」
 目に涙が溜まった。痛み止めというのが切れてきたのか、喉の奥がひりひりとし、腰が痛んできた。
「椿樹」
「でも、母さんには言わないで。絶対」
「何かされたのか?」
「話しかけても全然答えてくれないし、顔見せるなって突然怒り出すんだ。怒りだしたら止まらないんだよ。返事をしなくても怒鳴るし、何か言えばもっと大きな声で怒鳴るし、ぶたれる。謝っても許してくれないから、じっとして終わるまで待ってる」
 僕は頭の中に甦った母の形相に怯えながらも、恵人に少しだけ期待していた。兄にはわかってもらえるのでは、という期待。幼い頃から、ずっと一緒に過ごしてきたこの人になら、きっと。
 数秒後、彼は僕に言った。
「少し我慢しろ、椿樹。できるよな?」
「……え?」
「父さんには、このことを言う。でも母さんの言うことは聞いた方がいい」
 この時からだ。
「眼鏡も夕飯も父さんに何とかしてもらおう。言えばお金は出してもらえる。そうしてもらう責任はある」
 僕の心に何かが棲みついたんだ。
「責任?」
 それは暗く重く痛く絶え間なく圧し掛かり、手足の先から、体の芯から僅かだけれど確実に時間を掛けて蝕んでいく。
「そのうち話すよ。とにかく寝てろ」
 恵人は立ち上がって僕を見下ろした。
「母さんは、かわいそうな人なんだよ」

 そのあとからだった。恵人は退院してきた僕の前で、今まで以上に母さんと親子らしく接した。口うるさく心配する母をうるさがったり、かと思えば母の体調を気遣って見せたり、学校であったことを面白おかしく話したり。明るく、素直で、誰からも好かれるという彼の性格に、ますます磨きがかかっていった。
 そんな様子を見て、どうしたらいいのかわからず、かといって二人の話に入れるわけでもなく、おどおどしている僕がその場を離れようとすると、気付いた恵人は必ずこちらに近付いた。
 卑屈になっている僕には憐みと受け取れる穏やかな視線を差出し、同時に照れ隠しのような笑顔を作って僕の肩を叩き、わざと母に聞こえる大きな声で何度も言った。それは誰が見ても、彼女を安心させようと、ひた向きな姿勢を母に示す、弟思いの優しい少年。

「宿題見てやろうか?」
「塾に行きたかったら言えよ?」
「たまには一緒にゲームするか?」
「学校で困ったことがあったら言えよ?」

 優等生の彼は僕の良き相談相手として、母の目に一層眩しく映っているんだろう。そして僕はその陰で存在を認められない者として、家の隅に追いやられている。わけもわからずそこで僕は一人、兄の呪文を頭の中で繰り返しながら、誰にも気付かれないように冷や汗を掻いて丸くなっている。いつまでも、いつまでも。



 再び、今度は本当に目を覚ました。
 夢の続きのように救急車のサイレンが遠くから聞こえる。天井は白くない。ここは僕の部屋だ。カーテンの隙間から朝日が入り込み、壁に一筋の明かりを刻んでいる。エアコンのせいで喉が痛い。

 ベッドから起き上がり、机の上に置いた店のカードを手に取った。
 昨日の彼女を思い出すと同時に、耳の下がダークチェリーの甘酸っぱさを連れてくる。
 サイレンの音がこの夢を見せたのか、昨日の彼女に対しての迂闊な言動が数年前の出来事を思い出させたのかは、はっきりしない。

「いつ来るのかな。絹華さん」
 行かないかもしれない、なんて言ってたけど、彼女はきっと僕のところに来る。

 ささやかな楽しみがひとつ、できた。




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