TOP

金曜日はピアノ


番外編 幸せを運ぶ四重奏



 秋の終わりだというのに体中が熱く火照り、喉はカラカラに乾いていた。緊張で握りしめていた手のひらの汗を、バッグから取り出したハンカチで押さえる。楽器店が主催の小ホールで行われる演奏会は、事前に何のトラブルもなく、今夜この時を迎えることができた。

 前半が終わった休憩時間。コンサートホールの扉から出たすぐの場所にあるベンチへ腰かけていた私は、バッグの中へハンカチをしまい、買っておいたペットボトルの紅茶を手に取り、蓋を開けた。良い香りに喉を潤して、ロビーの高い天井を見上げる。
 始まってすぐに鳴り響いたヴァイオリンの高音。柔らかなヴィオラ。ふたつのセッション。そして重厚なチェロのソロ。三重奏が終わり彼らが舞台から去ると、入れ替わりに現れた先生の奏でる美しいピアノソロ。再び登場した三人と先生のピアノで四重奏。耳に残る演奏が、いまだ頭の中で繰り返され、高揚した気持ちは中々静まってくれない。

「すみません、隣空いてますか?」
 優しげな感じの男の人が私へ声を掛けた。ベンチは四人掛けになっており、既に私の横には二人の大人が座っている。体を寄せて、示された端の席に余裕を持たせた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。優菜ちゃん、ここ」
 お辞儀をした彼は、後ろにいた女の人を呼んだ。
「俺、飲み物買ってくるよ。何がいい?」
「えっと、温かいお茶」
「わかった。待ってて」
 私の席も譲った方がいいと、そこを立ち上がろうとした時、隣へ静かに座った彼女は、すまなそうに頭を下げた。
「ありがとうございます。でも、ここ誰か来るんじゃなかったですか?」
「いえ、来ないから大丈夫ですよ」
 彼女はすみません、と微笑み、前を向いた。ゆったりとした品の良いベージュのワンピースに身を包み、髪をひとつにきちんと纏め、耳元には小さなダイヤのピアスが光っている。可愛らしく見えるけど、きっと私よりずっと大人だ。男の人が戻ったら入れ替わりに席を譲ろうと決め、手にしていたパンフレットをひらいて視線を落とした。

 人の多いロビーはドリンクカウンターにも行列が出来ている。何度も周りをきょろきょろと見渡していた彼女は突然こちらを向き、私の手元にあるパンフレットを指差しながら小声で言った。
「あの、よく来られるんですか? クラシックのコンサート」
「いえ、まだ二回目なんです。お好きなんですか?」
「私は初めて、です」
 恥ずかしそうに顔を赤くした彼女は目を伏せ、ワンピースのお腹を撫でた。その薬指はシンプルなプラチナが飾られている。
「……いい影響があるかなって思って」
「あると思います、すごく」
「ありがとう」
「気に入った曲とか、ありましたか?」
 私の質問に、彼女は急に真剣な表情を見せた。
「ピアノが切なくて胸に沁みました。ピアニストの人も素敵だし、演奏がすごく印象に残るっていうか。あの曲、どこかで聴いたことがあります」
「ショパンのスケルツォ、ですよね」
「そう。って題名はもう忘れちゃってた、ごめんなさい」
 クスクスと笑う彼女につられて私も笑った。
「それから、そのあとの四重奏は全然違う優しい感じでゆったりできました。とても満ち足りた気分」
 会話を続けていると、突然彼女の横顔が輝いた。その視線の先には、飲み物を手にした男の人がいる。
「お待たせ」
「ありがとう、彰一さん」
「こぼさないようにね、気を付けて」
「うん」
 湯気の出るカップを受け取った彼女は嬉しそうに口を付け、隣へ立つ彼とおしゃべりを始めた。私は彼に席を譲り、ホールの座席へと戻った。


