よろしく、と言って、有澤店長とくるみさんは病院へ行ってしまった。

 がらんとした椅子カフェ堂のホール内は、僕と職人さんだけだ。いまは朝の八時半。有澤店長とくるみさんの仕込みは終わっている。
 あとは僕がランチのパスタソースの仕込みを――
「おい、店長」
 振り向いた職人さんが僕に言う
「……は? 有澤店長はたったい今出かけたじゃないですか」
 寝ぼけているのだろうか。
 それともくるみさんのお腹の赤ちゃんが、自分を好きになるかどうかと、まだ思い悩んでいるのだろうか。
 考え込みながら職人さんの顔を見上げると、彼が呆れた声を出した。
「今日はガッキーが永志の代わりなんだから、お前が店長でいいだろ」
「なっ……!」
 僕が、椅子カフェ堂の店長!?
「一日店長だ。な?」
 バンバンと背中を叩かれた。この人、手のひらが大きいんだよな。背も高いし。そこはうらやましい。
 僕は気合を入れてもらった背筋を伸ばし、職人さんへ向き直った。
「わかりました。……恐れ多いですが、やると決めたからにはやらせていただきます。店長でもなんでも!」
「おう、頑張れ。俺は美知恵に電話してくるわ」
「あ、ああ、そうですね。お願いします」
 職人さんはスマホを持ち、いったん外に出た。
 僕はメガネを拭き、エプロンを締め直して厨房に入る。僕の仕込みに加えて、確認することが山のようにあるのだ。

「美知恵、昼前に来てくれるってさ」
 僕が仕込みをしていると、早速職人さんが報告にきた。
「そうですか、ありがたい。助かります」
 とりあえずホールとレジはなんとかなりそうだ。
「さてと、俺は朝メシでも買ってくるか」
 あーあ、と職人さんが伸びをした。何をのんきなことを言っているのだろうか、この人は。
「ダメです」
「あ? なんでだよ。俺、腹減ってたら何もしないぞ?」
「昨日の残りのバゲットでフレンチトーストとラスクを作りましたから、どうぞ」
 皿にのった、できたばかりのそれらを指し示す。ぱっと明るい表情に変わった職人さんは、その皿を持って、フレンチトーストの匂いを嗅いだ。
「へえ、いい匂いだ。うまそうじゃん。じゃあこれはデザートにする。サンドイッチでも買ってこ――」
「いいですか、職人さん!」
 その場を離れようとした職人さんのシャツの背中を、むんずと掴む。
「いっ、何すんだよ、ガッキー」
 彼はよろけながらも、手に持っていた皿を死守した。
「あなたには今日、エスプレッソ以外のドリンクをやってもらいます! それを覚えてもらわなければならないんです!」
「はぁ? やったことねーよ、そんなもん」
「僕と職人さんしかいないんだから、やってくださいよ。僕は料理と、くるみさんが作ったスイーツの盛り付けもしなければならないんですから」
「永志たちが食材の旅に出たら、お前が全部やるって言ってたじゃん」
「あ、あれはまだ……先のことじゃないですか。それまでに色々と心構えや準備もできるかと思ったので。でも今日はいきなり一人なんですよ?」
「俺はレジだけなんじゃないっけ?」
「職人さんがドリンクをやらないって言うなら、フレンチトーストもラスクもなしですからね!」
 僕が一人でやるには限界がある。料理を完璧にできる自信はあるのだが、キャパオーバーはいただけない。
「ちっ……、しょうがねぇなあ。やればいいんだろ、やれば」
 職人さんはあからさまにイヤそうな顔をしつつ、なんとかうなずいてくれた。
「お願いします」
「じゃあ、夕方にプリンもくれ」
 くるみさんが使っているスイーツ用の冷蔵庫を、彼が指さす。
「プリンって、くるみさんが作ったやつですよね? 余るんですか、あれ?」
 そうだ、あとでスイーツをショーケースに並べなければ。
「あんまり余らないんだよ。だから先に取っておいてだな……」
「バカ言わないでください。とにかく、とっととフレンチトースト食べて、厨房に入ってくださいよ?」
「へいへい」
「あ、それから店内の掃除もお願いしますね。職人さんの家具とか、テーブルの上も」
「それも俺がやんの?」
 完全に人ごと、という職人さんの態度にムカッときた僕は声を荒げた。
「やんの! 今日は僕が店長ですから、言うことは聞いてもらいます!」
 ぎっと睨みつけると、職人さんが後ずさる。
「ガッキー意外と……怖いな」
「なんとでも言ってください」
 非常事態だということを、この人は本当にわかっているのだろうか。
 僕は盛大にため息をつきながら、キッチンで段取りのシミュレーションを開始した。

