泥濘−ぬかるみ−

(26)したたり




 雨足が強くなり、春田の傘を叩く音が大きくなっていく。

「いいのかよ、こんなとこにいて。今日部活ない日だろ、葉山」
「いいの。もう」
「なんで」
「……別れたから」
 一瞬戸惑いを見せた後、春田は静かに答えた。
 信じられないその言葉と、三日前の葉山の様子を思い出しながら問いかける。
「いつ」
「一ヶ月くらい、前。三島くんにガムもらった日」
 春田に会えなくなった朝と重なった。
「……振られたんだ?」
「ちがう。私から」
「あいつが原因?」
「……三島くん、知ってたの? 葉山くんのこと」
 顔を上げた彼女に、何も言わず頷いて答える。
「私、随分前に葉山くんが他校の女の子と一緒にいるの、偶然見ちゃったの。二人で腕組んで、仲良さそうだった」
「……」
「よく考えたらおかしいよね。私達、メールとか電話はしたけど、外で会うこともほとんど無かったし……」
「葉山はお前と上手くいってるって、俺に言ってたけど」
「多分、友達として」
「?」
「好きとかそういうの無しで、友達になろうって二人で決めたの。今は普通にしてくれてる。前よりも話すようになったから」
 混乱して黙り込む俺の胸元へ、春田は視線を移した。

「でも、葉山くんに彼女がいたから、別れたわけじゃないの」
「……」
「私、葉山くんとその女の子見ても何とも思なわかった。なのに、三島くんが立石さんと一緒に帰るのは、どうしても嫌だったの」
 ただ、目の前の春田を見つめ続ける。
「立石さんが、三島くんの腕に触るのもすごく嫌で、変だった」
 手に入れたかった言葉を、ひとことも聞き漏らさないように。
「三島くんを見ると、ここがずっと痛くて傍に寄るともっと苦しくて、私……それがどういうことかわかったの。やっと」
 眉を寄せた春田は、喉元ではなく自分の胸に手を当てていた。
「三島くんに、教えて欲しいって」
「……」
「私、嫌われてるのはわかってる。けど、」
 何もかも、手を伸ばせば届く場所にある。春田の、何もかも。

「春田」
 何度も求めた名まえを呼んだ。
「俺、気が変になるくらい好きな女がいるんだよ」
「え……」
「……」
「そう、なんだ」
 諦めと落胆を乗せた声に、身体の奥が疼く。
「俺が、好きな女にどういう風にするのか……知りたい?」
「いいよ。そんなの」
「聞けよ。教えてほしいんだろ?」
 傘の柄を持つ彼女の手首を掴むと、俺の手よりもずっと冷たくなっていた。
「え、やだ。……聞きたくない」
 首を振る春田の目に涙が浮かぶ。手元から傘が落ちて彼女の横へ転がり、水溜りの前で止まった。春の雨が、クセのある茶色い髪を少しずつ湿らせていく。

「好きな女には」
 俺の言葉に、春田は固く目を閉じ俯いた。
「毎朝、下駄箱で会える様に時間を見計らって登校する」
「……」
「放課後勉強見てやったり、コーヒー飲ませてやったり、寒そうにしてたら
マフラーもやる」
 春田の肩がマフラーと共に揺れた。
「学校帰り、後をつけて傘に入れてやったり、旧校舎の踊り場でわざと髪を腕時計に引っ掛けて、逃げられないようにする」
「み、」
「後ろから抱き付いて目隠しして俺の飴やったり、授業中も」
「三島、くん」
 再び顔を上げた春田の前髪から雨粒がしたたり、頬を滑り落ちた。
「朝から晩まで一日中、お前のこと考えてたんだよ」
「……」
「毎朝、お前と葉山の背中を俺がどんな気持ちで見てたか、知らないだろ?」
 ざわつきを覚えた瞳に、何度囚われたかわからない。
「俺は、全部知ってたんだよ。お前が朝乗る電車の時間も車両も、一人で帰る曜日も、葉山のことも」
 何か言いたげな唇を、今すぐこの場で塞いでしまいたいのを抑える。
「教えて欲しいって言われても、俺の心の中教えたら、お前今……確実に逃げ出すよ」
 掴んでいた手首を離し、転がっている傘の柄に手を伸ばして、しゃがんだ。
 顔を上げられない。悟られまいとしていた自分の醜い思いを、さらけ出した途端に拒絶されるのが怖い。
 強くなる雨が地面に押し寄せ、視界の端へと流されていく。

「……逃げないよ」

 頭上から微かな声が届いた。
 確かめるようにゆっくりと立ち上がり、彼女へ傘を差しかける。
「今までだって、逃げなかったでしょ? 三島くんから、一度も」
 涙を浮かべて微笑んだ春田の髪に手を伸ばし……優しく撫でた。
「濡れてる」
「……三島くんも」
「ここから近いから」
「?」
「俺の家、来いよ」

 春田の腕を掴み、冷たい雨の中を歩き出した。



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