A birdcage〜トリカゴノナカデ〜

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(4)冬に咲く薔薇




 鳥の鳴き声と、冬の柔らかい朝日がカーテンの隙間から入り込み、柊史の腕の中で目を覚ました。

 彼は私の方を向いてぐっすり眠っている。いつの間にか私の足は柊史の両足に挟まれていてとても暖かだった。
 昨夜、何時頃に彼が帰ってきたのかわからない。最近は土日になると午後から舞台の稽古へ出かけてしまう彼は、特に土曜の夜は帰りも遅く、たいてい私は先に眠っている。

 目を瞑っている柊史の瞼へ、そっとキスをする。一瞬眉を寄せた彼は、再び何事もなかったかの様に寝息を立て始めた。
 彼を起こさないよう、そっとベッドを抜け出しスリッパを履く。チェック柄の大きな膝掛けを半分に折りたたみ、肩から身体をくるむようにして羽織った。部屋の中にいるのに吐く息が白い。お湯を沸かしながら時計を見ると、朝の8時。
 着替えてコーヒーを飲み、柊史が壁に取り付けたフックにかかっているコートを掴む。外へ出る支度をしていても、全く目の覚めない彼をそのままに、玄関のドアを開けた。

 外階段の扉を開けると、冷たい空気が顔中に刺激を与えた。銀杏も他の木々も葉は落ち、辺りはすっかり冬の支度を終えている。
「寒ーい」
 口に手を当て息を吹きかける。空はどんより曇っていて、珍しく雪でも降りそうな天気だった。

 アパートメントの端にある公園の裏側。普段滅多に通らないその場所で、先日薔薇が咲いているのを見かけた。冬まで咲き続ける薔薇というのを聞いた事はあるけれど、実際目にしたことはない。急いでいたせいで遠目にしかわからなかったから、どうしても近くで見ておきたかった。

「おはようございます」
 薔薇のお世話をしていた管理人さんに挨拶をする。チラリと私を見た彼は会釈だけすると、すぐに手元へ視線を戻した。彼の作業着の首元からは、いつものシャツとネクタイが見える。
「あの、それ冬薔薇ですよね?」
「よく知ってるね」
「珍しいなと思って」
「難しいんだよ、育てるの」
 鋏を持つたくさん皺のある手。その側にいくつも咲いている薔薇はくすんだピンク色で、ふちだけが鮮やかな赤に発色している。レンガで組んだ花壇には可愛らしいアーチがあり、そこへ薔薇が綺麗に固定されていた。周りには寒さに強い植物と花が植えられている。
「……ここに合ってる」
「え?」
「毎日毎日楽器の音聴いてたら、こういうの育てたくなるんだよ」
 低くしゃがれた声に、同意しながら頷いた。確かに、アパートメント全体が醸し出す雰囲気とここの花壇はよく馴染み、聴こえてくる音楽に耳を澄ますと、一瞬どこの国にいるのかわからなくなる。
 しばらく無言で浸りながら薔薇を眺めた後、声をかけた。
「じゃあ」
「はい、どうも」
 管理人さんは再び私の顔も見ずに会釈をした。あれこれ詮索しないこの人は、もちろん私のことも何も聞いては来ない。後ろめたい思いを抱えながらも、この無愛想な管理人さんに私は感謝をしていた。

 枯れた芝を踏みながらブランコへ向かう。鉄の鎖に手をかけると、思ったよりも太い。
「こんなに低かったっけ?」
 腰を掛け、靴を引き摺りながらブランコを小さく漕いでみる。すぐに止めて手のひらを鼻へ近づけると、鉄の匂いがした。もう許可の降りている時間を過ぎたのか、チェロの音が聴こえて来る。

 初めてここを訪れてから、もう二ヶ月近くが過ぎようとしていた。パン屋のアルバイトにも少しずつ慣れ、初めてのお給料ももらった。母へは一度だけ、ここから遠く離れた場所の公衆電話から連絡を入れた。自分を探すことがあれば、二度と電話はしないと念を押して。
「……」
 私達はきっと、何度でもお互いを確かめなければいけない。その度に安心して、言葉にして、触れて、温め合って……それでもきっとまだ足りない。不安を閉じ込めている薄くて脆い小さな瓶が、些細なことで壊れてしまわないように。

