先生やって何がわるい!

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(16)小さな手





 食欲が無くて、昨夜から何も食べなかったせいか、今日は腹の調子がすごくいい。相変わらず喉はカラカラだけど、とにかく水飲んでればいいし。今朝体重測ったら、働く前から5kg減ってた。二ヶ月で5kgか。元々標準より少なめだったけど、ちょっとやばいかな、これ。

 弁当は少しだけ口にして、昼食後に子どもたちと園庭へ出た。相変わらずの五月晴れで、空は青く澄み渡っている。
 いつ、親父に言おうか。その前に主任に言わなきゃいけないか。たった二ヶ月だったけど、どうせ辞めるならなるべく早い方がいい。俺のことなんか、親たちも子どもたちもすぐに忘れる。

「せんせー」
「ん? どうしたの?」
 園庭へ出た途端、みーちゃんが俺に駆け寄って来た。正直、今は子どもたちの顔を見るのがつらい。
「せんせー、おなかいたい?」
「え?」
「いたいのいたいのとんでけー!」
「あ……」
 そう言って、優しく俺の腹を撫でてくれた。その声を聞いた他の子どもたちも、何人かこちらへやって来た。
「たけるも、やる」
「ちかちゃんも」
「え、どうして?」
 思わず子ども相手に、真顔で聞いてしまった。だってさ、どうしてわかったんだ? 痛いなんて俺、ひとことも言ってない。今日は昨日よりずっと調子が良くて腰も曲がらなかったし、全然顔にも出してなかったのに。
「だってせんせー、おなかいたそうなお顔してるよ。ねー?」
 みーちゃんが言うと、ようちゃんも隣で心配そうに言った。
「げぶ出そう? せんせーおべんとう、ちょっとしか食べてない」
「おねつ?」
 ちかちゃんは俺をしゃがませ、おでこに手を当てて熱を測っていた。後ろからは、ともくんが俺の頭をなでている。
「ママ、やってくれるんだよ」
「まーくんのママも!」
 いつの間にか俺は、わらわらと集まってきた子どもたちに囲まれてしまった。たくさんの小さな手が、俺の頭や背中、顔や腹を撫でている。

「……みんな」
 俺のよりずっと小さい手なのに、温かくて優しくて、そこから何かが俺の中にたくさんたくさん流れ込んできて、胸を熱くさせた。
「せんせー、そんなにいたいの?」
「救急車よぼう!」
「ひかるんちのそば、救急車きたよ」
「せいいちのお薬あげる。お風邪のとき、すぐなおるよ」
「うん……だいじょうぶだよ。だいじょうぶ」
 涙が溢れて止まらなかった。情けないけど、でも、でもさ。嬉しかった。子どもってよく見てるんだな。まだたったの二ヶ月しか一緒にいないのに。
「はい。せんせーに貸してあげる」
 さーちゃんがポケットからハンカチを俺に差し出した。前に、大事にしてるから誰にも触らせないと言っていた、あんぱんまんのハンカチだった。借りたハンカチで涙を拭き、息を大きく吸って笑った。
「痛くないよ。もう治った! 皆ありがとう」
「でも泣いてるよ」
「みんなが心配してくれたから、先生嬉しくってさ」
「ふーん」
「嬉しくても涙って出るんだよ。わかった?」
「うん!」
「わかったー」
「せんせーよかったね」
 ……ごめんな。やめたいなんて思って。ほんと、ごめんな。みんな、みんなごめん。ほんとごめん。
 俺はしゃがんだまま子どもたちを抱き締めた。いっぺんに何人も何人も抱き締めた。勝手に赤ちゃんみたいだと思っていたこの子たちは、情けない俺なんかよりも、ずっとずっと先に成長してたんだ。



 子どもたちが帰ってすぐ、梨子先生に連れて行かれた病院で、俺はストレス性の大腸炎と診断された。一時間点滴を打ち、処置室から出ると、梨子先生が長椅子に座り待っていてくれた。
「すみません。ご迷惑おかけして」
「ううん」
 会計で呼ばれるまで、彼女の隣へ座る。この時間はあまり人がいないらしく、待合室もまばらだ。梨子先生はエプロンを外しながら、ゆっくりと話し始めた。
「言ってあげれば良かったね。病気になりやすいの、一年目って。特に夏休み前までは」
「梨子先生も?」
「うん。私はストレスで右耳の難聴。すぐに治ったけど。膀胱炎は皆一度はやってるんじゃないかな。なかなかトイレに行けないから」
「……」
「あんまり知られてないけどね。もちろん、お母さんたちには気付かれないようにしてるから、高熱出してても先生たちはいつも元気だって思われてる」
 確かに、そうだ。実習中のイメージも、いつも先生は元気だった。
「最初は体もだけど、精神的にもきついんだよね。ちょっとしたことで落ち込むし、慣れないことばっかりで」
 俺が頷くと、梨子先生が顔を覗きこんで来た。
「熱、大丈夫?」
「はい。もう平気です。喉が異常に乾くのも、それのせいだったみたいで。薬で治るそうです」
「子どもたち、裕介先生のこと心配してたね」
「……はい」
「もう、ひよこ2組の担任は裕介先生しかできないね。私も頼りにしてるから、一緒に頑張ろう?」
「はい」
 情けない事言ってないで、今更だけど腹をくくろう。
「俺、すみませんでした。まゆちゃんのお母さんのこと。美利香先生に言われてたのに、勝手にそのままにして。今度からは必ず梨子先生に相談します。小さなことでも全部」
「うん。そうしてくれると嬉しい。一人で抱え込んじゃダメだよ?」
「はい」
 少しの沈黙の後、前を向いた梨子先生が呟いた。
「私もごめんね」
「え?」
「去年、私も清香先生に同じ事されて嫌な思いしたのに、裕介先生の気持ち、あんまりわかってなかった。子どもがいる場所で、あんなふうに言ってごめんなさい。私が裕介先生の立場だったら、私に対して腹が立つのも当たり前だと思う。一年目だって、新人だって、プライドあるもんね」
「……」
「……私もそうだったから」
 梨子先生は膝に置いた手を、ぎゅっと握っていた。艶のある茶色の髪が小さく揺れている。
「清香先生が悪気がないのはわかってた。でも……ピアノが下手でも、保育が上手くできなくても、私の居場所取らないでって思ったの。こんなのならやめたいって、何回も」
「……俺も」
「え?」
「もうやめてやるって、昨日からずっと思ってました」
 近くで振り向いた梨子先生が、俺を見つめた。今日は非難の目じゃない、同情するわけでもない、何となくだけど……やっと思いを共有できる仲間になれたような、そんな視線だった。
「あ、さっきからすみません、僕」
「いいよ、私の前では『俺』でも」
 梨子先生がクスッと笑った。ああそうだ。俺はいつもいつも、この笑顔に救われてたんだ。一緒になって笑うと肩の力が抜けて、ようやくここ何週間かの緊張がほどけた気がした。


 病院から園へ帰る道のりで、梨子先生と見上げた空は、昨日と同じ夕焼け雲が並んでいた。





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