泥濘 番外編 三島視点

言いなり(前編)




 残暑がまだきつい、秋の初め。
 飯島の誘いに目を輝かせた春田に付き合わされ、嫌々この場所に訪れていた。集まったのは男女合わせて13人。自分にとっては十分過ぎる程、鬱陶しい数だった。

 離れた所に留まり、春田の姿を確認する。到着してすぐから始まった、イラつく感情に振り回されないよう、敢えて彼女の傍には近寄らない。
 飯島の友人、飯島の彼女の友人達と愛想良く話をしながら、自分へ向ける春田の視線へは全く応えず、その姿に振り向きもしない。

 目の前に広がる湖は夕暮れの空を映していた。肌寒い風が湖面から吹いてくる。誘われるままにその場を離れ、湖に向かって木立を歩いていると、聞き覚えのある足音が後ろから迫ってきた。

「三島くん、待って」
 隣に並ぶ春田は息を弾ませている。
「すごく涼しいね。寒いくらい」
「ああ」
「飯島くんの彼女って優しいね。すごくいい人だったよ」
「そう」
「ね、男の子達のコテージってどうなってるの?」
「そっちと同じだろ」
「夕飯、外でバーべキューだって」
「……知ってる」
「あのね、もう全部準備出来ててあとは自分達で焼くだけなんだって。ラクチンだね」
「……」
 無言で落ちている葉や枯れ枝を踏みしめながら足を進めると、突然立ち止まった春田は小さな声で言った。
「……三島くん、なんか怒ってるの?」
「なんで」
「だってさっきから……全然かまってくれない」
「かまって欲しいんだ?」
 振り向くと一瞬顔を逸らした彼女は、相変わらずもじもじと自分の着ているパーカの裾を掴み、呟いた。
「そりゃ、そうだよ。一緒に来てるんだし。三島くんこういう所、嫌い?」
「お前が一緒じゃなければ嫌いじゃない」
「!」
 傷ついた顔で俺を見上げた春田へ、仕掛けてやりたいことが突然頭の奥に浮かび、じわじわと広がった考えは低い声で喚き続けた。
「私が来たらダメだったの?」
 混乱している彼女の言葉を無視し、咽返るような土と緑の匂いの中で、しばらくその瞳を見つめる。
 哀しげな表情に安堵するのとは反対に、度々訪れる歪んだ思いを埋め合わせようとする愚かさにもたつきながら、それでもやめられない自分がいた。ますます収まりのつかなくなったそれは、鍵を掛けても蓋をしても到底閉じ込めることはできない。
 傍から見れば無意味とも思える提案を、彼女に投げかけた。

「他の男に話しかけられても、そいつの顔見ないで俺のこと見てられるんだったらかまってやる」
「え……」
「出来ないんだったら無理」
「何で?」
 驚いた春田は戸惑いながら、俺のTシャツの裾を小さく摘んだ。
「何でも。俺がかまってやらなくても楽しめるんだったらいいだろ。別に強制してる訳じゃないし」
「……出来たら、かまってくれるの?」
 蚊の鳴くような声が耳に届いた。
「食べてる時も、飲んでる時も、立ってる時も、座ってる時も」
「ずっと?」
「そう。そこに俺がいなくても」
「いなかったらどこ見てればいいの?」
「考えてれば、俺のこと」
「三島くんのこと?」
「そう。誰といても、どこへ行っても……何してても」
 急に顔を赤くして俯いた彼女へ、かがんで髪に近付き言葉を落とす。
「何考えた? 今」
「別に……なんでも、ないよ」
 小さく振る頭と同時にクセのある茶色い髪が揺れた。その頭の中に浮かんだものを引き摺り出して目の前に晒してやりたいのを何とか抑え、彼女を見下ろす。
「お前の自由なんだから、やんなくても俺は全然かまわないけど」
「ううん。……やる」
「あっそ。じゃあな」
「え?」
「俺が言った通りにちゃんと出来てたら、かまってやる」
「……あ」
 腰に感じていた春田の手をTシャツから外し強く握り締めると、彼女は一瞬眉を歪め声を出した後、唇を噛み締めた。痛みに耐える瞳の奥には別の何かがチラついているのがわかる。
 春田の手を離し、湖へは向かわずに元来た道を歩き出すと、慌てた足音は後ろからついて来た。

