一月下旬。今朝は久しぶりに、真冬の厳しい寒さが少し和らいでいる。

 年明けから二週間の改修工事を終え、事務所と椅子カフェ堂の一部が生まれ変わった。
 職人さんが提案してくれたように、一階の事務所は私と赤ちゃんの休憩室になり、どうせお店を休業するならとホールの壁紙を替え、厨房の古い機器は一部を取り換えることに。
 私はその間、実家に帰って家族と過ごした。永志さんと離れるのはちょっと寂しかったけれど、彼が何度も会いに来てくれ、スマホでしょっちゅう連絡も取り合えた。
 椅子カフェ堂は綺麗になったし、私と赤ちゃんの休憩室もできたし、永志さんは相変わらず優しいし……
 だからとても幸せなのに。最近心が沈みがちなのは、どうしてだろう。

 モヤモヤした気持ちを抱えたまま、開店前の椅子カフェ堂ホールに入ってきた職人さんに早足で近づく。
「職人さん、おはようございます! ちょっと聞いてくださいよ……!」
「なんだよ朝からうるせぇな、お前は」
 ボディバッグを肩からおろした職人さんが、私を見下ろす。
「ドタバタすると怪我するぞ。体を大事にしろっての」
 ちっ、という舌打ちが響き渡った。
 妊婦の私を気遣ってくれているのはわかるけど、もう少し優しい言い方ってないのかなー。なんて言ったら、丸みを帯びてきた私の頬を容赦なくつままれそうなので、ここはこらえる。
「で、なんだよ?」
「えっと、この雑誌に『イケメン男子がいるカフェ特集』というのが載ってて、そこに――」
「ったく、本人に断りもなく勝手に載せられても困るんだっつうの。どれ、見せてみろ」
 やれやれと肩をすくめながら、職人さんがため息を吐いた。これはもしかして……勘違いしてる?
「いえ、職人さんのことじゃなくてですね」
「ん?」
 首をかしげた職人さんに、ひらいた雑誌のページを見せる。彼はかがんで、私が指さした文章を音読し始めた。
「椅子カフェ堂ではぜひ、ホールにいるメガネ男子の彼にご注文を……? なんだこりゃ」
「そのまま続きを読んで下さい」
 私から雑誌を受け取った彼は、ふむふむと続きを読む。
「SNSのタグで検索をすると『イケメン眼鏡男子がサーブしてくれた』『いつもクールでたまに笑顔を返してくれるのが最高』『ホールでデキパキ動いているメガネ男子カッコいい』などなど、椅子カフェ堂で働くメガネ男子が密かな人気……って、なんだよこれ」
「僕のことです」
 後ろから声が聞こえて振り向くと、メガネ男子のご本人、新垣くんだった。
 厨房から出てきた彼は、腰に巻いたカフェエプロンを締め直しながら近づいてくる。とてつもなく得意げな顔をしているのは、気のせいじゃないよね。
「はぁ? 俺だってホールでテキパキ動いてるだろうが。なんでガッキーばっかりこんなに持ち上げられてんだよ」
「認めましょう、職人さん」
 眉を吊り上がらせた職人さんの肩を、新垣くんがポンと叩いた。余裕の表情だ。これは……職人さんの反応が怖い。
「……あ?」
「とうとう僕の時代が来たってことを、素直に認めましょうよと言ってるんです」
 ふっと笑った新垣くんはメガネを外し、エプロンでレンズを磨き始めた。
「なんだよ、そのドヤ顔は」
「彼女持ちと、奥さん持ちのオッサンたちは引っ込んでろっていう、まあ当たり前の世論ですよ」
「ガッキーもういっぺん言ってみろ。ケンカ売ってんのかコラ」
 やっぱり始まった。というか、職人さんって自分がイケメン男子っていう自覚があったんだ。
「まぁまぁ、本当のことだろ。俺と良晴がモテたって仕方ないんだから。な、くるみちゃん」
 厨房から永志さんが出てきた。彼は微笑みながら私に目配せをしている。その視線にうなずいてから、私は職人さんを見上げた。
「そうですよ。職人さんには小川さんがいるんですし、永志さんにはその、私という妻がいるわけでして……」
 自分で言うのも恥ずかしいけど、本当のことなんだから。
 結婚前、永志さんは女性客の注目を浴びていたけれど、今は雑誌やサイトで私と夫婦だと公言していて、結婚指輪の効果もあってか、そういうことはなくなったのだ。私も彼の妻として、なるべく堂々と振る舞うようにしている。
「あと、それだけ新垣くんが椅子カフェ堂の一員だと認識されているのは、とてもいいことだと思います、うん」
「さすが、くるみさんはわかっていらっしゃる」
 聞きました? と、新垣くんが職人さんの顔を覗き込む。職人さんはさっきから顔の表情が変わってない。これは相当イライラしてそう。……八つ当たりされないように、早めに逃げなくては。

