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金曜日はピアノ


1 つきのひかり



 四月の雨が冷たくて優しいことを、私は知っている。

 このまま家へ帰るのは気が進まなかった。
 電車のドア際に立っていた私は、窓を濡らす細かい雨を見詰めながら次で降りようと心に決めた。そこには友人も知り合いもいない。賑わいのある繁華街の看板も見当たらない。毎日通過するだけの駅は、彷徨い歩く私にとって、刺激の少ない気楽な場所に思えた。

 改札を出、春雨の中、折りたたみ傘を広げて歩き出す。午前中は汗ばむくらいの陽気だったのに、今は肌寒い湿った空気が私を先導した。
 年季の入ったお豆腐屋さんにお蕎麦屋さん。美味しそうな匂いが届くお惣菜のお店、この雰囲気に似つかわしくない最近よく見かけるコーヒーショップ。いかにも入りづらそうな文房具屋さんに手芸洋品店。十分も歩かないうちに終わってしまう短い商店街を抜け出ると、そこから先は閑静な住宅街だった。

 広めの道路から、少しずつ幅の狭い道へと水溜りを避けながら入っていく。次は右を曲がる。次は左。知らない家の庭からは、花の散った葉桜が鮮やかな若い色を惜しげもなくアスファルトの路地へさらけ出していた。

 次を左の角へ差し掛かったとき、雨音と共に何かが微かに流れてきた。一瞬止まった歩みは、そこを求めて自然と早足になる。跳ね上がる水音すら邪魔に感じた。
 息を切らして低い垣根を辿るとすぐに、小さめの黒い門が現れた。表札には「深山」と書かれている。向こう側には間口の狭い古そうな二階建ての日本家屋。
 水に滑る鉄の門へ手を掛けると、鍵の掛かっていないそれは、何の抵抗も無く簡単に開いた。その無防備さが、初めから招かれていたような錯覚を起こさせて、私は躊躇うことなく門の中へ足を踏み入れた。玄関へと続く、雨に黒く濡れた飛び石を進む。五つ目で足を止めた。

 この家から漏れ聴こえてくるピアノ曲は、幼い頃母が好んで弾いていたもの。何度も何度も繰り返し聴かせてくれた柔らかく静かな旋律。そばに寄る私へ微笑みかけ、母は指を滑らかに動かし続ける。その細かい動作ひとつひとつが、未だに心の中へしっかりと刻み込まれていた。

 懐かしさにずいぶん長い間ぼんやりとしていたせいで、とっくに演奏の終わったピアノにも、いつの間にか近付く気配にも全く気付かなかった。ふいにガラリと玄関の戸が開き、中から一人の男の人が現れた。
「あ」
 思わず出した私の声に、こちらを訝しげに見詰めたその人は、何かを言おうとしてそれを止めた。玄関脇にあるブリキの新聞受けに手をやり、手馴れた動作で夕刊を引き抜くと、再び私を振り向いた。
「何か?」
「あの、すみません私」
「保険も宗教も、電話の契約も全部間に合ってますけど」
 そっけない口調に、このままここを逃げ出したい気分になった。恥ずかしい。きっと変に思われてる。
 傘の柄を強く握って言い訳を考えていると、彼は口の端を上げてほんの少しだけ笑った。
「そういう類のものじゃなさそうだけど、いつからいたの」
 声が、耳に残る。真っ直ぐな視線が私を捉えた。
「そこを歩いていたらピアノの音が聴こえて入ってしまったんです。ごめんなさい」
 ここで立ち去ればいいのに、動こうとはしない両足が、その意味を探ろうとして迷っている。
「好きなの? ピアノ」
 初めてのことに困惑していた。
「さっきの曲が、とても好きなんです」

 男の人は無言で私の足下へ視線を移した。
 身体に沿ったリネンのシャツワンピースは短めで、膝が丸見えになっている。袖のない肌寒さから羽織っていたのはネイビーのニットカーディガン。ヒールの高いコーラルピンクのサンダルを細かい雨粒がいくつも伝い流れた。幅広のリボンが付いたお気に入りなのに、今は何故か心細い。剥き出しの両足を微かに震わせたのも、息苦しいのも、冷たさのせいだと思い込んでいた。
「どうぞ。寒いでしょ」
「え……」
「良ければもう一度弾くけど」
 私の返事などお構いなしに、その人はくるりと背を向けて、戸を開け放したまま玄関へ入っていった。

 他に誰がいるのか、わからない。
 もしかしたらこの男の人と、知らない家の中で二人きりなのかもしれない。普段ならこんなこと、絶対に有り得ないのだけれど。
 それでもこの人が弾いた月の光を今度は間近で聴いてみたい。私の足を止めた彼の奏でるピアノを。その声も……もう一度。

 傘を畳んだ私は彼のあとをついて玄関へ上がり、深く息を吸い込みながら、後ろ手で引き戸を静かに閉めた。





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