「おはようございます。遅くなってすみません。ギリギリですよね?」
 職人さんにひと通りドリンクの入れ方を教え終わると、ちょうど小川さんがきてくれた。
「こちらこそすみません! よろしくお願いします!」
「精一杯やらせてもらいますので、よろしくお願いします」
 小川さんが頭をぺこりと下げた。ふんわりしたショートカットが揺れる。
「私、昔ケーキ屋でバイトをしていたので、持ち帰り用のケーキの箱詰めくらいならできます」
「それは助かります。お願いします」
 今日は長めのスカートを穿いているのか……可愛いな。
 などと言ってる場合ではなく。
「あ、良晴さん。おはようございます」
 ドリンクで汚れてしまったエプロンを取り換えていた職人さんがやってきた。とたんに小川さんの目が輝く。
「悪いな、忙しいのに」
 職人さんが小川さんの頭をぽん、と撫でた。僕に対する扱いと雲泥の差だ。当然だが。
「いえ、良晴さんと一緒にいられるなら……全然」
 あーあ、顔赤らめちゃって。職人さんもまんざらではなさそうだ。やはり僕の入りこむ隙はなさそうだ。
「いちゃついているところを申し訳ないんですが、職人さん、早急に小川さんにレジの打ち方を教えてあげてください」
「ああ、そうだな」
「なるべく職人さんがやるようにしてもらいたいんですが、ホールも忙しいと思うので。小川さん、ホールのことは、わからなければ僕と職人さんが全部カバーしますから安心してください」
「わかりました」
「そうだこれ、エプロンです。くるみさんから預かりました」
 小川さんにエプロンを渡すと、彼女が嬉しそうに笑った。
「わぁ、椅子カフェ堂のエプロン……! では早速着けますね」
「俺がやってやる」
「えっ」
 二人がいちゃついている間に、僕はメガネをかけ直して、店内を見回した。

 店内の花、オーケー。掃除も済んでいる。ショーケースに並べたスイーツも美しい。
 レジの釣銭もそろっている。今日のランチメニューは頭に叩きこんだ。心地よい音楽も流れている。
 僕は軽く息を吸いこみ、窓の外へ目をやった。
 すでに数人が並んでいるようだ。いつもより若干早いくらいだが……有澤店長がいないだけでこんなにも不安に感じるとは。
 今日は十一月下旬。晴天。気温は気持ちのいい涼しさを感じるくらいで、それほど寒くはない。そして世間の多くは給料日後、だ。これは客足が伸びる。
 開店時間を少し早めてみようか。五分前なら問題ないだろう。

