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金曜日はピアノ


4 二人だけのレッスン



 椅子の高さを調節してくれた先生が私の横へ立つ。
 ようやく周りを見る余裕が出てきた私は、ピアノの蓋や鍵盤が、いつも埃ひとつなく美しく磨かれていることに気が付いた。
 先生、と呼ぶことを、初めのうち彼は拒否した。それでも頑なに先生と呼び続ける私に根負けしたようで、いつの間にか何も言わなくなっていた。

「どこからだっけ?」
 ピアノの上に広げた楽譜へ、確認する為に先生が手を伸ばした。ごつごつとした節などほとんどない、彼の長く美しい指が五線をなぞる様子に見惚れながら、そっと息を吐き出して、私も自分の指で指し示す。
「ここです」
「そう。いいよ、始めて」
 緊張に背筋が伸びる。どうしても最初の音が弱くなってしまうのは、幼い頃からの悪い癖。
「ちょっと待って。ここからもう一度」
 弾き終えてから、もう一度繰り返すように言った先生は楽譜を指差し、三小節目の上にあるイタリア語をなぞった。
「なんて書いてあるか、わかる?」
「ドルチェ」
「そう。きわめて柔らかく優美に、という意味なんだから、ここはこんな風に」
 すぐ傍に来た彼が私の前に手をやり、鍵盤へ指を滑らせた。私が弾いた、同じピアノから出るものとは思えない穏やかな音。どうにか真似しようと指を動かすけれど、すぐに否定されてしまう。
「違う。タターンでたっぷり取ってからタータタだよ。手首もっと柔らかくして、左手のレガート気をつけて」
「はい」
 弾き始めてすぐに、再び彼の呆れた溜息が耳へ届いた。
「まるでわかってないな。ちゃんと聞いてた? 僕が言った事」
「すみません」
 人に教えたことはないと言っていた先生のレッスンは、とても丁寧でわかりやすかった。何より、ここまで熱心に教えてくれるとは思ってもいなかった。
 けれど、とてつもなく優しく諭したり、突然冷たく突き放し不機嫌になったり、かと思えば甘やかすように叱る……その極端に変わる彼の教え方と口調に、私は度々戸惑いを隠せず困惑していた。

「硬いよ。力入れすぎ。貸して」
 彼は唐突に私の右手首を掴んだ。頭では理解していても、その感触に意識が集中して、余計力が入ってしまう。
「緊張してるの? 何も考えない」
「……はい」
 先生は私の手首をぶらぶらとさせた。ピアノの練習用に短く切った爪のマニキュアが、動きに合わせて光っている。
「抜けた?」
「多分」
「まだ全然駄目だな」
 鼻で笑った先生はそこから手をずらして、私の指をそっと握った。
「こっち見て」
「……どうしてですか?」
「いいから」
 下げていた視線をゆっくりと上げる。真っ直ぐ私へ向けられている彼の瞳に囚われ、恥ずかしさから逃げ出してしまった。
「何で逸らすの?」
 不機嫌になった彼の声と共に指を強く握られた。
「わかりません」
「僕のことを意識していなければ、こんなこと何でもないはずだけど」
「……」
「それとも、何かやましいことでもあるの?」
 俯いたまま沈黙する私の頭の上で、先生が笑ったのがわかる。
「五秒でいいから見詰め合えば緊張も解けるよ」
「え?」
「試してごらん」
 言われた通りもう一度顔を上げ、彼の瞳を再び見詰め返す。短くて長すぎる時間に息が詰まった。

 先生は椅子へ腰掛け、握っていた私の指先を鍵盤へと乗せ、オクターブ高いところでメロディを先に弾き初めた。そうして、私を誘う。
 彼の奏でる音に目を眩ませながら必死でついていく。逸る鼓動を彼の呼吸に合わせると、怖いほどシンクロした。音から感電したように痺れるなんて、初めて。
 私が弾く事のできる精一杯の曲は先生に先導されて、拙いものからひとつの音楽へと変わっていく。それは言葉ではなく、触れるのでもなく、お互いの感覚だけを頼りに辿り着けることの出来る場所。
 ほんの数秒、先生の言う通りにしただけで体が和らぎ、彼が伝えたいものまで掴めたことに驚いた。

「ほらできた」
「はい……!」
「もっと教えて欲しい?」
 素直に感動した私の笑顔を遮り、先生は体をこちらへ向けてすぐ傍で囁いた。敏感になっている私の耳がその声を許し、体の奥を反応させた。
「そろそろ、教わりたいんじゃないかと思ってたけど」
「今みたいに?」
「そう。今よりずっと、上手になれる」
 弾く前よりも近くで長い時間視線を絡めた後、シャーリングが入った私のブラウスの肩先へ彼の手が置かれた。夕暮れを過ぎた時間は、昼間よりもずっと肌寒い。今日も、一番上のボタンをひとつだけ空けているコットンシャツには、きちんとアイロンが掛けられていた。その上に着ている細身のアーガイルニットのベストが、私の前髪に触れそうなほど迫っている。
「……上手になれますか?」
「僕に教わるのが嫌じゃなければ」
 誘惑される。さっきは彼の指に。今は彼の瞳に。触れられている肩が熱い。
「嫌じゃない、です」
 やっとの思いで吐き出した返事へ、満足げに微笑んだ先生は顔を逸らして私から離れた。
「来週の金曜日は帰りが遅くなるかもしれないけど、大丈夫?」
「レッスンの時間が、ですか?」
「そう。終わるのは朝になるかもしれないから」
 当たり前のように言い放って腰を上げた先生は、楽譜を手にして次の練習曲を決めている。横顔を見つめると、そこには私がいるように見えた。私は彼の何も知らない。彼も私を知らない。知ろうとも、しない。そのことが、ここを見つけた時と同じに、私を惹きつけ安心させた。

 だから、次のレッスンが特別なものになるのは嫌じゃない。初めからそれを望んでいたのは私の方かもしれないと、胸の内を一人密かに甘く……震わせていた。





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