梅雨が始まる直前の、蒸し暑い朝。
 心の準備はしてきたつもりだったのに、いざこうなってみると、落ち着いてなんかいられない。

 明け方、くるみが「いよいよかも」と俺を起こした。
 昨夜からなんとなく痛かったお腹が、定期的に痛むようになったと言う。
 俺は彼女の腰をさすりながら痛みの間隔を計った。最初は三十分おきだったのが、二十分、十分と狭まり……、かかりつけの産科医に向かうことになったのだ。
 いよいよ俺たちの子どもが、生まれる。

 椅子カフェ堂の前に停まった車の後部座席に、くるみが乗り込んだ。俺は彼女の横に入院セットなどが入ったバッグを置く。
「お義父さん。くるみのこと、お願いします」
 運転席に座るくるみの父に声を掛けた。彼はまだ出勤前だからと言って、くるみを病院まで送るために迎えに来てくれた。
「大丈夫だよ。永志くんも、あとから来るんだろ?」
「はい! 仕事が一段落ついたら、すぐに!」
 俺が勢いよくうなずくと、義父も俺の目を見てうなずいてくれた。
 本当は……、あとからと言わず、俺がくるみと一緒に行きたいのだが……
「永志さん、予約のお客さんにたくさん美味しいもの出してあげてね。私のことは心配しなくていいから。病院にお母さんも来てくれるから大丈夫だよ」
 彼女は妊娠後期から、ずっとこの調子だ。
「……ああ」
 くるみは俺にいつもの笑顔を向けながら車のドアを閉め、すぐに窓を開けた。
 マタニティブルーで泣いていた彼女はすっかりどこかへ消え、既に母親の顔になっている。俺のほうはと言えば、彼女が強くなっていくのとは逆にオロオロすることが増えてしまった。

 よっぽどのことがない限り、出産当日も椅子カフェ堂を開けること。
 出産予定日前後だからといって、予約のお客さんを断ったりしないこと。
 出産当日、病院に俺が行くのは店を閉めたあとにすること。
 
 くるみが俺に提案したこれらは、俺にとって納得のいかないものばかりだった。
 俺たちの初めての子どもが生まれるというのに、それはあんまりじゃないかと、くるみに訴えたこともある。けれど彼女は全く折れることなく、とうとう今日を迎えてしまったのだ。

「永志さん?」
「いや、うん。お客さんに満足してもらえるように頑張るよ。でも、絶対に行くから。生まれそうになったらすぐに連絡してくれよ?」
 俺は動揺を隠しつつ、彼女に笑顔で応えた。俺の不安が伝わってしまったら、くるみの体に影響があるかもしれない。それは絶対に困るから我慢しないと。
「永志さんが病院に来るのは、お客さんが帰ったあとね?」
「……ああ」
 さすがにそれは約束できるかわからなくて、俺は曖昧にうなずいた。
「じゃあ、産んできまーす!」
 彼女は元気に宣言しながら、こちらに手を振った。
「いってらっしゃい」
「頑張れよー」
 俺の後ろにいた良晴とガッキーが、くるみに声援を送る。
 俺は車が角を曲がるまで見送り、椅子カフェ堂のホールへ戻った。……俺ひとり、足取りは重い。
 心配で仕方がない。なのにそばにいられないのが、つらくてたまらない。
「それにしても『じゃあ、産んできます』って、すごいセリフですね。僕、ちょっと感動しました」
「くるみらしいっちゃ、くるみらしいな」
 ふたりの会話を聞きながら思う。
 くるみはもしかしたら、俺以上に椅子カフェ堂を大切に思ってくれているのかもしれない。だったら彼女の願いを尊重して、叶えてやらなくてはいけない。……いけないんだけど。