「悪い、縦結びになったな」
「あ、じゃあやっぱり自分で……」
「いいからやらせろよ」
 またもいちゃつき出したか……。とため息をつこうとしたそのとき、思い出した僕は声を上げた。
「あーっ!!」
「な、なんだよ!?」
「どうしたんですか?」
 驚いた二人が僕に問う。
「住谷パンのバゲット! 取りに行くの忘れてた!」
 僕としたことが、とんでもないミスをしてしまった。
「いつも早朝にくるみがもらってくるだろ。そのへんにあるんじゃね?」
「いえ、週に二回だけ、遅い時間の受け取り日があるんですよ。さっき出がけにくるみさんに言われてたのに……!」
「なんでフレンチトースト作った時に、バゲットに気づかないんだよ」
「あの時はまだ時間が早いと思って……」
 今、僕がダッシュで行けば間に合うか?
 職人さんに行かせるわけにはいかないし、小川さんが住谷パンの場所を知らなかったらアウトだし……
「じゃあ俺が行ってくるわ」
「それは困ります! もう外にお客さんが並んでますから、職人さんが行ってしまうとホールが」
「それなら私が行ってきます。住谷パンさんの場所はわかるので。、椅子カフェ堂ですって言って、受け取ればいいんですよね?」
 助かった……! 小川さん、住谷パンを知ってたのか!
「すみません! 今から僕が住谷パンさんに小川さんが受け取りに行くことを電話しておきますので!」
 小川さんは荷物を職人さんに預け、椅子カフェ堂のドアへ向かう。
「それでは行ってきます」
「なるべく早めに、すみませんっ!」
「了解です! ダッシュで行きますっ!」
 小川さんがドアを開ける。ああ、ドアベルをまだつけていないじゃないか……!
「おい、美知恵! 気をつけて行けよ、焦らなくていいからな!」
「はーい!」
 彼女は本当にダッシュをして住谷パンへ向かってくれた。
「あんまり美知恵をこき使うんじゃねぇよ」
 苛立ちを感じる職人さんの声だ。いきなり自分の彼女を使われたら、そりゃ怒って当然だよな。
「……すみません。とりあえず、お客さん結構並んでいるんで、今日は開店時間五分前に開けましょう」
「わかった」
「よろしくお願いします!」
 勢いよく頭を下げると、頭上から職人さんの声が降ってきた。
「今日はお前が店長だ。今日、俺はお前しか頼れる人間がいない。そして俺はいつも通りのことしかできないが、お前の助けになるよう努力はする。だから代わりに――」
「ジェノベーゼパスタ、大盛りでどうでしょう?」
 職人さんが言い終える前に、顔を上げた僕が提案する。彼はニヤリと笑った。
「よし。それなら相当頑張ってやる。とにかく住谷パンに電話しろ」
「はい!」
 頼みますよ、職人さん……!


「い、いらっしゃいませ」
「こちらの席へどうぞ」
 小川さんがたどたどしく、そして職人さんが手慣れた調子で客を席に案内する。あっという間に外の席まで埋まってしまった。
「オーダー入ります。一番テーブル本日のランチふたつと、食後にカプチーノふたつです。三番テーブルさんはカップケーキとチーズケーキ、カフェオレふたつです」
「はい、わかりました」
 小川さんのオーダーにうなずくと、職人さんが立て続けに言った。
「オーダー入るぞー。 きのこグラタンとラザニア、あと食前にリンゴジュース。って、ジュースは俺がやるのか」
「ええ、お願いします」
 頭の中で順序を組み立て、手際よく作っていく。
「サーモンときのこのクリームパスタとコロッケランチお願いします。それから、さっきのエビとアボカドのサラダはキャンセルだそうです」
「……キャンセルですね。わかりました。ランチふたつ出ます」
 キャンセルとか勘弁してくれ、などと思う間もなく次々とオーダーが入る。
 椅子カフェ堂は狭い店内だが、ランチ時は客の回転がいい。
 僕が椅子カフェ堂に入ったから、というのもあるが、やはりそれだけではないだろう。有澤店長の料理と、くるみさんのスイーツの味を求めて、客がひっきりなしにやってくるのだ。スイーツは持ち帰りだけの客もいるため、ホールがてんてこまいになることもある。
 そして客が店の外で並んで待っているせいか、食べている客が気を遣って長居しないのだ。長居したい客はピークをすぎてからやってくる。こちらはそれまでの辛坊といえばそうなのだが、かなりきつい。
 有澤店長はそれをひとりでこなしていた。いや、くるみさんがいたからやってこれたのか。
 彼女はホールとレジとスイーツの盛り付けに、洗い物まで手伝っていた。職人さんが手伝うときもあるとはいえ、店長もくるみさんも大変な量の仕事をこなしているのだ。

