A birdcage 〜トリカゴノナカデ〜

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(2)並んだシャツ




 ケトルのお湯が沸いた。
 木製の持ち手に塗られていたニスはほとんどが剥がれ、柊史によって使い込まれたそれは、私の手にもほどよく馴染んだ。

 外は細かい雨が降り続き、今夜は弦の音がここまで届かない。寂しくなった私は彼の愛用しているラジオをつけ、壁にかかった白いシャツを見詰めた。

 一度だけ、両親の誘いで私の家へ柊史を招いたことがある。
 父も母も穏やかに彼を迎えたように見えたのは、私の愚かな勘違いだった。彼に向けて次から次へと質問をし、時には耳を塞ぎたくなるようなことすら容赦なく突きつける両親へ、柊史は淡々とけれど真摯に答えてくれた。あの時のことを思い出すと、今でも彼に申し訳なくて、恥ずかしさの余り消えてしまいたくなる。

 彼が帰った後、私は泣いた。
 両親の口から放たれたのは、私の大切な人を嫌悪した言葉の数々。きちんとした会社に勤めていないから。将来が見えないから。世間に顔向けが出来ないから。そんな、くだらない理由の為に彼の全てを否定された。彼の夢にも人間性にも全く興味が無いと、両親は軽蔑とも取れる眼差しを私へ向けた。
「……熱い」
 ベッドへ座り、淹れたての紅茶が入ったカップを口につけると、じくりと舌が痛んだ。
 何度両親を説得しようとしたか、わからない。毎日の様に彼を否定され、干渉され続けた私は……いつの間にか柊史の元で過ごす日々を夢見ていた。

 半間しかないクローゼットにかかった、白いコットンの丸襟ブラウスをハンガーごと取り出す。彼のシャツの横に並べ、袖を少しだけ重ねた。二人がいつも手を繋ぐ時のように。
 階段を上がる靴音が近付いた。鍵を開けノブを回す軽快な音は、沈んでいた私を光のある場所へあっという間に引っ張り上げる。胸を躍らせすぐ傍の玄関へ駆け寄ると、開いたドアから心待ちにしていた人の顔が現れた。
「ただいま」
「お帰りなさい」
 雨に濡れた靴を脱いだ彼は、同じ様に湿った上着と鞄を床へ置き、突然私を抱き締めた。
「外、寒かった?」
「少しだけね。陶子は?」
「大丈夫よ。今、紅茶を飲んでたの」
 なかなか私を離してはくれない柊史の顔を、その腕の中で見上げる。
「どうしたの?」
「いいね。お帰りなさいって言ってくれるの」
 彼の右手は私の頭を抱え込むようにして、さらに力をこめた。押し付けられた息苦しさに幸せを感じながら、瞼を閉じる。
「陶子がいなくなってたらどうしようって……心配した」
「柊史」
「ここにいることを後悔していたら、それはそれでしょうがないじゃないかって、ずっと自分に言い聞かせてた」
「いやよ、そんなの」
「うん」
 しばらくそうした後、気が済んだと言った柊史は洗面所へ向かった。彼のあとをついて後ろから覗き込む。ただ手を洗っているだけなのに、その仕草全てが私の欲しいもので困ってしまう。鏡越しに目が合うと、彼がどうしたの? という風に私へ笑いかけた。
「あのね、ご飯作ったの。もう食べる?」
「ありがとう。でもその前に、こっち来て」
 上着をハンガーへ掛けた彼は、私の腕を引っ張りベッドへ一緒に座らせた。

「パン屋の面接はどうだった?」
「明日から来てくれって」
「そうか。……平気だった?」
「履歴書は何も言われなかったわ。未成年じゃないし、住民票は移せてないけど、住所はここのを書けばいいから」
 不安げな彼の声を掻き消すように、明るい声と笑顔で答える。
「電話番号は柊史から借りた携帯の番号。案外、大丈夫なのね」
 彼は私の為に普段使っているものとは別に、もう一つ携帯を用意してくれていた。
「陶子、僕はね、」
「いいの、言わないで。わかってるから」
「……」
「大丈夫。全部わかっててここへ来たのよ。そういうの全部」
 眉を寄せた彼の頬へ手を伸ばす。
「今はこうして二人でいることが大事。そうでしょう?」
 何か言いたげな彼を宥めるように、頬をさすった。
「きっと何とかなる。大丈夫よ」
「陶子、聞いて。いずれ僕はきちんとするつもりだよ。君の両親に認めてもらえるように」
「……」
「いい加減な気持ちで君をここへ呼んだわけじゃないんだ、だから」
「いやなの、私。柊史のしたいことの負担にはなりたくない。ここに居るのは私の我侭だからそれでいいの。ここに置いてくれるだけで、いいの」
 話を遮り訴える私へ、彼は切なく微笑み肩を抱いた。
「それでも……覚えておいてくれる? 僕の気持ち」
 柊史の言葉に小さく頷く。本当は嬉しい。現実にそうなることは難しいと知っていても、彼の思いは深く私の奥まで染み込んだ。

