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金曜日はピアノ 番外編 「ストライプのリボン」聡視点


君の呼ぶ声


 鍵盤を叩く僕の指が、オクターブにはまだ届かない。
 抜けられない穴へと落とされ、這い上がることも終わらせることも眠ることさえも出来ない。果ての果てまで歩き疲れて、寒さに震えてようやく目が覚める。これを何度繰り返せば、捕まれた足を放してもらえるのだろう。
 うまく繋がらない断片が、いつもと同じように始まった。



 窓から入る薄曇りの柔らかな光が、ソファへ座る母の周りに満ちている。
「お母さん、ここまで弾けるようになったよ」
 いつでも一度目は答えてくれることがない。小さく息を吸い込んで再び母へ声を掛けた。
「ピアノ聴いてくれる? 僕ね、」
「……今忙しいのよ」
 ため息を吐いた母が、ゆっくりと振り返り、じっと僕の顔を見詰めた。落としそうになった楽譜を持ち直し、その諦めにも似た視線を黙って受け止める。この頃から父は家へ寄り付かなくなり、しばらくして母も僕を置いて出掛けることが多くなった。



 祖父の手が大きな粒の葡萄を乗せた平たいガラスの器を、僕の前に差し出した。洗ったばかりなのだろうか、水滴が丸い縁に乗り、揺れるたびにつるつると零れていった。
「ほら、聡の好きな緑色の」
「うん」
「いっぱい食べな」
「……ありがとう」
 祖母が僕の顔を心配そうに覗き込んだ。
「遠慮しないでいいんだよ? これからずっと一緒なんだから」



 数年が経ち、大学へ入り、それからしばらく後のことだった。祖母が倒れ、続いて祖父が病に伏せ、二人は入退院を繰り返すようになった。それぞれに新しい家族と過ごす父母は一度見舞いに来たきりで、何の援助もしてはくれない。学費と生活費、年金では賄いきれない分の入院費を稼ぐ為、バイトをもうひとつ増やし、ぎりぎりまで働いた。レッスン時間を減らすことを余儀なくされた僕のピアノは、いつの間にか周囲との距離が出来始めていた。

「聡?」
「洋二……?」
「すごい久しぶりだよな。何、ここで働いてんの? バイト?」
 嬉しそうな顔で訊ねる男へ、言葉には出さず頷いて返事をした。互いにピアノを弾いていた、中学時代の友人。
「ずいぶん前にコンクールで聡のピアノを聴いてそれきりだけど、今も弾いてる?」
 肌に感じた嫌な空気を、愛想笑いで拭い取った。
「まだ弾いてるよ。洋二は活躍してるね。いろんなところで名前を聞く」
 アルバイト先で再会した洋二は、隣に綺麗な恋人を連れていた。
 彼は僕の失った何もかもを持っていたし、来る度に新しいものを手にしていた。そんな彼を見て自分の中の何かが静かに音を立てて崩れ落ちていくのを、まるで他人事のように眺めていた。


 雰囲気の良い、こじんまりとした静かなバーは、彼らのお気に入りになっていた。ここへ訪れる二人は必ずカウンター席へと座り、僕と会話することを楽しんだ。
「もしかしたら留学するかもしれないんだよ」
「でもまだ正式の決定ではないのよね」
 自分のことのように得意げな顔をした年上の彼女へ、作ることに慣れてきたカクテルを差し出す。
「そうなんだ、良かったじゃない」
「いや、この歳じゃ遅いくらいなんだけどさ。なあ、聡もコンクールくらいは出るんだろ?」
「……その内ね」
 悪気の無い笑顔が、どれだけ人を傷つけているのか想像もつかないんだろう。
「ねえ聡、弾いてくれる?」
 ラウンジの隅にあるグランドピアノを洋二の恋人が指差した。土日は決まった時間に専門のピアニストを呼び、平日は僕の手が空いていれば弾く、というのがここに採用された条件だった。
 マスターに承諾をもらい、控えめな照明が当たるグランドピアノの前へ座った。
 バイトに明け暮れ、たいしたレッスンもできず、留学どころか小規模のコンクールにすら参加できない自分が、彼らのためにピアノを弾く。ひたすら、惨めだった。
 今までに感じたことの無い嫉妬で気が狂いそうになっている僕へ微笑みかける友人の恋人。突然、その存在が心の片隅へ醜い色の光を灯した。燻り続けていたものが燃え上がり、闇を照らし始めたと僕を勘違いさせる。鍵盤へ指を滑らせながら、彼女の方へ顔を向けた。
 いつも僕と目が合って、しばらくは視線を外そうとはしない彼女を、裏切らせたらどうなるだろう。彼女が僕に溺れたら、洋二はどんな顔をするだろう。今の自分のように歪んだ笑いを見せるだろうか。少しは惨めな思いをして、膝を着くことがあるだろうか……。


