駅向こうの商店街と石畳の通り、そして椅子カフェ堂の前の通りに「じゃぱん・和フェア」と書かれた薄緑色の可愛らしい幟がところどころに立てられていた。
 椅子カフェ堂の立て看板にも「じゃぱん・和フェア加盟店。スタンプ三つで500円分の商品券を差し上げます」のお知らせを載せ、和スイーツと永志さんが作る和食メニューも一緒に貼りつけた。
 いよいよ今日から和フェアが始まる。初めての和スイーツがお客さんに受け入れてもらえますように。

「お待たせしました。抹茶ゼリーパフェと栗のチーズケーキです」
 午後三時過ぎ。以前試食会に来てくれた私の元同僚の尚子と佳織が、和フェアの情報を知って、久しぶりに椅子カフェ堂へ訪れてくれた。
「くるみ雰囲気変わったね。痩せた?」
「そ、そう? そんなことないんだけど」
「綺麗になったよね。何かあったんじゃない?」
 佳織と尚子が意味ありげに笑った。
「もしかして彼氏できた?」
「え……う、うん」
 違うって言うのも変だと思って、つい返事をしてしまった。
「ほんとに!?」
「しーっ! 他のお客さんもいるんだから駄目」
 口の前に人差し指を立て、二人を睨んで注意した。
「ごめん。で、誰なの? てか、どっち?」
「やっぱり、あの二人のどっちかってことなの?」
 私を見上げる二人の視線が痛い。話が長引いても面倒だから、言っちゃえ。
「うん。て、店長なんだけど、ね」
 私の返事と同時に、二人がそれぞれ自分の口を両手で塞いだ。うん、叫びたいのはよくわかる。でも……本当のことなんだもん。
「くるみすごいじゃん、おめでと。今度お祝いしよ?」
「ありがと」
「いろいろ聞かせなさいよね〜、絶対だよ?」
 急にこそこそと話しかけてきた彼女たちに、うんうんと頷いて、急いでそこを離れた。あーおでこに変な汗掻いてるよ。

 彼女たちが帰ってからしばらくして、一人の男性がお店のドアを開けた。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ。あ、古田さん!」
 スーツ姿にビジネスバッグを持って、相変わらずサラリーマンそのものの格好をしている。今日も忙しいのかな。
「約束通り食べに来ました」
「ありがとうございます! どうぞこちらへ」
 壁際の比較的ゆったりとした席へ案内する。スーツのジャケットを脱いだ彼の元へ、お水とメニューを運んだ。
「今ちょうどお客さんが途切れたところなんですよ。ついさっきまで混雑してたんです」
「だろうね。椅子カフェ堂さんから、みもと屋に来てくれた人が結構いるよ」
「ほんとですか?」
「ほんとほんと。和菓子が一気に売れて助かりました」
「良かった!」
 みもと屋さんの餡子は丁寧な作りの上品な甘さだから、そのお陰で私が作った和スイーツの評判は上々だった。そのお客さんがまたみもと屋さんへ行くなんて素敵な事だよね? やっぱりコラボに参加して良かった。
 古田さんは何度もメニューを捲りながら、私に言った。
「どれにしようかな〜。くるみちゃんにスイーツの画像送ってもらってから、ずっと迷ってたんだよね。……ふたつ頼んでもいい?」
「もちろんです」
「よし、じゃあ、あずきフローズンと栗のチーズケーキね。これって、あったかいお茶つくの?」
「はい。ほうじ茶をお持ちします」
「やった。じゃあそれお願いね」
 嬉しそうに頷いた古田さんと目を合わせて私も笑みを浮かべる。急に表情を変えた古田さんが思い出したように言った。
「そうそう、有澤店長って人気あるんだね。うちの店で噂してるお客さんを何人か見かけたよ」
「……ありがとうございます」
 喜ばしいことなのに、また不安な気持ちが私の心を曇らせた。
「もしかして、心配なんだ?」
「!」
 表情に出ちゃうなんて、店員失格だよね。笑顔を作って、古田さんの質問に返事をした。
「そうなんです。私ばっかり心配して焼きもち妬いてるんです」
「……くるみちゃん」
「ごゆっくりどうぞ。あの、スイーツについて何かあったらおっしゃってくださいね。すぐ改善しますので」
「うん、わかりました」
 気持ち切り替えて古田さんのスイーツを用意しよう。コラボして良かったと納得してもらえるように。