 今日のランチは予約客の貸し切りだ。予約は多くとも、滅多に貸しきりにはならないのに、こんな日に限って――
「永志、追加の飲み物、持ってくぞ?」
「……おう」
 厨房に入ってきた良晴に尋ねられ、俺は気のない返事をする。
「なんだよ、どうした?」
「ていうか、仕事なんか手につかねーよ、もう〜」
 俺はパスタソースを温めながら、客に聞こえないくらいの声で良晴に訴えた。愚痴を言っても仕方がないのはわかってる。でも、言わずにはいられなかった。
「ま、そりゃそうだろな」
 良晴はうなずきながら、グラスに葡萄ジュースを注ぐ。山梨から取り寄せている濃厚で味わい深い葡萄ジュースだ。くるみのお気に入りでもある。
「俺はさ、休む気満々でいたんだよ? 初めての子どもが生まれるんだ、当然だろってさ」
 まだ続く俺のぼやきを聞いた良晴が、肩をすくめた。
「くるみのやつ、意外と職人肌だよな。客に迷惑かけるな、病気じゃないんだから店は開けろって、お前より店の経営に向いてんじゃねーの?」
「そこがいいんですよね。くるみさんのたくましさに、僕は毎日励まされてます」
 ガッキーが大皿に肉料理を盛りながら、会話に入ってくる。スパイスの効いたラム肉のソテーはガッキーの得意料理だ。
「おい、ガッキー。お前、この前ひとりで平気だったよな。このあと店長代理をやれ。俺も永志と病院に行ってくるから」
 良晴の言葉にガッキーが呆れ声で返す。
「さすがに僕も、入ってきたばかりの学生バイトに教えながら予約客をさばくっていうのはキツいですよ。ラム肉のソテー出まーす」
 ガッキーが厨房をあとにしてホールに向かうと、良晴も飲み物を持って彼に続いた。

 くるみの妊娠が後期に入る前には、学生のアルバイトが数人入った。彼らは週に三、四回ずつ、早番と遅番に別れてシフトを入れている。
 とはいえ、まだ始めたばかりのバイトもいる。ガッキーの言う通り、予約でいっぱいの場合、彼が上に立って回すのは少々厳しいだろう。

「くるみの方が経営者向き、か」
 俺はパスタにソースを絡めながらつぶやいた。
 彼女の願いは椅子カフェ堂を揺るぎない店にすること。そのためには客が第一だ。それはわかっている。俺も普段はそう思っている。そうでなければ椅子カフェ堂は成り立たない。常に客のことを考え続けるのは、くるみに教わったことのひとつだ。
 俺は熱々のアラビアータを皿に盛って、ホールに移動する。
「お待たせいたしました。アラビアータです。このあと、カルボナーラを出しますので少々お待ちくださいね」
 大皿にのったパスタを見た客が、わぁと歓喜の声を上げる。
 俺は厨房に戻り、そこからこっそりホールの客の様子を窺った。
 パスタを口に頬張って美味しいと笑う、その客の笑顔を見るのが何よりの楽しみであり、今後の課題を探る一瞬の時でもあった。
 少しでも口に合わなければ彼らの表情が微妙に変わる。そうなった時、すぐに対策を考えなければならないからだ。
 けれど、今日はその杞憂はなさそうだった。
 ホッと安堵しながら次の料理に取りかかる準備を始める。カルボナーラはガッキーに任せていた。
「……その前に」
 俺はポケットに入れていたスマホをチェックする。
『少しずつ痛みの感覚が短くなってきたよ。今、五分間隔くらい』
『お母さんがジュース買ってきてくれた』
『お仕事頑張ってね』
 彼女からのメッセージが連続で入っている。俺は「頑張れ!」のスタンプだけを押して返信した。
「お義母さんがいるなら安心だけど……」
 さすがにこれだけでは彼女の様子がわからない。
 痛いだろうか、つらいだろうか、赤ちゃんはお腹の中でどういう状態でいるのか……、気が気ではなかった。

 貸し切りの予約客が去っても、次から次へと客足が途切れない。ありがたいのだが、こんな時に限ってと、ついイライラが募ってしまう。
 いや、こんな気持ちではダメだ。くるみとの約束が守れない。
 客を第一に、椅子カフェ堂を支えてくれる人のために、ここは踏ん張らないと――
「店長、もう大丈夫ですよ」
 俺の背中にガッキーの声が届いた。
「……え?」
 振り向くと、彼が俺を見上げて話を続ける。
「予約のお客さん以外なら、僕ひとりでできます。職人さんがこのまま椅子カフェ堂に僕と残ってくれるなら、ですけど……」
「いや、でも」
「いいからくるみさんのところへ行ってください。こんな時のための僕じゃないですか。だから前に、椅子カフェ堂の一日店長をさせたんですよね?」
 ガッキーが俺の肩をぽんと叩き、滅多に見せない笑顔を俺に向ける。俺は苦笑して、彼の好意に甘えることにした。
「俺はガッキーにはもう、椅子カフェ堂のすべて任せてもいいくらい信用してる」
「ありがとうございます。ということは?」
「ああ、お願いしてもいいか?」
「任せてください……!」
 頼もしい目をこちらへ向けたガッキーに、俺は頭を下げた。
「ごめん、ありがとう。頼んだ……!」
 俺はガッキーにもう一度礼を言い、厨房から飛び出し、二階の自宅へ駆け上がった。スマホをチェックする。
 子宮口がだいぶ空いたので分娩室に入ることになったが、初産だからまだ時間がかかるだろうというメッセージだけがあった。
「って、これ、二時間以上前のメッセージで終わってる……?」
 何かあれば、俺のスマホにくるみの母から連絡があるはずだ。俺は急いで支度を終えた。
 階下へ下りた俺は、ちょうどレジにいた良晴に声を掛ける。
「くるみのところへ行ってくる。厨房はガッキーに任せたから」
 良晴は俺の顔を見て、ニヤリと笑った。
「生まれたら、すぐに連絡しろよな」
「一番にお前にする」
「慌てないで行けよ?」
「ああ、ありがとう……!」
 椅子カフェ堂のドアを開けると、カラリンというベルの音が軽やかに響いた。