「おい店長、ストローの予備ってどこだっけ?」
 職人さんが厨房に入ってきた。彼も有澤店長と同じように背が高いから、厨房に入ってくるとスペースが狭く感じる。
「ああ、上の棚です」
「んー。なぁ、店長」
 彼はどんな時もマイペースだ。こちらがどんなに焦っていようが、お構いなし。それが羨ましくもあり、忙しい僕をイラつかせもする。
「なんですか」
「洗い物ヤバくね?」
「えっ! ほんとだ、すぐにやります」
 水に漬けこんでいる食器類が溜まっていた。これらを軽くこすったあと、洗浄機に入れればいいのだが、まったくそんなヒマはなかった。
「俺も手伝うわ」
「すみません、お願いします」

 オーダーの時間、順番、料理の作業工程、盛り付け、食後のスイーツ、エスプレッソ、テーブル番号に間違いがないか……
 頭と体をフルに使い、僕はそれらすべてに没頭した。
 集中して集中して、流れを掴んでいき、まるで機械のように手を動かしていく。
 疲れてきても、感覚だけは鋭くなっていく。一種のトランス状態に近い。料理は何に似ているだろう。ひたすら走り続けるマラソンかもしれない。いや、遠泳か?
 とにかくゴールがなかなか近づかない。成果も見えにくい。
 今僕は、有澤店長の味に近づけているだろうか。有澤店長と同じように、できているだろうか――

 ――新垣。頭でっかちになるな。ただ模倣をすればいいってもんじゃない。それがわからないなら、これ以上は成長できんぞ。

 唐突に頭の片隅でチーフの声が聞こえた。
 東麻布のイタリアン「トラットリア・ナノーハ」。毎日戦場と化した調理場は、完全なヒエラルキーだった。

 ――次のチャンスはいつだろうな。その頃には新人が這いあがってきて、もっと難しくなるな。……お先に。
 ――新垣、お前は羽があっても飛べない鳥だ。この意味、わかるか? 親のあとをくっついているだけの、飛べない鳥なんだよ。

「……やめろ」
 地位を上げることに成功した同期からの辛辣な言葉が、いまも僕の体を動かなくさせる。
 頭を横に振って意識を戻した。
 料理に集中しよう。余計なことを考えるのは無駄だ。今は有澤店長がいない。僕が店長なんだ。だから彼の味を完璧に再現して、それで――
 それで? 僕は、どうしたいんだ……?
「ガッキー、ランチ追加な」
 顔を上げると、同期がそこにいた。
「え……っ」
「えってなんだよ、ランチ追加な」
 いや、違う。これは職人さんだ。同期のあいつとはどこも似ていないのに、見間違えたことに焦る。背中に冷汗が流れた。
「あ、はい……。ランチ追加、ですね」
「疲れてんのか?」
「いえ、大丈夫です」
 僕は呼吸を整え、フライパンを手にした。
「ホールはだいぶ落ち着いたから焦るなよ」
「……はい」
 客が待っているというのに、どうしたんだ僕は。
 いままでこんなことはなかった。いや、調理場を任されたから、こんな状態になったのかもしれない。一人では調理場にいられないということか? それじゃあ僕はこの先、どうすればいいんだ。どうすれば――
「あ、そうそう。さっき帰った客が永志に用があったらしいんだけどさ、今日は永志は出かけてるって言ったんだよ。そしたらすごく驚いてたぞ」
 グラスに水を注ぐ彼の言葉に、僕の心臓が苦しなる。
「驚いてた……? まさか、クレームですか?」
 僕の味がおかしかったのだろうか。
 この半年、有澤店長の味を研究し続けてきた。そして今までは有澤店長がそばにいて、僕が提供する料理を直前までチェックしてくれていた。だから安心してサーブできたんだ。
 しかし、今日は僕一人だ。お手本とする誰かがそばにいないだけで、ダメになってしまうのだろうか。
 模倣しかできない僕が、それすら手にできないのだとしたら、やはり僕は飛べない、落ちこぼれ――
「いや、その逆だ。『有澤店長と同じ味だから、まったく気づかなかった』ってさ。そのおっさん、商店街の元会長でさ、久しぶりに椅子カフェ堂に食べにきたんだよ」
「……」
「すごいじゃん、ガッキー。こんな短期間で永志の味そのものだって言われるのは、お前の努力の賜物だよな」
 職人さんが口の端を上げてニヤリと笑った。
 僕は一瞬呆然として、それから苦笑してみる。
「ありがとう、ございます。職人さんらしくないですね、僕を褒めるなんて」
「ま、たまにはな」

