「それじゃあ職人さん、よろしくお願いします」

 言いながら、くるみはベビー布団の上に赤ん坊を座らせた。
「おう、任せとけ」
「何かあったらすぐに教えてくださいね。私もちょこちょこ様子を見に来ますので」
「わかった。すぐ呼びに行くから安心しろ」
「……」
 うなずく俺を、怪訝な顔でくるみが見上げる。
「なんだよ? 急に黙って」
「素直な職人さんって、ちょっとキモ――」
「あ?」
「いえ、なんでもないです……っ!」
 慌てて立ち上がったくるみが、ぺこりとお辞儀をした。
「いつもすみません」
「俺が好きでやってんだから、いちいち謝らなくていいって言ってんだろ。もうすぐクリスマスで椅子カフェ堂の忙しさに拍車がかかる頃だ。とにかく仕事に集中しろ」
「ありがとうございます。私も永志さんも、職人さんには本当に感謝してますので……!」
 くるみは顔を上げて力強く言った。
「わかった、わかった。いいから行け」
 初めて会った時から暑苦しい女だが、子どもを産んでからもそれは変わらない。
 この暑苦しさに、椅子カフェ堂も永志も助けられてきた。何を隠そう、俺もだ。
 くるみの明るさと根性に脱帽し、負けていられないと奮起させられる。こいつは一生、俺のある意味で相棒なのだ。
「じゃあ、おりこうさんでね、泰志(たいじ)くん。ママ行ってくるね」
 にっこり笑ったくるみは、赤ん坊に手を振って、部屋から出て行った。

 ここは椅子カフェ堂の奥にある、事務所を改装した部屋だ。
 妊娠中のくるみが休憩できる場所として作ったのだが、産後は昼間の育児室となっている。
 断熱リフォームをしたため、冬は暖かく、夏は涼しい。大きな窓のおかげで、とても明るく過ごしやすかった。
 とはいえ、今は十二月中旬だ。赤ん坊がいる部屋が快適であるかのチェックは欠かさない。
「部屋の温度は完璧だな。加湿器もオーケー」
 小さな子どもやペットがいる家でも安心の加湿器だ。空気清浄機もきちんと稼働している。
 一応ベビーベッドもあるのだが、そこはぐっすり眠る時だけで、起きている間はベビー布団の上に座らせたり、寝転がせていた。そばにおもちゃもある。
 なんていうんだ、こういうの。小さいぬいぐるみがぶら下がってて、手を伸ばせば触れて、お座り中も遊べるやつ。気になるから後で調べよう。

 くるみと永志は保活という、子どもを保育園に預けるまでの活動をしていた。
 噂には聞いていたが、これがなかなか大変なようで、保育園に空きが出たら入れるという待ちの状態だ。
 ということで、泰志を保育園に入れるまでは、くるみと永志が交代で世話をし、週に一度、俺が預かっている。基本的にくるみはランチの時間が終わるまでの勤務だ。
 この体制は、ガッキーが永志とくるみの代わりを担うまでになったことで、実現できたと言ってもいい。
 あんなにも生意気だったガッキーが、よくあそこまで成長したもんだ。

「よう、今日も元気だな」
「あっ、あ!」
 赤ん坊に声を掛けると、泰志は嬉しそうに俺を見て返事をした。両手をこちらに伸ばしてくるので、しゃがんで彼を抱き上げてやる。
「あ〜!!」
 ご機嫌な顔で、ぺちぺちと俺の顔を叩いた。
「お前、全然人見知りしないよな〜。そうかそうか、そんなに嬉しいか」
 きゃっきゃと笑う泰志に頬ずりをした。
 どこもかしこも柔らかい。いい匂いがする。肌も髪も、瞳ですら、しっとりといい具合に湿っている。
 他人の子どもだというのに、どうにも愛しくてたまらなかった。俺は男だが「母性」がなんなのかを、こいつのおかげで少しわかった気がする。
「もうすぐ七ヶ月か……。お前が生まれたのなんて、昨日のような気がするけど、早いよなぁ」
 お気に入りのおもちゃを手に持たせ、布団の上に下ろした。
「うあー、あう」
「あんまり噛みつくと、ボロボロになるぞ。ていうか、そろそろ歯が生えるのか?」
 泰志の身長と体重は標準サイズだが、ほっぺも手も足も、むちむちで、肉付きがいい。普段からミルクをよく飲み、最近では離乳食も順調に食べ進んでいるからだろう。