 全ての演奏が終わり、次々に会場を後にする人たちを、座席に残ったまま、ぼんやりと眺めていた。人々の間から見える、舞台に置かれた美しいグランドピアノ。先生が演奏していた場所を、小さな照明が浮かび上がらせている。演奏者のいなくなったピアノが寂しげに見えた。
 十分も経たずにホール内はほとんど人がいなくなり、名残惜しい気持ちをその場に置いて、私も大きな二重扉からロビーへ出た。出演者が何か所かに散り、たくさんの人に囲まれている。遠目にもわかる先生のタキシード姿。そこには休憩の時に出逢った二人がいた。先生に何か声を掛けている。嬉しく思いながら、その場を去ろうとした時だった。
「苑子!」
 名前を呼ばれ振り向くと、駆け寄ってきた先生が目の前にいた。周りの人が私たちへ一斉に視線を向けたけれどそれは一瞬で、またすぐそれぞれの会話へ没頭し始めた。
「なんで声かけないの」
「忙しそうだから邪魔しちゃいけないと思って」
 遠くから心配そうに私を見ている二人へ小さく笑ってお辞儀をすると、彼らも微笑んで会釈をし、寄り添いながら出口へ足を向けた。
「苑子」
 私の腕を先生が掴んだ。痛みに眉根を寄せて彼を見上げると、その瞳が私を非難していた。時折出会う、逆らうことを許さない彼の視線。慌てて首を横に振り、言い訳を並べる。
「違うの。遠慮とかじゃなくて、先生このあと打ち上げでしょう? だから先に帰ろうと思ったの。今、先生の携帯にメールでそのこと送ろうとして、」
 訴えを最後まで聞かずに、先生は左手で私の腕を掴んだまま早足で歩き出した。彼の動きに合わせて右手にあるいくつかの花束が大きく揺れている。
 ホールには座席の後ろ側に三つ、左右それぞれ二つずつ大きな扉が設置されている。左右の扉は既に閉まり、その廊下付近に人影は全く無かった。
 奥の奥まで連れて行き、柱の陰へ私を強引に立たせると、彼が不機嫌な顔でこちらを見下ろした。ついさっきまで音楽に満たされた空間がすぐ隣にあったとは思えないほどの静けさが二人を包む。
 ゆっくり息を吐いて彼を見詰め返した。
「先生」
「顔くらい見せてくれたっていいじゃない」
「ごめんなさい」
「僕は君のなんなの?」
「え?」
 軽く唇を重ねてすぐに離れた先生は、私の肩に自分の額を押し付け、呟いた。
「……そういうの、傷つくんだけど」
 溜息と共に耳元で出された声が、苦しい。この胸の痛みを、どう言えば伝えることが出来るんだろう。
「先生」
「……」
「先生お願い。聞いて?」
 ホール中の人たちへ、きらきらと舞い降りて来た眩しい音楽。
「皆さんの演奏、とても素敵でした。会場の人たちが送った拍手が、まだ耳に残ってる」
「……うん」
「私、先生の演奏中ずっと」
 舞台の上の彼が遠くて、嬉しさと不安の入り混じる感情に困惑していた私は、こんなにも近くにいる先生の匂いに安心して、声が詰まった。
「泣いてたの? 目が赤いのが気になってたんだけど」
 すぐ傍で振り向いた先生は鼻先を合わせ、私の涙の痕へ指を滑らせた。
「止まらなかったの。先生のピアノが胸に痛くて、ずっと」
 頬を撫でていた指先は私の唇へ移動し、宥めるようにそっと触れた。
「先生の音も、先生のことも……大好き」
 彼の手から離れた花束が絨毯の敷き詰めてある床へ落ちた。花の香りに眩暈が起き、同時に深く唇を塞がれた。何度も顔の向きを変えては求める彼の思いを受け止めるたびに、演奏を聴いていた時と同じ感情が湧き上がり翻弄された。先生の音はいつも、私の奥へしまってある秘密を導き出しては、これがそうなんだよと優しく教えてくれる。
 呼吸が乱れて指先まで回ってきた頃、彼は唇を離し、額を合わせて言った。
「ありがとう」
 優しい呪文のような囁きに縛られた私は、湿った瞳で先生を見詰め続けた。応えるように私の内を覗き込む先生の瞳も同じに見えた。何も紡ぐことの出来ない互いの唇が、ここで欲しがることを我慢する。