「くるみちゃん、ありがとう。もういいから奥の部屋で休んでな?」
「でも、少しくらいなら大丈夫です」
 永志さんの言葉に、胸がずきんと痛む。
 今日、私が椅子カフェ堂でした仕事といえば、花の飾りつけと、新垣くんが作ったスイーツをショーケースに並べたことくらいだ。
「ダメダメ。心配で俺が仕事にならないんだよ。せめて安定期に入るまではおとなしくしていよう、な?」
「そうだぞ、くるみ。いいからプリンの新作でも考えてろ」
 優しく言う永志さんの隣で、職人さんが眉をしかめた。
 表情は違っても、ふたりが私を思ってくれているのは痛いほどわかる。わかるんだけど……
「大丈夫ですよ、くるみさん。僕がスイーツ作りもドリンクもホールも全部できますし、ほら、今日は昼に新しいバイトさんも来ますから」
「うん。……そう、だよね」
 新垣くんはいつの間にかチーズケーキの作り方もマスターしていた。
 食べづわりのせいで、私はいつもと微妙に違う味覚になっている。だから永志さんと職人さんが新垣くんのチーズケーキを何度も味見し、そしてとうとう完成させた。
 永志さんは私が作るチーズケーキが本物だと言ってくれたけれど、気を遣っているだけかもしれない。
 ――私が作らなくても、新垣くんが作ってくれる。
 私が妊婦じゃなかったとしても、体調が悪いときに代わりに作ってくれる人が必要だ。だからこれはとても喜ばしいこと。そして大学生のバイトさんがふたり、交互に入ってくれる。これで私が出産のためにお店にいなくても、椅子カフェ堂は順風満帆だ。
「じゃあ、あとはよろしくお願いします。私、ちょっとコンビニ行ってきますね」
「あったかくして行くんだよ?」
 永志さんの言葉に、私は小さくうなずく。
「……はい」
 休憩室にエプロンを置きに行き、コートを羽織って外に出た。

 石畳の通りに出ると、朝日が道を照らしていた。見上げた空は真っ青だ。きんと冷えた空気から守るように、コートを着たお腹をそっとさする。
「……なんか、寂しいな」
 診察はいつも良好で体調はいいはずなのに、ちょっとしたことで胸が重苦しくて悲しい気持ちになってしまう。
「……」
 みんな私に気遣ってくれて、優しいんだよね。それなのに不満があるなんて、私の考えがおかしいんだ。
 赤ちゃんのためにもしっかりしなきゃいけないのに。どうしてこんなに寂しくて、苦しいんだろう。
 椅子カフェ堂に私の居場所がなくなってしまったような。
 ううん、みんなはそんなこと絶対に思ってない。だけどどうしても、どうしても……あの青空のように、心がスッキリと晴れてはくれない。
 椅子カフェ堂で、私はチーズケーキを作る。それはお店に初めて訪れた日から、私に課された任務だった。でもその役目が必要なくなってしまったら……どうすればいいのか、わからないよ。
「あ、美容院……どうしよう」
 伸びてしまった髪をそろそろ切りたいのに、行く気になれない。何をするにもやる気が出ない。どうしちゃったんだろう。
 こんなんで私……母親になれるのかな。

 ため息をついた時、前方にベビーカーを押す女性の後ろ姿が見えた。石畳の上を速足で歩き、彼女の背中に声をかける。
「あの、古田さんの奥さん……?」
 駅を挟んだ商店街の向こう側にある、老舗和菓子店「みもと屋」。その息子である古田さんの奥さん――七緒さんが私の声に振り向いた。
「あ、くるみさん! お久しぶりです。買い出しですか?」
 ふわりと笑った七緒さんの笑顔が私の涙腺を緩ませる。
「な、七緒さ、ん……私」
 言葉を発したと同時に、ぼろっと涙がこぼれた。
「え、どうしたの!?」
「うっ、ううっ……うー」
 我慢したいのに、タガが外れたように次々と涙があふれてくる。どうやっても止められない。
「す、すみま、せん。いきなり、こんな……こん、っ」
 道の真ん中でみっともない。七緒さん、きっと驚いてるよね。ううん、呆れられたかもしれない。
 私は急いで涙を拭こうとしたけれど、ハンカチは店に置いてきたエプロンのポケットに入れっぱなしだった。
「……あのね、くるみさん。私、これから壮介さんの実家に行くの。よかったら、くるみさんも『みもと屋』へ一緒に来ない?」
「え……」

 顔をあげると、優しく微笑んだ七緒さんが、私にハンカチを差し出していた。



後編へ続きます。