 彼は永志と、永志の祖父の名から「志」をもらい、泰志と名付けられた。女の子だったら、くるみにちなんで桃とか栗とか柿とかナッツとか、まぁそこらへんを付けたんだろうな。
「くるみの妹はあんずだったし。……くるみとあんずって、ぶははっ」
 思い出し笑いをしている俺を、泰志がじっと見た。おもちゃは放り投げてしまい、部屋のすみに転がっている。
「おい、泰志」
 俺はおもちゃを拾い、ウェットティッシュでささっと拭きながら尋ねた。
「たーくんがいいか、たいじくんがいいか、たーちゃんがいいか、どれだ? そろそろ俺に呼ばれたい名前を決めてくれ」
「ん……あ!」
「いい返事だな。それじゃあ『たーくん』でいこう。俺のことは『よしくん』な。俺の名前は良晴だが、お前を椅子カフェ堂の仲間と認めて、『よしくん』と呼ぶことを特別に許可する」
 きょとんとしていた泰志の前に座ると、彼は神妙な顔をして答えた。
「んっ、あ」
「よしよし、いい子だ。大きくなったら、俺が漢の真髄ってもんを教えてやる。俺を師匠として仰げ。わかったな?」
「まっ!」
「かわいいぞ。うん、かわいい」
 永志とくるみの子どもが男の子だったことに、俺は安心した。
 女の子だったらと思うと、想像するだけで戸惑いが起きる。どう扱っていいかわからないし、もし嫌われたら、俺の生きる意味すら無くなりそうで怖かったのだ。
 だがしかし。男の子も可愛すぎて、可愛すぎて……、こいつに嫌われても俺はヤバいかもしれない。