 車を運転し、くるみが入院している病院へ到着した。椅子カフェ堂から十分ほどの産科だ。
 普通の病院とは違う、なんとなくホッとする香りが漂っていた。受付を済ませると、女性看護師が柔らかな笑顔で俺に挨拶をした。
「有澤さんのご主人ですね。こちらへどうぞ」
「あの、妻は……」
「ええ、母子ともにお元気ですよ。申し訳ありませんが、そちらで手洗いとマスクの着用をお願いします」
「あ、はい」
 母子ともにということは……、ということで、そういうことで、間違いないんだよな? と聞きたいのに、なぜか俺はただ黙って看護師の後をついていくだけだった。
「こちらです」
 案内された病室に入ると、ベッドに横たわる俺の妻がいた。心臓がぎゅっと掴まれたように、切なく痛くなる。
「くるみ……!」
「永志さん?」
 こちらを見たくるみが驚いている。それはそうだ。客が帰るまでは来ないようにと、くるみは言っていたのだから。
「永志さん、椅子カフェ堂は?」
「ガッキーと良晴に任せて抜けてきたんだよ」
「そうだったの」
 俺はくるみのそばに近寄りながら、ベッドの横にいたくるみの母に頭を下げる。
「お義母さん、ありがとうございました」
「永志さん、おめでとうございます。今日からお父さんよ。頑張ってね」
 ぽん、と義母が俺の腕を優しく叩いた。今日から父になる。その言葉が、俺の心と体に浸透していった。
「はい。ありがとうございます……!」
「私はちょっと出てるわね」
 笑顔の義母はそう言って、病室から出て行った。