 十日間が瞬く間に過ぎ、無事に和フェアの期間が終了した。和スイーツは連日売り切れが続いて嬉しい悲鳴状態だったし、何よりスタンプを楽しんで活用してくれた人が多くて、商店街の活性化につながったことがとても嬉しい。もしまたこういう企画があったら参加したいな。
「お疲れ様でーす」
 最終日の閉店直後、椅子カフェ堂のドアから古田さんが現れた。
「古田さん、お疲れ様でした」
「いや、僕は何もしてないよ。くるみちゃんは本当にお疲れ様でした。椅子カフェ堂さんのお蔭で、どら焼きいっぱい売れちゃってさ。これ」
 古田さんが差し出した大きな紙袋を受け取る。意外に重たくて落としそうになってしまった。
「何ですか?」
「うちの店の商品。良かったら食べて」
「こんなにたくさん!?」
「こんなんじゃお礼にもならないから申し訳ないんだけどね。それで、ちょっと有澤さんに話があるんだけど、今大丈夫かな?」
「あ、はい。呼んできますね」
 いただいたお菓子を傍のテーブルに載せ、厨房にいる永志さんに声を掛けに行く。同時に事務所から職人さんもやって来た。
「有澤さん、この度は大変お世話になりました」
「いえ、こちらこそありがとうございました。みもと屋さんの餡子、とても評判良かったですよ」
 古田さんの挨拶に永志さんも頭を下げる。
「ありがとうございます。それで、出来ればうちの店で今回のメニューから通販商品を出してみたいんですが」
「……は?」
「商品製造と流通はこちらに任せていただいて、味の確認と通販の際のご意見をいただければと思います。もちろん椅子カフェ堂さんのお名前とお店の宣伝もします。いかがですか?」
「ちょ、ちょっと待ってください。急な話なので……」
 戸惑う永志さんとは反対に、古田さんは落ち着いた声で話を進めた。
「いい話だと思いますよ。売り上げの5%はそちらにお支払いします。最初は期間限定で始めて、人気が出たら継続ということで」
「しばらく考えさせてください。彼女の負担にはさせたくないですし」
「そうですね。くるみちゃん、考えておいてね?」
 店長と話をしていた古田さんが私の方を向いた。
「は、はい」
「いい返事を期待してます。今回はお世話になりました。ありがとう」
 古田さんが私に右手を差し出した。
「こちらこそ、貴重な体験をさせていただいてありがとうございました」
 彼の手に私の右手を合わせる。ひんやりとした感触に驚いて顔を上げると、彼は初めて会った時と同じように、私を見てにっと笑った。
「……あの?」
 言葉を発すると同時に右手を強く握られ引っ張られ、古田さんの胸に抱き寄せられた。ちょ、えええ!?
「助かったよ。本当に」
 彼はぽんぽんと私の頭を優しく撫で、すぐに離れて椅子カフェ堂の出口に向かった。
「ってことで、皆さん今後共、みもと屋をどうぞよろしく! 有澤さん、あんまり彼女を悩ませないようにね〜」
 くるりと振り向き笑顔で手を振った古田さんは、椅子カフェ堂のドアを開けて出て行った。