 同じことしかできない。
 正確なだけで華やかさがない。
 ああ、そうだ。僕は、僕のこだわりによって、チーフと同じことをしようとした。そこに華やかさなんてあるわけがない。
 でも、それがなんだ。だからどうしたって言うんだ。
 真面目に、正確に、店の味を守ろうとした。それのどこが悪い。
「……」
 違う。
 僕はそれを乗り越えようとしなかっただけだ。そんな自分はダメだと決めつけて、諦めた。彼らと同じ土俵にいるのがイヤになり、自分から調理場をやめてホールに出たいと言って……逃げた。
 僕を負け犬だと決めつけたのは、僕だった。

「おいガッキー、どうした?」
 椅子カフェ堂に入ったばかりのころ、有澤店長が僕に聞いた言葉。
 ――なんでそんなに自信がないんだ?
 それは、僕が僕自信を怖がっていたからだ。やっと、わかった。
「ガッキー、……大丈夫かよ?」
 そんな心配そうな顔するなんて、職人さんらしくないな。ああ、僕がそんな顔をさせてしまったのか。
「職人さんは今朝、僕しか頼れないって、言いましたよね?」
 僕がナノーハで働いていたのを覚えていてくれた客もいたのに。
 ナノーハのホールに出ていたことを椅子カフェ堂で聞かれた時、僕はとっさに嘘をついた。知らないフリをして、なかったことにして――
「ああ、言った。そりゃそうだろ。俺、なんも作れないし」
「頼ってください」
 もうそういうのは、やめだ。僕は椅子カフェ堂でこの半年の間、少しは変われたはずなんだから。
「僕を頼ってください。任せてください、大丈夫ですから。店長が帰ってくるまで、絶対にもう困らせたりしません」
「お、おう」
「すみませんでした。オーダーもう一度、お願いします……!」
 吹っ切れた僕はようやく、椅子カフェ堂を任された一日店長として、しっかりとこの場に立てた気がした。


「ただいまー」
「すみません、職人さん。遅くまで」
 閉店時間を過ぎたころ、有澤店長とくるみさんが帰ってきた。外はもう寒い。深まる秋が過ぎ去り、冬が始まろうとしている。
「いいっていいって。ゆっくりできたか?」
「はい……!」
「ありがとな、良晴」
 くるみさんたちが出かける直前、職人さんは彼女たちに声をかけていた。いつも忙しいのだから、こんな時ぐらいは遊んで来いと。
 彼は意外と気を遣ったり、人をよく見ているように思う。ということに、今日気づけた。
「ガッキーも、本当にありがとな」
「いえ、そんなことは」
 有澤店長に笑顔を向けられた僕は、気恥ずかしさから、うなずくだけで精一杯だった。
 たいしたことはしていないし、彼の力が本当にすごいものだということを今日嫌というほど思い知ったからだ。
「新垣くん、お疲れ様でした。すごく大変だったでしょう?」
「全然そんなことありませんよ。余裕でした」
 くるみさんにだけは少々見栄を張る。少しはカッコつけたい。
「小川さんも本当にありがとう。突然ごめんね」
「いえいえ。私はたいしてお役に立てなくて」
 小川さんはくるみさんの言葉に照れながら、頭を横に振った。
「頑張ってましたよ、小川さん。小川さんがいてくれなかったら、今日一日大変でした」
 僕が口添えすると、ますます小川さんは赤くなってしまった。
 本当に、彼女がいなかったら僕と職人さんだけでは一日回せなかったはずだ。