 かさりと枯葉を踏む音がして振り向くと、ブランコの柵の外側に柊史が立っていた。
「陶子」
「柊史、起きたの? おはよう」
 彼はパジャマのまま上着も羽織らず、私を見つめている。その表情は今まで見たことのないものだった。眉を寄せ、口を半開きにしたまま私を睨んでいる。
「どうしたの?」
「君が……」
 歩みをゆっくりと進め、私の前でしゃがみ込み項垂れた柊史は、右手で頭を抱えながら掠れた声で呟いた。
「君が、出て行ったのかと思った」
「え?」
「だって、携帯も持っていかなかっただろ?」
「あ……」
「今日はパン屋のバイトも無い日で、でも隣にはいないし、携帯も置いてあるし、出て行ったのかと思って飛び起きた。上着も、書置きもないしさ」
「ごめんなさい」
「いや、僕の方こそごめん。寝ぼけてたかもしれない。でも、かなり動揺した」
 顔を上げて私へ向けた、柊史の縋る瞳に胸が痛くなった。パジャマの首元は広く開き、鎖骨が見えている。余程急いでいたのか、靴の後ろを裸足の踵で踏んづけていた。
 いじらしいその姿は、私の中にある何かを呼び覚ました。……今すぐ柊史をこの胸に抱き締めて、大丈夫だと慰めてあげたい。私の何もかもを、心も身体も全部、あなたの好きなようにさせてあげたい。

「……柊史、髪が跳ねてる」
 芽生えた感情を抑えながら、愛しい髪へ手を伸ばす。柔らかなそれは、私がいけないのだと言う風に反抗しているのか、なかなか元へは戻ってくれない。
「心配かけてごめんなさい。どうしても薔薇が見たかったの」
「薔薇?」
「そう。管理人さんがね、育てているの。とても綺麗なのよ」
「陶子、薔薇が好きなの?」
「好きよ。冬に咲く薔薇は珍しいの。ほら、あれ」
「……本当だ」
 もう誰もいない離れた花壇へ視線を移して、柊史はゆっくりと立ち上がった。私もブランコから腰を上げ、そっと彼の手を取る。
「柊史寒いでしょう? 昨夜シチューを作ったの。パンと一緒に食べる?」
「うん」
「食事の後で、髪直してあげる」
「……うん」
 素直に何度も嬉しそうに頷く柊史の手を強く握る。普通がどうなのかなんて知らない。ただ、彼のはにかんだ表情は、私の心を捉えて離さなかった。

 靴を履き直した柊史と、寒さをしのぐ為に身体をぴったりとくっつけながら歩き出す。暫く進むと彼がぽつりと呟いた。
「馬鹿みたいに、いろいろ考えた」
「……」
「最近、帰りが遅くて陶子と夜ろくに話せてないから、嫌われたのか、とか」
「そんなことで嫌わないわ」
「うん」
「それに、どこへも行くところなんてないもの」
 辿り着いた階段の入り口へ立ち、三階建ての古いアパートメントを見上げる。何の飾りもない静かなその佇まいは、余計なものを持たない二人の暮らしに似ていた。
「ここが私の家なんでしょう?」
「……そうだよ。僕と君が、帰る場所」

 きっと柊史も敏感過ぎる程、それを感じ取っている。
 他人から見ればほんの些細な取るに足らない馬鹿げたことでも、鳥籠の中で肩を寄せ合っている私達には、時に残酷で羽根を千切られるほどの痛みを伴う。

 早く柊史を温めてあげたい。そして確かめて安心したい。安心して、また確かめたい。それを何度も繰り返したい。
 黙ったまま彼を見詰めて、もどかしさに潤んでくる目を細めると、見詰め返した彼の瞳には私と同じ思いが読み取れた。

 何も言わずに、もつれそうになる足に戸惑いながら二人で階段を駆け上がる。玄関へ入った途端、部屋まで間に合わない私達は、思いを唇に乗せてその場所でお互いを求め合った。




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