泥濘−ぬかるみ−

(27)熱




 リビングで着替えた後、自分の部屋のドアを叩く。

「終わった?」
「うん」
 返事を聞きドアを開けると、春田は俺の黒いデニムを穿き、薄手のパーカのジッパーを上まできっちりあげていた。男物にしては小さめで細身のそれも、袖と肩がずいぶんと余っている。
 壁には出しておいたハンガーに、彼女の制服とカーディガン、予想外にブラウスまでが掛けられていた。
「そんなに濡れた? Tシャツとか中に着る?」
「ううん、大丈夫。いらない」
「足」
「え?」
 温かい飲み物を入れたカップを机に置き、片膝を着いて引きずる裾をまくってやった。靴下を脱いだ素足がチラリとのぞく。
「三島くん」
「お前さ、これでちゃんと拭いたのかよ」
 立ち上がり彼女の髪を指ですくうと、まだ随分と湿っている。
「うん。借りたタオルで拭いたよ」
 床に彼女を座らせ、洗面所から持ち出したドライヤーのプラグを入れ、膝立ちになり暖かい風を送ってやった。
「い、いいよ。自分で出来るから」
「俺がやりたいんだよ」
「三島くんは? 髪、」
「平気」
 柔らかく細い髪に指を埋めると、辺りに彼女の匂いが散らばる。春田は大人しく俯き、されるがままでいた。

「腹減ってない?」
「大丈夫」
 スイッチを切り、ミルクと砂糖の入ったコーヒーを渡し、隣へ座る。
「……ありがと」
 一口飲んだ春田が俺の手元を見て言った。
「三島くんてコーヒー、ブラックが好きなの?」
「俺、甘いの苦手なんだよ」
「じゃあ、バレンタイン大変だったね」
「もらってない」
 少し冷めたコーヒーを口にする。
「全部突っ返した。もらっても食えないし、結局捨てるから」
「そうなんだ。でも、」
「春田にもらったのは食べたよ」
「……」
「すげーまずかったけど」
「え!」
 驚いた彼女は、大きな声を出して振り向いた。
「あいつにも同じのやったわけ?」
「……うん。ていうか皆同じなの。友チョコも全部」
「文句言われなかった?」
「い、われてはないけど……どうしよう、まずかったんだ」
 目を白黒させる春田の顔がおかしくて、笑った。
「病院行ったやついなければ、大丈夫なんじゃない?」
「ひ、ひどいよ三島くん!」
 見上げる黒目を見つめる。
「……嘘だよ」
「え……」
「美味かったよ、全部食べた」
「ほんとに?」
「ほんと」
「……三島くん」
「なに」
「やっと、笑ってくれたね。ちゃんと」
 春田は嬉しそうに両手で握ったカップへ視線を落とし、もう一度口を付けた。
「お母さん、お出かけ?」
「仕事。帰りは夜」
「そう」

 窓の外へ目をやると、一向に降り止まない雨が窓を叩いている。ヒーターが心地よい暖かさで部屋を満たしていった。
「お前さ、休み時間も昼休みも図書室にいたの?」
「うん」
「何で俺のこと呼ばなかったんだよ。教えてやったのに」
「……」
「俺に、話しかけても来なかっただろ。ずっと」
「もう、三島くんに嫌われたくなかったの」
「……」
「期末試験、三島くんに頼らないで頑張ろうって決めてたの。いい点数取れたら、それ三島くんに見せて、もう迷惑かけないから嫌いにならないでって、言おうと思って」
「……」
「でも、やっぱり全然できなかったから、試験の問題自分で解いてたの。情けなくて、三島くんの顔見たら涙が出て、でも甘えちゃダメだって思って、」
 彼女の涙声に、ため息を吐く。
「お前、ほんと……馬鹿だよな。俺もだけど」
「……三島くんが? なんで?」
「泣くほど嫌がられてると思ったんだよ、俺。お前がまさかそんな風に思ってたなんて、気付きもしなかったから」
 もう随分とぬるくなったコーヒーを飲み込む。
「葉山もそれ知ってたんだ?」
「うん。応援するから頑張れって」
 春田はカップを横に置き、膝を抱え目を伏せた。
「葉山くん、春田さんが頑張るなら自分もちゃんとしなきゃダメだなって、そう言ってた」
 図書室へ俺を行かせた意図と、女と別れた本当の意味がようやくはっきりとした。

 手を伸ばし、春田の薬指と小指を、自分の人差し指と中指で引っ掛け握ると、彼女も同じくらいの力で握り返してきた。彼女の指から伝わる熱が、胸の奥を切なくさせる。
「枯れ葉を、」
 呟いた声を振り向く。
「雨の日、傘に入れて送ってくれた時」
「……」
「髪に触る前に、私の頭についた枯れ葉を取ってくれたでしょ? マフラーを巻いてくれた時も」
 風に吹かれた春田を思い出す。
「大嫌いって言われたけど……三島くんの手は優しかったよ」
「……」
「いつも、」
 窓を叩く雨粒が流れていく。
「いつも知ってた。私」

 繋がれていた指を引っ張り、春田を抱き寄せると、腕の中で彼女が言った。
「三島くん、寒いの?」
「なんで」
「だってなんか……寒そう」
「……嬉しいんだよ。死ぬほど」
 顔を上げた彼女を見つめる。
「でも」
「うん」
「やっぱ寒いから、あっためて」
「……うん」
 頷いた春田の唇に顔を寄せた。さっき飲ませた甘い味が伝わり、奥へと広がっていく。

「……春田」
「え?」
「さっき、どこが痛むって言った?」
「……」
「俺の傍に来ると」
 顎にかかる位置まで引き上げられているパーカのジッパーを静かに下ろしていくと、春田は小さく息を呑んだ。
「ここ?」
 以前触れたことのある喉元で止め、人差し指をじかに肌へ押し付ける。
「……ううん。もっと、……」
 言いかけた後黙り込んだ彼女の耳元へ、強い口調で問いかけた。
「もっと、なに」
 少しだけ顔を覗かせた、何度か味わったことのある春田を支配したい衝動を抑えつけ、今は駄目だと歯止めをかける。いずれ効かなくなるのはわかっていても。
「……もっと、下」
 肩が揺れて消え入りそうな声を出した彼女へ応える様に、もう一度ジッパーへ手をかける。胸の下で止めると、隙間から鎖骨が見え隠れした。
 再び喉元へ指を押し付け、そこから時間をかけて滑り下ろしながら、ひとつひとつ問いかけていく。
「ここ?」
「……」
 何度目かで春田が頷いた。その場所へ近付き舌を乗せる。そこにはもう、無知で無自覚な彼女はいない。
「まだ、痛い?」
 柔らかい肌につけた唇を離すと、彼女の手に引き止められた。
「まだ痛くて……うんと苦しい」
 掠れた声を聞いた途端、身体の奥から何かが込み上げた。彼女の背中に手を回し、きつく抱き締め、顔をうずめる。

 好きだと告げると彼女も同じ様に応え、そのまま二人でうわ言のように、同じ言葉を繰り返した。



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