「で? どうだったんだ?」
 職人さんがくるみさんに聞く。それは僕も気になっていたので、みんなの分のカフェオレを作る前に聞くことにした。
「え、えへへ〜」
「いたよ、ここに」
 くるみさんが笑うと、有澤店長が彼女のお腹をそっと撫でた。ということは、本当に赤ちゃんがいたのか……!
「そうか! 男か? まさか……女か!?」
「気が早いですって、職人さん。まだまだわからないみたいですよ」
「なんだよ、まだか」
 そうか、まだわからないものなのか。こういったことは全く知らないので、僕も職人さんと一緒にうなずく。
 ふたりの赤ちゃんか。可愛いだろうな。 なんともいえない不思議な、そして幸せな気持ちだ。
「くるみさん、おめでとうございます」
「楽しみですね、赤ちゃん」
 僕と小川さんでくるみさんに笑顔を向ける。すると、職人さんがくるみさんを椅子に座らせた。
「とりあえず、お前はしばらく何もしないでいろよ?」
「え、できますよ」
「ダメだ」
「もう、なんなんですか職人さんってば……!」
 くるみさんが口を尖らせると、有澤店長が彼女の隣に座る。そして彼女に言った。
「俺もダメだと思うよ」
 とてつもなく優しい声だった。これが「愛」というものかと思わせるくらいの、穏やかな声だ。
「……永志さんまで」
「厨房は冷えるし、何より立ちっぱなしなんだから、ダメだよ。安定してきたら、そこでまた考えよう。具合が悪くなったら階段を上り下りするのも大変だろうし」
「……うん」
 くるみさんが落ち込んだ表情になる。なんとなくその場の空気に耐えられなくなり、僕はみんなに声をかけた。
「僕、飲み物作ってきます。カフェオレでいいですか。くるみさんはホットミルクがいいかな」
「ありがとう、新垣くん」
「ああ、悪いな」

 飲み物を作った僕は、みんなのいるテーブルに運んだ。全員が口をつけたところで、職人さんが言った。
「一階の事務所を改装するってのは、どうだ?」
「改装?」
「どうせガッキーが着替えに使ってるだけだろ? 俺は最近まかないは倉庫で食ってるし、ガッキーはホールのすみっこで食ってるしな。くるみは休憩するときは二階に上がってたし」
「それはそうだけど、事務所を何に改装するんだ?」
 有澤店長の疑問が僕の頭にも浮かぶ。
 すると職人さんはテーブルに身を乗り出した。
「そこに一部屋作って、赤ん坊が生まれたら、くるみは赤ん坊とそこにいればいいじゃん。で、たまに俺が赤ん坊見てるから、その間にくるみは店に出てみれば? 妊娠中も一階で過ごせるようにすれば永志も安心だろ?」
「あ、そういうことか! いいね、それ」
「職人さんのアイデア、すごくいいと思います……!」
 くるみさんも嬉しそうだ。
「よし、やってみるか。施工会社探そう」
「美知恵が知ってるんじゃないか。そういうの」
 職人さんが振ると、小川さんがこくんとうなずいた。
「インテリアコーディネーターの資格の勉強を一緒にした人が、不動産会社で働いているんです。そこから紹介してもらいましょうか」
「不動産会社? なんて人?」
「えっと、北村さんっていう人で、彼は今年も資格試験を受けるって――」
「男か」
 職人さんの鋭い声が響く。もしやこれは……嫉妬しているのだろうか。
「お、男の人ですけど、別になんでもないですよ……!」
 ムッとしている職人さんに、小川さんが慌てて言う。そしてくるみさんが職人さんに向かって笑った。
「わぁ、職人さんがやきもち焼いてる〜!」
「……あ? 今なんつったくるみ? おいこら」
「いたっ、妊婦になんてことを……!」
「デコぴんくらいなんてことないだろうが」
「ひどい〜」
 いつもの椅子カフェ堂だ。なんだかホッとする。

