泥濘−ぬかるみ−

(17)軽薄




 本当は何も無かったのではないかと、錯覚すら覚えさせられた。

 踊り場に二人でいたあの後も春田との距離が縮む事はなく、かといってそれ以上彼女が俺から離れていくわけでも無かった。以前より回数が減ったとはいえ、相変わらず授業中は俺に話しかけ、質問もする。朝は下駄箱から教室まで後をついてくるし、帰りも隣を歩いている。

 彼女の言葉が耳の奥へと入り込んだまま動けずに、痺れさえ感じている自分は、良くも悪くも変わらない春田との関係に、不安にも似た苛立ちを抱いていた。
 ただ、それとは別にはっきりさせたいことがある。

 週番を終えた次の週。朝のホームルームの後、帰りにどこかへ遊びに寄ろうと飯島が俺に切り出した。もちろん事前にそのことを知っていた俺は、さも今聞いた話だという様に楽しげに相槌を打つ。
「春田さんも行かない? 三橋さんも彼氏呼べば?」
 飯島が二人へ声をかけた。疑われないように、明るく。
「うん! 春田も行こ?」
「……うん」
 春田はチラリと俺の顔を確認するように見た。そんな彼女へ久しぶりに優しく声をかける。
「春田も葉山呼べば?」
「そうだよ。誘っておいでよ。今日一緒に帰る日でしょ?」
 三橋もいい考えだとばかりに賛同し、春田の腕を叩いた。
「え……」
「俺が言ってきてやろうか?」
 戸惑った春田に覗き込む様に追い討ちをかけると、彼女は首を振り答えた。
「いい。今、自分で言ってくる」
「じゃ、一緒に言いに行こ」
 春田と三橋は席を立ち、仲良く教室から廊下へ出ていった。三橋が付き合っている男と葉山は同じクラスだ。

「来るかね、葉山」
 飯島が俺を振り返り、意味ありげに笑った。
 机に肘をついて右手にボールペンを持ち、親指で何度も上下にカチカチとさせ、飛び出してくる鋭いペン先を見つめながら飯島の質問に答えた。
「来るんじゃん? たまには春田の方にも付き合ってもらわないと」
「何て言うつもりだよ?」
「んー? 見たまま、聞いたまま? 泣きついて来たって言うならそれも」
 俺の言葉に、飯島は組んだ手を頭の後ろに置き、思い切り椅子の背もたれに寄りかかると足を投げ出した。
「まあ、それしかないよな。俺は何すればいいわけ?」
「多分俺、すぐ帰ることになると思うから、春田のことよろしく」
「三橋さん達と帰らせればいい?」
「ああ」

 学校を出、いつもとは逆方向の地下鉄へ皆で乗る。
 ふたつめの駅で降り、その辺りでは割と大きな遊びの複合施設へと向かった。ボウリング、カラオケ、ゲーセン、バッティングセンターなどが一つの建物に収まっている。隣は二階建てのファーストフード店だ。

 そこへ向かう道すがら、何となく一番後方で葉山と一緒になった。もう三月に入るとはいえ、午後を過ぎると空気は冷え込んでくる。
 狭いガードレールの内側で隣を歩く葉山は俺よりも背が高く、よく見ると柔らかい感じの優しげな雰囲気は、確かに女受けも良さそうだった。俺が黙っていると、葉山がいつもの調子で言った。
「三島ってさ、彼女いないの?」
「……いないけど」
「ウチの学校にはいいのがいないって感じ?」
「別に、そういうんじゃないけどさ」
「他校でよかったら紹介してやろうか?」
 いかにも俺の為と言わんばかりの口調が鼻につく。間を置いて返事をした。
「……S女の女?」
 俺の呟きに葉山は一瞬驚いた後、すぐにいつもの人の良さそうな顔へ戻った。
「紹介するのはS女の子じゃないけど、」
「……」
「なんだよ。知ってんだ?」
 葉山は急に吹き出して笑った後、突然低い声になった。
「……飯島か」
「……」
「あいつが言うわけないって思ってたんだけどなー。飯島っていい奴じゃん? 無駄に」
 葉山は小馬鹿にしたように語尾を強め、俺に同調を求めた。
「あいつ、俺の事最低だって思ってんだろうな。いつもそんな目で俺の事見んだよ」
 ポケットに手を突っ込み、少し前を歩く飯島の背中を見つめ、鼻で笑った。
「まあ、春田さんは何も知らないみたいだから、飯島に感謝しないとだよな。三島も言わないでいてくれるんだろ?」
「……ああ」
「俺これでもさ、春田さんのこと大事にしてんだぜ? 一切手出してないし。ていうか他にいるから大事にできんだけど」
 ベラベラと得意げに話す葉山を心の中で冷笑しながら、一言も聞き漏らす事のない様耳を澄まし続けた。

「どういう子がいい?」
 葉山の質問に、前を歩く春田をぼんやり見つめながら口を開く。
「……小さくて」
「うん」
「幼くて、頭が悪そうで、空気読めなくて、髪は細くて茶色でクセがあって肩くらい」
「なんだよ、注文多いな」
 もちろん俺の思いなど知らない葉山は、暢気に笑っている。
「できれば彼氏持ち」
「……はあ?」
「春田が呼んでる」
「あ、ああ。今度紹介するからさ、春田さんにはほんと頼むよ三島。な?」
 慌てて駆け出す葉山の背中を見つめていると、また頭の中を何かが叩いた。その音と共に、胸の奥で抑えていたタガがゆっくりと外れていくのがわかる。

 春田の何を知っているんだろう。
 彼女がふとした瞬間に見せる仕草も、少し甘えた様に問いかける鼻に掛かった声も、戸惑いも困惑も、教えて欲しいと言っていたその思いも、俺に見せたその内のいくつを知っていると言うんだろう。
 それでもこうして俺に媚びへつらう葉山に、春田は何かを求めている。何も知らずに。俺ではなく、あの男に。

 ポケットから携帯を取り出し、液晶に呼び出した春田の名前を、親指で強くなぞった。



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