「私、洋二についていくことにしたわ。あなたと一緒にいても虚しいだけだって、わかったの。しばらくは日本へ帰らないと思う」
「そう」
「驚かないのね。……聡らしいけど」
 彼女は唇を噛んで僕を睨み付けた。瞳には涙と、僕を非難している光がその奥で見え隠れした。
 悲しいわけでもない。寂しいわけでもない。ただ、僕を置いて行く人間がまたここに一人増えたんだと、それを確かめただけに過ぎなかった。



「……聡か?」
「うん。どう?」
「ああ、今日はいくらか楽だよ」
 苦しそうなしわがれ声で祖父が呟く。祖母が亡くなってから、ますます痩せ細った祖父の体を見る度、胸がひどく締め付けられた。
 病室の外は梅雨の晴れ間が広がり、カーテンを開けた部屋の中へも清々しさが入り込んでいる。畳んである車椅子を脇へ寄せ、面会人用の丸い椅子を引き摺り祖父の傍へ置いて座った。点滴があと少しでなくなりそうだ。ナースコールを押そうか迷った時、祖父がまた言葉を発した。
「聡、あの家」
「ん?」
「土地を売りなさい。権利はお前へやることになっているんだから」
「何で急に、そんなこと言うんだよ」
「入院費も、馬鹿にならんだろ」
「大丈夫だよ。年金からも使わせてもらってるし、大学も奨学金を受けてる。バイトだってしてるんだから心配しないでよ」
 祖父は黙って天井を見詰めていた。
「家が無くなったら僕たち困るじゃない。その後どうするの」
「……そうだな」
「来週には帰れるんだから、久しぶりに家でゆっくりしようよ」
 決して状態が良くなったわけではない。けれど、少しでも自分で動くことが出来る今の内にと、ようやく自宅療養の許可が下りた。これでしばらくは入院費用の負担を減らすことができる。
「聡」
「なに?」
「ピアノ、やめたら駄目だぞ」
 僕の顔を見た祖父が優しく笑った。その表情が数年たった今でも僕を苦しめ続けている。

 翌朝、入院先から呼ばれ駆け付けると、祖父は病室ではない静かな部屋の硬いベッドの上で冷たくなっていた。
 寒い。ここは寒くてたまらない。誰もいない。僕の手も、どうしてこんなに冷たいんだろう。ああ、そうだ。僕も二人と同じにならなければいけない。祖母を救うことも出来ず、祖父に負い目を感じさせた、この僕も。それに、こんなに指が冷えていては、もう、ピアノが……弾けない。



「先生?」
 遠くから僕を呼ぶ声がする。
「どうしたの?」
 これで最後にしようと決めて弾き続けた、月の光。僕の音を見つけてくれた、君の声。冷たかった僕の手に彼女の温もりを感じた。
「具合悪いの?」
 瞼を開けると、腕の中で心配そうに見上げる瞳。こんな視線を受けるのは何年振りだろう。
「……いや」
「今、すごくうなされてた」
 仰向けになり自分の前髪を指で触った。まだ、生きている。
「夢、見てた」
 腕の中にいる何も知らない彼女も、いつかは僕を置いてどこかへ行ってしまうんだろう。ふらりと庭へ立ち寄ってはいなくなる、あの猫たちのように。
「夢?」
「……なんでもないよ」
 夢の続きは、あの惨めな思いを僕の中に残していた。鳥の鳴き声が朝を告げる。部屋の中は明るさを増し、過去に怯える醜い顔を照らし始めた。夜が来ても、朝が巡っても、消えることの無い悲しさは、ふとした拍子に僕を再び引き摺り込もうとする。

 気付けば力任せに求めていた。微かな悲鳴を唇で塞ぎ、飲み込み、ろくに言葉も交わさず、僕を見詰めて身を任せる彼女を、思うままに動かし続けた。
 溜息に濡れた唇を震わせる苑子に僕を刻み付けるために。涙ではない雫を染み込ませて、どこか僕に似ている君が、ここから離れて行かないように。










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