 しばらく相手をしていると、泰志はコトンと眠ってしまった。布団の上に仰向けにさせ、毛布をかけてやる。
 もう一度室温と湿度を確かめてから、俺は泰志の横に座った。
 天使のような寝顔を見つめていると、自分の子どもだったらという考えが頭をよぎる。
「俺と美知恵の子ども、か」
 あいつとの子どもなら可愛いだろうなとか、俺に顔が似てたらどういう感情が生まれるんだろうかとか――。
「いやいやいや、何ひとりで盛り上がってんだよ。美知恵はまだまだやることがある。そもそもだな、子どもの前に結婚だろうが」
 ぶつぶつ言っていたその時、ドアを小さく叩く音が響いた。
「なんだよ、忘れもんか?」
 くるみかと思い、顔を上げたと同時にドアがひらいた。
「こんにちは」
 現れた笑顔に、胸がどきーんと痛む。
「え、美知恵?!」
「お邪魔します」
 思わぬサプライズが嬉しすぎて、心臓がうるさいくらいに音を立てている。この俺様が、なんというていたらくだ。
「良晴さん、ただいまです」
「おう……。お前はいつも急に帰ってくるんだな」
「驚かせたくって」
 えへ、と美知恵が笑う。
 笑顔が眩しい。肩まで伸びた髪が彼女を大人っぽく見せている。いや、そうなんだが、そうじゃない。海外で揉まれ、努力しているから、こんなにも輝いて見えるのだろう。
「…っう、うう、えあぁっ」
「お、起きたか?」
 べそをかき、両手をこちらへ伸ばす泰志を抱き上げた。泰志は泣き止み、俺の胸に顔を擦りつけている。
「良晴さんに懐いてるんですね、可愛い」
「まーな。羨ましいだろ」
「はい、羨ましいです」
 うふふと笑う美知恵が、泰志の顔を覗き込んだ。泰志は美知恵と目を合わせ、じっと見つめている。
「……私、良晴さんにお話があって帰ってきたんです」
「話?」
「ええ。実は――」
「んっ、ひっく、うあ、あーん!!」
 突然、泰志が大声で泣き出した。
「よしよし、どうした? おむつかな? 美知恵、ちょっと抱いてて」
「あ、はいっ」
 除菌シートで手を拭いた彼女に泰志を渡し、立ったついでにミルクを作る。そしてすぐにおむつ替えをしたのだが、泰志にしては珍しくイヤがった。
「腹も減ったのかな。ほら、たーくん、ミルクだぞ〜」
 抱っこをしてミルクをやろうとすると、泰志が暴れ出す。
「んっ、あああーーーっ!!」
「うおおっ、なんだなんだ、どうした?」
 小さな手で、哺乳瓶をはたかれてしまった。転がった哺乳瓶を美知恵が拾い、俺に渡す。
 泣きわめく小さな口に、哺乳瓶の乳首を差し出したのだが。
「ほれ、飲みたいんじゃなかったのか?」
「あああ〜〜っ!! まっ、ああ〜〜!!」
 泰志は思いっきり首を横に振り、背中をのけぞらせた。
「わ、私が来たから驚いちゃったのかも。ごめんね、泰志くん」
「いや、それはない。泰志は全然人見知りしないんだ。特に女が相手だと、ご機嫌なんだが……」
「うっ、うっ、おうああーーーーっ、ひっ、あーーーーーっ!!!」
「お、おう、すげぇ声だな。 ミルクがイヤなのか? 離乳食の時間には早いし、おむつは替えたばっかりだし……。いや、また出たのか?」
 くんくんと、おむつを嗅ぐが、なんの匂いもしない。
「くるみさん、呼びましょうか?」
「ああ、そうだな。緊急事態かもしれない。頼む」
「わかりました、行ってきます……!」
 美知恵はうなずき、部屋を飛び出した。