 私から離れてしゃがんだ先生は、足元の花束を拾い上げ、壁へ寄りかかった。
「何人か都合が悪くなったから、打ち上げは日を改めることになったんだ」
 先生は伸ばした左手で私の髪をゆったりと梳いた。絡ませる指先を愛おしく感じながら、彼の言葉へ耳を傾ける。
「さっき、出演者全員、他の演奏会にも出ないかって声を掛けられたよ。これから楽屋でそれについて話があるから、少し時間がかかるけど一緒に帰ろう」
「これで終わりじゃないの? 何だか夢みたい……」
「僕はコンクールへの出場も誘われた」
 めくることを恐れていた哀しい過去の物語は、舞台の上に置かれていたグランドピアノのように、ささやかな光に照らされ始めた。
「本当に? すごいです、先生。すごい」
「出ないかって言われただけなんだから、ちっともすごいことはないよ」
「コンクールも、今日みたいにアマチュアなの?」
「いや、僕は音大卒だから、コンクールではアマチュア部門に参加することはできないんだ。一般参加になる。コンクールによるんだろうけど」
 続きがないと思われていた真っ白な頁は、書き込まれるのを待ち望んでいる。
「出たって確実に賞を取れない自信があるよ。レッスン時間も限られてるし、現役で活動している人たちにはどうしたって負ける。ブランクも長いうえに経験も少ないんだから」
「じゃあ、出ないの?」
「さあ……。気が向いたらね」
 私の手を取った先生は、今辿った通路を戻る為に歩き出した。再び人の声や足音が近付いてくる。
「さっき、ロビーで先生に話しかけてた二人いたでしょう?」
「ああ、夫婦っぽいひと?」
「そう。休憩の時にベンチで隣に座ってて、少しだけどおしゃべりしたの。先生のピアノ、すごく褒めてました」
「ありがたいね」
「あと、四重奏はとても満ち足りた気分になったって。私も同じように感じました」
「あれは合わせるのに苦労したから、そう言ってもらえると報われるよ」
 通路からロビーへ入ると、混雑はだいぶ和らいでいた。彼らがいた場所へ顔を向けた先生が、思い出したように呟いた。
「いつぐらいなんだろうね」
「確か、春先って言ってました」
 大切そうにお腹を撫でる彼女の手が、私の心に温かさを残していた。
「君は?」
「え?」
「まだそういう予定ないの?」
 驚いた私は足を止め、先生の手を強く握っていた。今まで味わったことのない不思議な気持ちが私を取り囲む。
「冗談だよ。しばらくはまだ君と二人がいい」
 みるみる赤くなっていく頬と高鳴る心臓の音が、恥ずかしげも無く嬉しさを主張していた。
「そのうちね」
 からかうように笑った彼は周りのことなど気にせずに、私の頬へ軽く唇を押し付けた。
「苑子、これ持って待ってて」
 花束を顔の前へ差し出され、突然現れた色彩に目が眩み、思わず顔が綻んでしまう。
「綺麗」
「楽屋にもまだたくさんあるんだ。君が送ってくれたのも。帰ったら好きな所へ飾っていいよ」
「嬉しい。すごくいい匂い」
 タキシードのジャケットを脱いで腕に掛けた彼は、穏やかに微笑んだ。
「君が喜んでくれたなら、出演したのも無駄じゃなかったかな」

 私は花束を抱えたまま、楽屋へ向かう彼の背中を見詰めて、聴いていた人皆へ幸せを運んでくれた四重奏を丁寧に思い出しては、胸の奥で響かせていた。











「幸せを運ぶ四重奏」カルボナーラ編へ



 TOP 

Designed by TENKIYA