 くるみとふたりきりになり、俺はベッド脇に置いてある椅子に座った。
「お疲れさま、くるみ」
「……ありがとう」
 顔色は良さそうだ。産むときに汗を掻いたのだろう、彼女の前髪が少し湿っている。
 そんな妻の様子を見て、俺はますます胸が痛くなる。俺の子どもを産むために、愛する妻が頑張ってくれたのだと、ひしひしと感じるたびに訪れる痛みだった。
「いつ生まれたんだ?」
 疲れているだろうくるみに合わせ、声のトーンを落として静かに尋ねた。
「ええと、最後にメッセージ入れてすぐだったと思う。どんどん痛くなって、あっという間に出てきちゃったの。初産なのに超安産だねって、先生たちも驚いてた」
 ふふ、とくるみが柔らかく笑う。
「そうだったのか」
「そのあと、分娩室で赤ちゃんと一緒に休んで、今さっきこの部屋に移動したばっかりなの。まだ永志さん仕事中だし、もう少ししてからの方がいいかなって、連絡が遅くなっちゃって……ごめんなさい。心配したよね?」
 申し訳なさそうに眉毛を下げるくるみのことが、愛しくてたまらない。
「俺のほうこそごめん。くるみは俺に気遣ってくれてたのに、その俺が我慢できずに仕事放棄なんて、くるみは望んでなかったよな」
「ううん、そんなことない。こうして来てくれたのは私も本当に嬉しいから。ありがとう、永志さん」
 くるみが伸ばしてきた手を、そっと握った。小さくて柔らかな、俺の大好きな手だ。
「体は? 大丈夫か?」
「うん、疲れたけど……それよりも不思議な感じ。もうここにはいないんだなーって」
 笑いながら、くるみはもう片方の手で自分のお腹を撫でた。
「赤ちゃんも元気なんだよな?」
「うん。すごい大きな産声だったよ」
 その言葉を聞いて、心の底から安堵する。
「良かった。ところで……どっちだった?」
「お医者さんの予想通り、男の子」
「そうか……! 早く会いたいな」
「もうすぐこの部屋に連れてきてくれるはずなの。出産直後から母子同室だから――」
「失礼します」
 看護師の声とともに部屋に入ってきたのは、高さのあるキャスター付きの小さなベッドだ。コロコロとキャスターを転がして、くるみのベッドに横付けする。
 そしてその小さなベッドに寝ているのが……、俺とくるみの子どもだ。
 俺は何も言わずに子どもを凝視した。これが、自分の子ども。とうとう会うことができた。……不思議だ。つい今朝までくるみのお腹にいたのが、この子なのか。
 あまりの小ささに、俺は赤ちゃんから目を離すことができないでいた。
 看護師が部屋を出ると、くるみが俺に言った。
「ね、抱っこしてみて?」
「え!」
 思わず声を上げる。ハッとして赤ちゃんを見たが、俺の声にかまわずすやすやと眠り続けていた。
 産着の上から布にきっちりくるまれて眠るその子を、どうしていいかわからず、俺は目を泳がせる。
「私もまだ怖いんだけど……」
 言いながらくるみはゆっくり起き上がった。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
 彼女はベッドから赤ちゃんを抱き上げ、腕の中に収めた。
「かわいい……」
 彼女は目を潤ませて我が子を見つめている。
 ふたりの姿を見ていると、俺も泣きそうになった。幸せで、どこか切なくて、味わったことのない気持ちだ。感動という一言では、どうにも言い表せないものだった。
「ね、永志さんも」
「あ、ああ」
 彼女から子どもを受け取り、腕の中に収める。
「怖いな……」
「すごくちっちゃいよね。かわいい」
「ああ、かわいいな……」
 手渡されたのは、温かく、とても小さく、軽く、頼りない存在だった。不思議な匂いがする。
 この子はまだ、ひとりでは生きられない。
 そう思っとたん、俺の胸に熱いものがこみ上げた。
「俺の子どもなんだよな。まだ、なんか不思議でたまらないよ」
「実感した?」
 ベッドに横たわりながら、くるみがクスッと笑う。
「今まではくるみのお腹の中にいて、俺はこの子の重さも動きもわからなかった。でも今、俺の手の中にあって……、やっとわかった気がする」
 この気持ちを上手く伝えられないのがもどかしい。
「大事にする。俺のすべてを賭けて、くるみとこの子を守っていく」
 彼女の瞳をしっかり見つめて、俺は嘘偽りのない生涯の誓いを口にした。
「ありがとう、永志さん。こんなに素敵な宝物を私に授けてくれて、感謝してる」
「それは俺のセリフだよ。感謝してもしきれない。ありがとう、くるみ」
 俺はベッドの端に座り、すぐそばでくるみを見下ろした。
「俺、幸せだよ。世界で一番幸せな奴かもしれない」
 たぶん、俺の目には涙が浮かんでいる。
「くるみが椅子カフェ堂の前で立ち止まらなかったら、俺がコンビニの帰りにくるみに声をかけなかったら、いや、そもそもくるみが前の仕事を辞めてなかったら……、どうなってたんだろうって、俺、いつもそれを考えると怖くなるんだ」
 彼女の瞳もまた、涙が浮かんでいた。
「この幸せが続くように、くるみもこの子も俺が絶対に守っていくから」
「私も、この子が幸せになれるように、永志さんについていくね」
 くるみは細い指で、涙を拭った。
「愛してるよ、くるみ」
「私も愛してる、永志さん」
 愛の言葉を確かめ合ったあとで、俺は子どもをベッドにそっと寝かせた。まだぐっすり眠っている。明日は目を開けた姿を見ることができるだろうか。
「お疲れさま、くるみ。今夜はゆっくり休むんだよ?」
「うん、そうする。あ、職人さんとガッキーにこの子の写真見せてあげて。お義父さんたちにも」
「そうだな。動画も少し撮っていくか」
 俺はスマホで子どもを撮りまくった。きっとみんな喜んでくれるはずだ。
 横たわるくるみの額にキスを落とし、明日も必ず来るからと約束をして、俺は病室を出た。

 病院の外は青空がどこまでも続いている。明日も晴れそうだ。
 俺は一生この日の空を忘れない。忘れることなんてできないだろう。
「名前、どうするかな」
 嬉しい課題を胸に、俺は駐車場に停めてあった車に乗り込んだ。





次話は良晴視点です。