 ラジオからはボサノヴァが流れ、二人の心を解きほぐす手助けをしてくれる。
「……陶子の髪、可愛い」
 拗ねた振りをして俯く私の髪に、指を通しながら彼が言った。
「長くて、細くて茶色くてふわふわしてて可愛い。それに」
「……それに?」
「いい匂いがする」
「柊史と同じシャンプー使ったのよ?」
「うん。でも僕とは違う。甘い匂いがする」
 髪のかかった私の肩先に顔を埋める彼へ、手を伸ばす。
「私も柊史の髪、好きよ。柔らかくていつまでも触っていたい」
 両手でお互いの髪を撫でていると、彼は私の額へ自分の額を押し付け鼻先を合わせた。
「あとは? 僕の身体のどこが好き?」
「待って、近すぎてよく見えない」
 クスクスと笑いながらじゃれあうと、さっきまで感じていた不安を閉じ込める事ができた。同じ様に透けては見える瓶の中だけれど、時々蓋を開けることに躊躇いはない。

「……肩と喉と背中」
 答えを待つ彼の瞳へ上目遣いで返すと、ベッドの軋む音と共に私は移動させられた。
「肩はね、硬くてかじりつきたくなる」
 彼の膝の上で目の前にある肩を右手で強く掴んだ。大げさに痛いと笑う柊史の耳元へ唇を寄せる。
「喉はここ。でっぱったとこ」
 左手の人差し指で彼の喉仏を引っ掻くようになぞると、くすぐったそうに身をよじった彼は私の手を掴み、お返しとばかりに強く握った。
「この手も好き。大きくて、骨っぽくて大好き」
「じゃあ背中は?」
 囁かれた途端胸の奥が狭くなった。彼の、背中。そんなに広くはなくて少し痩せた薄い背中。頼りないわけじゃなくて、ただ……切ない。
「泣きたくなるの。すごく」
「え?」
「……ごめんなさい。上手く言えない」
 両手を回し、その場所へシャツごとしがみついた。遠くから目にした時も、この温もりが伝わるほど近くにいる時も、いつだって微かな危うさと、込み上げる愛しさをない交ぜにしながら私を苦しくさせるのに、まるでその自覚を持たない背中。
 ――ずるい。憎らしいくらい、ずるい。
 もどかしさに唇を噛み締めた後、溜息と共に呟く。

「きっと柊史にはわからない、一生」
「どうして?」
「私が女で、柊史が男だから」
「なんだよ、真似したな?」
「柊史は? 私の髪以外にどこが好き?」
「……後で教えてあげるよ」
「今じゃ駄目なの?」
「たくさんあり過ぎて、ひとつひとつ教えるのに……時間がかかるから」
 からかいがちな口調とは反対に、私へ向ける真剣な眼差しに胸が震える。ふと何かに気付いた彼は、私から視線をずらして顔を上げた。
「いつの間にか陶子が僕の隣にいる」
「寂しそうだったから、並べたの」
 壁に掛かった二枚のシャツを見詰めたまま嬉しそうに頷く彼のその表情が、ますます私をやるせない気持ちにさせ、喉の奥を押し上げた。
「私、柊史を一人にしない」
「……陶子」
「絶対、一人にしないから」
 柊史の胸に顔を寄せる。ここへ来て初めて溢れた涙を、彼のシャツに擦り付け染み込ませた。

 食事をし、身体を流し、一日を終える。
 いつの間にかラジオから流れる曲はゆったりとしたジャズへと変わり、灯りを落とした部屋を満たし始めた。掠れた歌声と雨音がまどろみを誘う。

 私の耳へ唇を押し当てた彼は、約束通り時間をかけて優しく教えてくれた。




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