泥濘-ぬかるみ-

(2) 乾き




 何も理解していない目の前の女に、午前中に感じたイライラがまた蘇ってきた。

 春田の前の席に座った俺は、振り向いて数学を教えている。
「お前さ、どうやったらそういう事になるんだよ」
「あれ? 違ったの?」
「ここに当てはめる公式が全然違う。この場合はこっちだろ」
「あ、ほんとだ」
 その先の説明を始めると彼女は何が嬉しいんだか、笑顔で俺の顔を見つめた。
「ちゃんと聞けよ」
「聞いてるよ。三島くんてやっぱりすごいね」
「……」
 春田は俺の一番苦手な種類の女だ。人の話しもろくに聞かないで、何でも笑って誤魔化せば済むと思っている。都合が悪くなるとすぐ謝って人の顔色伺って……本当にこれだけ嫌な条件が揃っている奴も珍しい。

「春田さん?」
 ふいに男の声がして顔を上げると、すぐ傍にある教室の入り口に男が立っていた。
「あ、葉山はやま
「三島じゃん。久しぶり」
「ああ」
「……何してんの?」
 バスケ部のエナメルバッグを肩から掛けている葉山は、俺から春田に視線を移した。
「あのね、三島くんに数学教えてもらってるの。私全然わからないから、お願いして」
「ああ、そうなんだ。三島頭いいからよく聞いておくといいよ」
「うん」
「後でメールする」
 葉山に向かって頷く春田の茶色い髪が揺れると、そこから甘ったるい匂いが零れ、思わず顔を背けた。
「じゃあ」
「部活頑張ってね」
 春田が手を振ると葉山は笑ってその場を去り、また教室が静まり返った。

「三島くんて、葉山くんと友達なんだ」
 春田は飾りの付いたシャーペンをジャラジャラと動かしながら問題を解いている。
「友達っていうか知り合い程度だけど」
「そう」
「もしかして、あいつと付き合ってんの?」
「え、あ……うん。一応」
「へえ、いつから?」
「いつって、えーと、最近。先週くらいから」
「ああいうのが好きなんだ?」
「え! 好きっていうか……」
 春田は手を止め、目を泳がせながら俯いた。彼女はもじもじとシャーペンを指で左右に擦り始める。ゆっくりと。
「私みたいなのを好きって言ってくれたから」
「……」
「皆に春田にはもったいないって言われて……付き合ってみたらって」
 彼女の言葉に鼻で笑う。
「あいつのこと好きでもないのに『付き合ってやる』んだ」
「……これから好きになってくれればいいって、葉山くんが」
 一瞬歪んだその表情が目に飛び込み、込み上げるものが抑えきれず、椅子の背もたれに勢い良く寄りかかりながら今度は声を上げて笑った。
「な、何? 私そんなに可笑しいこと言った?」
「好きにならなかったら?」
 笑うのを止め、彼女へ軽蔑の眼差しを向ける。
「どうするんだよ」
 春田は俺の視線を受け止め言葉を無くした。
「何様だよ、お前」
「そういうつもりじゃ……」
 途端、彼女が見せた表情に快さを感じ、それまでの会話が急に馬鹿馬鹿しくなった俺は、また教科書へ視線を落とした。
「あ、そ。別にどうでもいいど。俺には関係ないし」
「……」
「早くやれよ問題」
 ここまで言われても何故か席を立とうとしない春田に疑問が浮かぶ。そして自分にも。

 ノートに数字を書いていく春田の指は白くて小さい。上から俺が掌で押さえ付ければ、潰れて骨でも折れそうだ。
「……」
 頬杖を着き彼女を上から下まで眺める。
 肩幅も顔も小さく背も低い。クラスの中でもかなり小柄な方だろう。足は……首を傾けて彼女の上履きに目をやる。俺の小学生くらいの時のようで笑えた。視線を戻しまた手元を見つめると、爪は生意気になんか塗っている。薄い色に淡く艶がある。

 彼女のすべてが受け入れられなかった。
 見た目も話し方も雰囲気も、男に対するその考え方も。理想とは掛け離れた存在に、こんなにも過剰に反応するのは何故なのか自分でもよくわからない。
 胸騒ぎがした。

「あの、三島くん」
 俯いたまま、目の前の春田が声を出した。
「なに」
「あんまり……こっち見ないで」
「は?」
「だってなんか見てない? さっきから」
「お前に勉強教えてやってんだから、見るに決まってんだろ」
「そう、なんだけど」
「文句があるなら、終わりにするけど」
「文句じゃないの! ご、ごめんね」
 自分の喉元に手を置いた彼女は、溜息を吐きながら落ち着かない瞳をこちらへ向けた。
「そうじゃなくて、何だか緊張しちゃって」
「緊張? 何で」
「わかんないけど喉がカラカラなの……」
「……」
「あ、そうだ。何か飲まない?」
「俺もう帰りたい」
「お礼に奢るね。自販機の買ってくる」
 俺の言葉を無視して立ち上がった春田は、鞄からその身体に似合わない大きな財布を取り出した。
「三島くんはコーヒー?」
「……なんで」
「さっき飲んでたでしょ? お弁当のあと」
「……」
「絶対待っててね! すぐ戻るから」

 教室から飛び出した春田の廊下を走っていく乾いた足音が遠ざかる。
 思い出しそうになった胸のざわつきを抑え込み、彼女の机に突っ伏し、近すぎてぼやける頼りない文字を見つめる。書き辛そうなシャーペンを指先で弾くと、持ち主を探す様にノートの上を転がったそれは、机から落ちた。

 春田がいなくなった教室は、寒い。



-Powered by HTML DWARF-