「うぁああああ〜っ、んぎゃあああああ〜〜っ!!」
「おいおい、どうしたんだよ」
 横抱きをしても縦抱きをしても、泣き叫ぶ声に変化はない。
「わかったわかった。今、ママが来るからな? ほら泣くな」
「……うっ、ううんっ、うっう……うああああっ!! まっ、あーーーっ!!」
「うおおっ、こんなに小さいのに、どこから力が出るんだ。って、あれ……?」
 暴れる泰志を抱え直した時、彼の顔色に違和感を覚えた。
「なんか顔が赤いな? もしかして熱がある?」
「うあーっ、うええええっっ、うぐっ、ううんっ」
「大丈夫、大丈夫。落ち着け。よしくんも一緒だ。何も怖いことないからな」
 泰志の背中を優しくさすり、耳元で声をかける。大丈夫だ、泰志。俺がいる。
「ママとパパが忙しかったら、よしくんが病院に連れて行く。向こうでもずっと一緒にいてやる。だから安心しろ? な?」
「うっうっ……ぐすん、ぐすん」
 涙がぽろぽろと、頬を流れ落ちていく。
「マジで漫画みたいに『グスン』って言うんだな。涙が綺麗だ……」
 こういうのを穢れがない、と言うのだろう。
「あああ〜んっ、あーん、うえっえっえ」
 泰志は泣きながら俺の胸に顔をぐいぐいと擦りつけた。とてつもなく愛しい気持ちが胸にあふれてくる。
 その時、バタンとドアが開いた。
「どうしたの!? 大丈夫!?」
 くるみが入ってきたとたん、俺の腕の中にいた泰志が、勢いよく顔を上げた。
「あっあっ! まっ! あーっ!」
「職人さんすみません! おいで泰志くん」
 くるみに渡すと、泰志がおとなしくなる。
「すげえな、母親ってのは……。もう泣き止んだぞ?」
「すみません。どうしたんだろう」
「もしかすると、熱があるかもしれない」
「えっ!!」
 顔色を変えたくるみが、泰志の額に手を当てる。俺は壁際に置かれた引き出しから体温計を取り出して、くるみに渡した。くるみと一緒に戻ってきた美知恵も、心配そうに様子を見守っている。
「あ、どうしよう、病院行かないと……」
 熱は三十八度八分。やはり発熱していた。
「店が忙しいなら、俺が連れて行こうか?」
「ううん、大丈夫です。私が泰志についていてあげたいから」
 さすがのくるみも明らかに動揺している。それはそうだ。初めての子どもが初めて熱を出したんだから。
 ドアがまたひらき、永志が飛び込んできた。
「どうしたんだ? 泰志に何かあった?」
「永志さん……、どうしよう、泰志くんお熱が出ちゃって……。私、今から病院に連れて行かないと」
 くるみは泰志を抱いたまま、部屋をうろうろしている。
「俺が車を出すから、一緒に病院行こう。今、バイトさんがちょうど来てるし、厨房はガッキーに任せればいい」
「私、こんなときにお仕事しちゃってて……、朝全然気づいてなくて、泰志くんに申し訳なくて……」
「大丈夫だよ。俺もついていくから。支度して待ってて」
 永志はくるみと泰志をそっと抱きしめたあと、俺と視線を合わせた。いいから早く行ってこい、と目配せすると、永志はうなずいて部屋を出て行った。
「泰志くん、ごめんね。一緒に病院行こうね」
「落ち着けよ、くるみ。お前が悪いわけじゃない。俺も永志も気づかなかったんだ。とりあえず病院に行って、泰志を看てもらうほうが先だ」
「職人さん」
「いいからお前も支度してこい。泰志は俺が見てるから」
 泣きそうな顔をしていたくるみは、ぐっと口を引き結び、泰志を俺に渡した。
「すみません、ありがとうございます。私がしっかりしなきゃいけないのに……! 小川さんもごめんね。せっかく職人さんに会えたのに、バタバタしちゃって」
「いえっ! 全然大丈夫ですので!」
 ありがとうと美知恵に言い、くるみは二階の自宅に支度をしに行った。
 
 くるみたちがいなくなると、一階の部屋は俺と美知恵だけとなった。
 ガッキーを手伝おうと思ったが、ガッキーはバイトと三人で回せるから手伝わなくていいという。俺と美知恵に気を遣ってるんだろうが、そこは甘えさせてもらうことにした。
 俺は一度、作業をする倉庫に行き、バッグの中からある物を取り出して、ポケットに突っ込んだ。
 部屋に戻り、ガッキーが淹れたカフェオレを飲んでいる美知恵の前に座る。
「……泰志くん、大丈夫でしょうか」
「永志もくるみも動揺して忘れているようだが、たぶんあれは知恵熱だな」
「知恵熱?」
「赤ん坊が一番最初に出す熱だよ。母親からもらった免疫がなくなる頃、ウィルスに感染して熱が出る。医者が診ないとわからないが、泰志の月齢からいってそんなところだろう」
 ぐったりするほどでもなかったから、たぶん大丈夫だ。と、自分に言い聞かせる。
「良晴さん、泰志くんのためにいろいろ調べてお勉強してるんですね」
「まーな。人様の命を預かるわけだから、当然だ。何かあればすぐに永志から連絡が来る。助かったよ、ありがとな」
「お役に立てたなら、良かったです」
 ホッとした美知恵に、俺は気になっていたことを尋ねた。
「ていうか、話ってなんだ? 帰国の理由がそれなんだろ?」
「そうですね……。良晴さんと直接お話をしたかったので」
 美知恵は立ち上がり、窓のほうへ歩いて行く。
 そして彼女は、思いもよらない言葉を口にした。

「私、向こうで、プロポーズされたんです」




後編に続きます