泥濘−ぬかるみ−

(18)拘束




 春田にもっと近付きたい。葉山と同じ空間で奴に知られることなく。
 今日ここへ来た目的とは別に、飯島にも言わなかった思いに囚われ始めていた。

 建物に入ると、騒々しい音楽があちこちから飛び込んで来た。週末のせいか学生も多く、どこへ行ってもざわついている。
 カラオケの受付をしている飯島を、離れた所から見つめていた春田に後ろからそっと声を掛けた。
「俺がかけたって言うなよ」
「え?」
「携帯」
 彼女は目を合わせない俺の横顔を見上げ、消えそうな声で名まえを呼んだ。
「三島くん、私」
 言いかけて口ごもる春田を振り向き、真っ直ぐな視線を受け止める。こんな場所であっけなくその瞳に堕ちそうになるのを、奥歯を噛んで堪えた。
「……何だよ?」
「帰りたい」
 いつもと違う強い口調に驚き、咄嗟に彼女の顔色を確かめる。
「え、具合悪い?」
「ううん、違うの」
「……」
「全然そうじゃなくて私……葉山く、」
「春田さん」
 後ろから届いた葉山の呼びかけに、春田は口を噤み俺から目を逸らした。もうこちらを見ようとしない彼女の顔を、葉山が心配そうに覗きこむ。
「どうしたの? 行こう?」
「……うん」
「もう暑いんじゃない? それ。ここあったかいし」
 その問いに頷き、マフラーを外しながら歩く春田と、隣に寄り添う葉山の背中を食い入るように見つめる。学校での休み時間、葉山ではなく俺を選んだ彼女は、もうここにはいない。

 今初めて、はっきりと自覚させられた。
 春田に素直な返事をさせ、俺の目の前から連れ去り、その場を離れて行った葉山へ、これまでに無いほど嫉妬していた。
 
 部屋へ入り飲み物を注文し、皆それぞれ曲を入れ始める。狭い空間で葉山の隣にいた春田は、正面に座る俺を見た。ポケットに入っていた携帯を取り出し彼女に示し、そこを立ち上がった。
「俺ちょっと、バイト先に電話してくる」
「三島くん入れたー?」
「ああ、後でいいよ。お先にどうぞ」
 部屋を出、男女のトイレマークのある方へと向かう。通路の突き当たりは左右どちらへも行けるようになっていた。右へ曲がり二歩ほど進んだ場所で携帯を開き、呼び出す。そのずっと奥にトイレがあるようだった。

『はい』
 春田の声と共に、大きな歌声と音楽が携帯の向こう側から流れてくる。これなら、俺の声が彼女の携帯から葉山へ漏れ聞こえることもない。
「俺からの電話だって誰かに言った?」
『……ううん』
「よく聞こえない振りして、そこ出て」
『なんで?』
「嫌なら来なくていい。どうする?」
『……』
 黙りこむ春田の沈黙を受け取り、誘導していく。
「廊下に出たら右に向かってそのまま歩いて」
 部屋のドアが開いた音を、後方で聞く。同時に春田の足音が近付いて来た。
「突き当りまで行ったら、左に曲がって」
 俺に気付かないまま角を曲がり、自分がいる場所とは逆方向へ歩いて行く彼女へ、後ろから手を伸ばした。


 右手で春田の口を塞ぎ、左手はその腰に回し、そこから動けないようにする。何も、痛い目に合わせてやりたいわけじゃない。
「――!」
「お前さ、いい加減学習したら?」
 彼女の耳元に言葉を送り、触れている口元から力を弱めると春田は溜息と共に俺の名を呼んだ。
「三島、くん」
 その息は暖かく吐き出され、手のひら全体に伝わった。俺の腕の中で、春田は身体を強張らせ緊張している。また渇きを覚えているんだろうか。
「この前みたいに俺と二人になったら、とか考えないんだ」
「……」
「葉山呼べば? その携帯で」
 黙り込んでいる春田を尚も追い込んでいく。
「それとも、俺が怖くて声出ない?」
 口元から離した手を、春田の携帯を握る手に重ね合わせ包み込むように握った。
「……怖くないよ。三島くんは」
 俺を拒絶しないその言葉が、また自分を迷わせる。
「あっそ」
 小さな身体から離れ壁際に立たせると、春田は携帯をスカートのポケットへしまった。

 ぼんやりとした明かりの下で、絵でも鑑賞するかのように上から下まで彼女を眺める。頭の天辺から、爪先まで。髪の先から、触れたことのある喉元まで。知っている温もりも、これから知りたい場所も。
 俺の視線から逃れるように顔を逸らした春田は、眉を歪ませ唇を噛んだ。自分の着ているカーディガンの裾を握り締めながら、何かに耐えている。
 その表情は一瞬、勘違いしてしまいそうな程の力をもって自分を苛んだ。同時に、彼女と初めて放課後を共に過ごし、快さを覚えたあの感覚が再び顔を出す。

 今日はこれで、終わりじゃない。



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