泥濘−ぬかるみ−

(1) 予感




 トントンと、音がする。

 十二月。冬休み前の席替えで、俺の隣に座った春田はるたという女が教科書とノートを持ち、それを机の上で揃えた音だった。あまりこの女のことは知らない。初めて近くの席になり、今まで口を利いた事すら無かった。

三島みしま、これ何」
 俺の前に座っている飯島いいじまが声をかけてきた。
「何って、どれ」
「ここ。俺、全然わかんね」
 数学の教科書を開き、飯島が指を差した箇所をシャーペンで指し示しながら教える。
「あ、あーそうか、そういうことか」
「いい?」
「おお、サンキュ、サンキュ」
 飯島が頷きながら前を向き、俺も自分の教科書に目を落とそうとした時だった。
「?」
 左側に視線を感じ振り向くと、隣の春田……がこちらを見ている。
「何?」
「え、ううん。何でも」
 春田は慌てて俺から顔を逸らし、俯いて自分の教科書を見た。彼女はゴテゴテした飾り付きの、いかにも書き辛そうなシャーペンを握り締めている。

 十秒後、また同じ様に春田を感じた。
「……あのさ、なに?」
「あ、えっと、あの……」
 彼女の話し方が変に俺の耳へ纏わり付く。睨みつけられ怖かったのか、いきなり彼女が謝った。
「ごめんなさい」
「ごめんなさいって何だよ。何かしたの」
 強い口調で返すと、彼女は首を小さく横に振る。
「じゃあ何謝ってんの」
「だって、怒ってるから」
 次第に聞き取りにくくなる声が癇に障った。
「別に怒ってないよ。言いたい事があるならハッキリ言えば?」
「怒ってんじゃん三島」
 飯島が振り向いた。
「何イラついてんの? 春田さんだってそれじゃ何も言えないって」
「……別に」
 客観的に見れば飯島の言う事は尤もだ。
 けど、この女の雰囲気とか声に、おどおどした瞳に、自分の奥にある触れられたくない場所を刺激された様に感じて、酷く不快だった。初めて言葉を交わす人間に、こんな感情を持った事は無い。

 飯島から逸らした視線を何となく前へ向ける。廊下側の一番後ろに座る俺からは、教室中が一辺に見渡せた。話に夢中になる奴ら、漫画を読んでいる奴、イヤホンを耳に突っ込み音楽を聴きながら眠っている奴もいれば、真面目に授業を受けている奴も当然いる。
 逆に言えばこの席は、他人から目に付きにくい場所だ。

「どうしたの、春田さん」
 飯島の声に安心したのか春田が口を開いた。
「……飯島くんが聞いてた問題」
「さっきの?」
「そう。私も全然わからなかったから、三島くんすごいなあって思って」
 春田は俺に笑いかけた。
 その笑顔も……気に食わない。髪は茶色く、細い毛は少し癖があるのか首元で揺れている。
「じゃあ三島に教えてもらえば? 俺、説明は上手くできないし」
「え」
 彼女は驚き目を丸くした後、俺を見つめた。
「教えてもらえたら嬉しいけど」
「……」
 俺の沈黙に飯島も一緒になって緊張を感じている。春田の前に座る三橋みつはしという女まで何時の間にかこちらを振り返っていた。面倒くさい。ここで断ればまた責められるんだろ?
「……別に構わないけど。後でなら」
「え、ほんと? ありがとう」
「良かったね、春田」
 三橋も飯島も安堵したのか前を向き、今度は二人で話し始めた。俺に余計な事を言わせたそのおせっかいにも、心底嫌気が差す。

 春田の視線はまだ俺に向けられている。それが堪らなく鬱陶しく感じ、溜息を吐きながら厭々口を開いた。
「さっきの所?」
「うん。あのね、あともう少しあるんだけど、いい?」
「量によるけど。俺早く帰りたいし」
「あ、そうだよね。えーと放課後ってこと?」
「それしか時間ない」
「うん。じゃあよろしくお願いします」
 春田がその場で頭を下げる。自分でも呆れる程の冷たい視線を、そのつむじへ投げてやった。
「……」
 こんな頭の悪そうな女と、放課後何十分も一緒に居たくは無い。

 適当に教えて、さっさと終わらせるつもりだった。



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