 ついさっきまでつまらないと思い込んでいたこの場所に、愉しみを見つけた俺の神経は自分でも驚くほど昂っていた。
 薄暗い外での夕飯時。大きなグリルの上には煙が立ち昇り、肉の焼ける匂いが鼻をつく。側にある広い簡易テーブルの脇に立つ春田へ目を向けると、タイミングのいいことに、彼女は早速男に声を掛けられていた。
「春田さん、これ食べる?」
「え、あ……」
 一瞬自分の取り皿を見た春田は、すぐに顔を上げ俺へ視線を向けた。目が合った途端、当然の様に逸らしてやる。
「ありがと」
「これもうまいよ。飲みもん、はい」
「……うん」
「どうしたの?」
「ううん」
 その視線を肌で感じながら、彼女の従順さに感動すら覚えていた。少しずつ、確実に自分の望む姿へ変わっていくその様子を、頭の中で膝を抱え満足げにただ一心不乱に……見つめる。漁り尽くしてもまだ満たされない飢えた思いを隠しながら、食事を口へ運んだ。

「三島くん、はい。手拭く?」
「ああ、ありがとう」
 隣に来た女が差し出したウエットティッシュを受け取る。汚れてしまった手を拭きながら、再び春田へ目を向けた。
 視線が合った途端、あ、という顔をして彼女は嬉しそうに笑った。気付くか気付かないかの僅かな笑みを見せ、すぐに隣の女へ視線を戻す。
「三島くん、これ好き?」
「まあまあ」
「じゃああたしのあげる。口付けてないから。欲張って取りすぎちゃったの」
「……どうも」
 春田の視線を閉じ込めておく為に、仕方なくそれを自分の皿へ受け取る。途端、がちゃという音と共に春田が飲み物を零したのがわかった。
「大丈夫? 濡れなかった?」
「うん、平気。ごめんなさい」
「さっきからどうしたの?」
「……」
 罠にかかった小さな生き物のように、縋る瞳をこちらへ向ける春田が……たまらなく愛しい。自分を求める彼女を今すぐここから連れ出して、慰め解放してやってもいいという思いと、このまま俺の命令に縛り付けておける愉しみとの、身体を揺さぶる心地よく甘い選択に身を委ねた。
「何? なんかおかしいことあった?」
 いつの間にか笑っていたらしく、隣の女が楽しそうに顔を覗きこんで来る。
「ああ、ちょっと思い出し笑い」
「よくあるよね。あたしもね……」
 いろいろと話しかけてこられてもその声は全く耳に入らず、頭の中は隅々まで春田によって埋め尽くされていた。

 いつの間にか春田が俺の隣に来た。自分の皿を持ち上げ、こちらへ向けている。
「三島くん、これあげる」
「いらない。もう食えない」
「……じゃあ、これあげる」
 春田が箸で摘んだのは彼女の好物だった。
「お前それ取っておいたんだろ。食えよ」
「……うん。でもいい、あげる」
「あっそ、じゃあもらう」
 箸を取り上げ口を開ける。
「あ!」
「……なんだよ」
「一口だけくれない?」
「じゃあいらない」
「……意地悪」
 泣きそうになっている春田の横に、さっきから彼女の世話を焼いていた男が来た。
「あんまり苛めるなよ、可愛そうじゃん。春田さんも、もうこんな彼氏やめたら?」
 俺から春田へ視線を移した男が言った。
「え、やめないよ」
 一瞬男を見た春田が慌てて思い出したかのように、俺へ顔を向ける。
「……勝手にすれば」
 ――馬鹿馬鹿しい。
 再び顔を出した、ここへ到着した時と同じイラつきを無理やり捻じ込み、二人に背を向け、たいして使ってもいない皿を洗いに水道へ向かった。
 木立の前にあるベンチへ座り、立って食事をしている奴らを遠巻きに見る。春田は、相変わらずさっきの男にしつこく声をかけられ、それを見かねた飯島が間に入り、同時に俺のことを探している様子がわかった。あれこれ言われるのも面倒だから、携帯を取り出し、しばらく一人で眺めていた。

「三島くん、コーヒー飲む?」
 顔を上げると、食事時にあれこれ話しかけて来た女が湯気の昇るカップを手に持ち、目の前に立っている。

 湯気の向こう側に見える遠くの春田を見詰め、彼女を縛り付けている自分しか知らない鎖を外す方法を、ぼんやりと考え始めた。



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