 僕が厨房で片づけをしていると、有澤店長が仕込みをしにきた。
「ガッキー、本当におつかれさんな」
「有澤店長とくるみさんが、いかに大変な作業をこなしているか、よくわかりました」
 そうだろ、と笑った店長が僕の顔をじっと見る。なんだろうか……?
「どう? 吹っ切れた?」
「え……」
「いや、今日は別に休みにしてもよかったんだけどさ」
 ハハッと笑った店長の顔に、僕はピンときた。
「もしかして店長、わざとですか?」
「くるみちゃんがね」
 有澤店長がクスッと笑う。
「せっかくだからガッキーに任せたらどうかって。この機会に何かを得られるかもしれないって。最近料理っていうか、スイーツのことで切羽詰まってただろ? 椅子カフェ堂に馴染んできた頃だし、いいんじゃないかってな」
「はぁ……、さすがですね、くるみさんは」
 参ったな、本当に。
 くるみさんの意図とは違ったのだろうけれど、僕にとっては本当にいい機会だった。
「なぁ、ガッキー」
「はい?」
「俺たちのためとか椅子カフェ堂のためなんかじゃなく、自分のためにやれよ?」
「……店長」
 胸がずきんと痛む。この人は、他人をよく見てる。有澤店長だけじゃない。職人さんも、くるみさんもだ。いや、僕がまだ人間ができていないから、そう感じるのだろうが。
「……わかってますよ、店長」
「本当だな?」
「店長、今後またくるみさんと二人で出かけたい時は僕に任せてください。それから、店長の分の仕込みも週に何回かはやらせてください……!」
「ガッキー……」
「おい、俺がいないとダメだろ。お前ひとりなんて無理だって、今日わかったじゃん」
 僕らの会話をいつから聞いていたのか、厨房の入り口に職人さんとくるみさんがいた。職人さんの隣には小川さんもいる。
「ですから、職人さんが僕のサポート役です。当然でしょう」
 職人さんに向かってきっぱり言う。
「お前、まだ俺をこき使う気かよ」
「はい。だからお願いします」
 僕はもう、迷わないんだ。
「まぁでも、あと二人くらいはホールのバイトを入れないとダメだな。せめてランチ時くらいは」
 有澤店長が腕を組んで考え込んだ。それには僕も賛成だ。
「永志さん、まだ私は働きますからね? スイーツを作るくらいはさせてくださいね?」
「大丈夫?」
「新垣くんがいてくれれば、大丈夫です」
 そう言われて嬉しくなる。
「そうですよ。頼りにしてください、くるみさん」
「うん! ありがとう、頼りにしてる!」
 くるみさんがまぶしいくらいの笑みを僕に向けた。本当に素敵な、尊敬できる女性だと思う。
「おい、くるみ」
「なんですか? 職人さん」
「永志が怖い顔してるぞ」
「えっ!」
 職人さんが有澤店長のほうをあごでしゃくる。店長は……さっきの職人さんの嫉妬顔と同じだ。僕は笑いながら三人を残して厨房を出た。そしてホール内を見渡す。

 いつまで僕がここにいられるかは、わからないけれど。
 椅子カフェ堂。僕は有澤店長の味を守る。それは椅子カフェ堂の味を守ることであり、自分のためでもあるんだ。最初にくるみさんが言ったように、僕はここで自分を変えていく。
 飛べない鳥がどれほどのものになるのか、挑戦してやる。本気でここに腰を据えてみると決めたんだ。

 だから……どうぞ、これからもよろしく。





またいつか番外編を書けたらいいなと思います。