 途端に静まり返ったホールで呆然と立ち竦んでいると、隣にいた職人さんが言った。
「俺、知ーらね。先帰ろっと」
「し、知らないって、どういう意味ですか?」
「どうもこうも、永志の顔色見てたら恐ろしくて関わりたくなくなった。触らぬ神に祟りなしって奴な」
 慌てて振り向くと、永志さんは既に私たちに背中を向けて、厨房の方へ歩いていた。
「お前、あの息子と何かあんの?」
 一緒に振り向いた職人さんが私に問いかける。
「あるわけないです」
「じゃあ今のは何なんだよ」
「そ、そんなのわかりません。最後の挨拶だから、とか?」
「普通はそんなことしねーよなー。お前のこと好きなんじゃね? 歳も近そうだし」
「古田さん、三十一だそうです」
「マジかよ!? 俺らより上!?」
 職人さんの大きな声に永志さんが立ち止まってこちらを見た。私と目が合った途端、彼はふいと顔を背けて厨房へ入ってしまった。
「あーあ。完璧怒らせちゃった」
「怒ってるのかな……」
「そりゃ怒るだろ。自分の女が目の前であんなことされりゃ、普通は」
「そんなことで永志さんが怒るなんて思えないです。いつも余裕あるし……。私が焼きもち妬くなら、それは当たり前のことだけど、永志さんが私のせいでそんなふうになるなんて、有り得ないです」
「俺もそういう永志は見たことないけど、お前が言う有り得ないは信ぴょう性ないからな〜。今のは相当キテる顔だったし」
 確かに、あんまり見たことない表情だった気はするけど、でもそれが焼きもちとは限らないよ。仕込みを急いでただけかもしれないし。
「つーことで俺帰るわ。頑張れよ、くるみ。永志に何言われても明日ちゃんと出勤するんだぞ? わかったな?」
「ひ、他人事だと思って怖いこと言わないで下さい……!」
「いやいや、永志は本気で怒ると怖いからなー、マジで」
 前から職人さんはそう言って怯えてたもんね。でもまさか、そんなことないないって、頭を横に振ってから、私も厨房へ向かった。

 いつも通りに明日の準備を進ませる。チーズケーキを焼いて、マシュマロフォンダントを作り、かぼちゃを用意して……
「くるみちゃん」
「は、はいいっ!」
 こちらの厨房に来た永志さんの声を聴いて全身に緊張が走った。すごい不自然な返事だったけど、職人さんにあれだけ脅されたから普通にしてるのは無理だよ。
「仕込み終わった?」
「チーズケーキが冷めたら冷蔵庫に入れるだけです。あとは終わりました」
「そうか、お疲れ。今だけちょっと、こっち来てくれる?」
「はい」
 彼の優しい声にホッとした。ほらね職人さん。永志さんはあんなことくらいでいちいち焼きもち妬いたり怒ったりしないの。それも少しだけ、寂しいけど。
「こっちだよ」
 カウンター席に座って、私の方を向いている彼に近付く。ホール内の明かりは厨房前だけ点いていて、永志さんのいる場所は薄暗かった。
 永志さんの前に立った私の両手を取り、彼はいつものように微笑んだ。
「拒むのはナシね?」
「え? はい」
 よく意味が分からなかったけれど頷いた。私の顔を見つめた彼が言葉を続ける。
「今夜、このまま泊まって」
 今夜? いつもだったら定休日の前の日にお泊まりなのに、急にどうしたんだろう。
「あの、明日は営業日ですよね?」
「そうだよ」
「私が泊まっちゃって大丈夫ですか? 永志さん、朝早いんじゃ、ん!」
 いきなり両頬を両手で押さえられ唇を塞がれた。驚いて開いた口から彼の舌が入り込んでくる。私の舌先を捉えた彼の唇が、それをきつく吸い上げた。い、痛いというか、息が出来ない……! 苦しさに顔を歪めて呻き声をあげると、途端に優しく舐め取られて、痛さが甘い快感に変わった。しばらくして、解放された唇から息を吐き出した私を、彼が自分の胸に引き寄せた。
「泊まります以外の言葉は聞きたくない、って言ってるんだけど」
「と、泊まります……」
 すみません、ごめんなさいと言わされてしまいそうな彼の低い声に、思わず身を縮めて顔を伏せた。泊まることに抵抗はないけれど、何だかいつもの永志さんじゃないみたい。
「事務所で着替えて待ってて。良晴は帰ったよね?」
「すぐ帰るって言ってたから、多分」
「チーズケーキは冷蔵庫に入れておくよ。俺もあと少しで終わるからさ」
 俯いていた私の顔を指で持ち上げ、こちらを見下ろしにっこり笑ったその表情が、古田さんと初めて会話した時の永志さんと被った。ど、どうしよう。やっぱり怒ってたんだ……!
「訊きたいことがたくさんあるんだ。いいよね?」
 妙に優しい彼の声が私を包んで動けなくした。

 職人さん、ごめんなさい。あなたの言った通りでした。
 私このあと、どんな目に遭うのーー……?