秋晴れの雲一つない気持ちのいい朝。青い空を仰いで大きく息を吸い込む。
 あんなに暑さの酷かった陽気はすっかり息を潜め、夜や朝方は肌寒さに身を縮めてしまう日もある。

 右手に住谷パンのバゲットを抱えて、軽い足取りで椅子カフェ堂へ戻った。
「ただいま〜」
「くるみちゃん、お帰り」
「おかえりー」
 ホールのテーブル席に着いている二人が私を振り向いた。開店前のお店の窓はまだロールスクリーンが下がっていて、ホール全体が外からの柔らかい光に包まれている。
「あれ、職人さん早いですね」
「今来たとこだけどな。涼しくなると活動が早くなんのって俺、去年もお前に言わなかったっけ?」
「忘れました」
「来年もまた同じこと訊いてきたら、デコピン五倍の刑な」
「ご、五倍は絶対嫌です」
 恐ろしい……。忘れないようにしよう。
「くるみちゃんを待ってたんだよ。こっちおいで」
「はい」
 二人がいる隣のテーブルにバゲットの袋を置き、永志さんの横の椅子に座った。テーブルを挟んで彼の前に職人さんが座っている。

「これなんだけど、ちょっと見て」
 永志さんが差し出したペーパーを私と職人さんで覗き込む。
「じゃぱん・和フェア?」
 見出しには大きく商店街の名前が載っていた。参加店舗名、と箇条書きされたところに椅子カフェ堂の名前があった。
「最近注目の沿線特集っていうので、この辺りの店舗が雑誌に掲載されるらしいんだ」
「ああ、三つ先の駅に駅ビルが出来るんだろ。来月だったっけ? その影響?」
「そう。特集のメインはそっちなんだけど、ここらも最近新しい店が出来始めてるから、結構載せてくれるらしいよ。あとテレビの取材なんかも入るらしい」
「えー!!」
 にっこり笑って言った店長の言葉に思わず叫んでしまった。
 駅のこちら側のメインは石畳の通りなんだけど、椅子カフェ堂の前の通りにも、永志さんが言ったようにお店が増えつつあった。ファミリー向けのインポートショップや、蒸しパン専門のお店、手作り焼き菓子のお店、珍しい文具を取り扱うお店などが、ここ半年の間に出来ている。どれもこじんまりしているけれど、とても可愛くておしゃれなお店ばかり。
「テレビの方もメインはこっちじゃないんだけどね。でもせっかくだから街を上げてお客さん増やそうって、商店街の話し合いで決まったのが、この『じゃぱん・和フェア』なんだ」
「具体的にはどういうことをするんですか?」
「来月の連休がお祭りだから、その前後を使ってフェアをする。お祭りは今まで通り、駅向こうの商店街メインで、こっちはそれぞれの店舗で和の素材を使うって感じ」
「和の素材……」
「えーとほら、斜め向かいの雑貨屋さん、なんて名前だったっけ」
「チョイチップスさんですか?」
 可愛いキッチュな雑貨を取り扱っているお店。店員さんが椅子カフェ堂のランチを食べに来てくれている。
「あそこは和雑貨を取り入れるって言ってたよ。手ぬぐいとか、財布? ほら、くるみちゃんが持ってたバッグの小さいバージョン」
「がま口のお財布ですね」
「それそれ。そんな感じで駅のこっち側の店も協力し合うことになったんだ。それで椅子カフェ堂なんだけど……」
 エスプレッソを飲み干した彼がこちらを見る。私もごくんと喉を鳴らして呼吸を整えた。

「俺は普段から和食作ってるからいいとして、くるみちゃんはどう? 和菓子に興味ある? 和菓子っていうか和スイーツっていうのかな。無理にとは言わないんだけどさ」
 和スイーツ!? その甘美な響きに目の前がぱっと明るくなった。
「……餡子、抹茶、黒蜜、きな粉に白玉団子。秋だから栗にかぼちゃ、さつま芋あんとか……」
 どどどどうしよう、楽しすぎる!! 自分で呟いた和の食材にうっとりしながら空を見ていると、職人さんが私の前に手をかざした。
「おーい、戻ってこい。またどっかの世界に入ってるぞ、こいつ」
「やります! 店長、ぜひやらせてください!!」
 永志さんの方を向いて叫んだ。こんなに素敵な事、やらないではいられないでしょおお!
「お、おう。だったら良かった。まぁ、くるみちゃんだったらそう言うとは思ったけどね」
「はい!」
「あとこれね。加盟店舗共通なんだ」
 永志さんが半分に折ってあるカードを広げた。四角いマス目が綺麗に並んでいる。
「スタンプカードですか?」
「うん。加盟店の三店舗を回れば商店街用の商品券がもらえることになってる。五百円分ね」
「三店舗ってすぐ回れちゃうじゃん。採算取れんの?」
 カードを奪って、ひらひらさせながら職人さんが言った。
「五店舗だと多くて回る気がなくなるだろうし、四だとあれだし、三店舗くらいなら回ってみるかって気になるじゃん? ってのが商店街の皆の意見。俺も賛成した」
「まぁ、言われてみればそうか」
 ほんっとに職人さんって、店長の言うことだけは素直に頷くんだよね。いつになったら私の意見も聞いてくれるようになるんだろ。十年以上はかかりそう。
 時計を見上げると午前九時を過ぎたところだった。これからカップケーキと生ケーキのデコをしてちょうどいい感じかな。あとの準備は出来てるし。

「くるみちゃん、その和スイーツのメニューは来月までに間に合いそう?」
「はい。でも餡子はちゃんとしたいので小豆の煮方から研究します。そこに少し時間が掛かるかも」
「その餡子なんだけどさ、商店街の、みもと屋ってわかる?」
「どら焼きを買ったことがあります。餡子とホイップバターが挟まってるんですよね〜。皮がモチモチしてて美味しいの」
「俺も好きだな、あそこのどら焼きは」
 職人さんが、うんうんと頷いた。
「そのみもと屋が、餡子を提供するから椅子カフェ堂とコラボしないかって提案してきたんだ」
「え!!」
 やってみる? と私の顔を覗き込んだ彼に、笑顔で頷いた。
「コラボなんて、すごく楽しそうです。みもと屋さんは、おじさんとおばさんお二人でお店をやってらっしゃるんですよね? いろいろ教えて欲しいな」
「いや、コラボのアイディアを出して来たのは、その息子らしいんだよ」
「息子? そんなのいたっけ? 永志知ってんの?」
 職人さんが身を乗り出してきた。有澤食堂からの付き合いだったら知ってるのかな。
「いや、息子がいるのは知ってたけど、会ったことはない。その息子が店に興味無いから跡継ぎがいない、ってみもと屋のおじさんが前に嘆いてたんだよな。だから急にどうしたんだろうと思ってさ」
「集まりにはいらしてないんですか?」
 私の問い掛けに、永志さんは首を横に振った。
「仕事が忙しいとかで、息子は集まりに来なかったんだ。せっかくだからどうだろうって、そこに来てた、みもと屋のおばさんが俺に言ってきたんだけど、どう? やってみる?」
「もちろんです。こんな機会は滅多にないので、ぜひ!」
「わかった。俺の方からみもと屋に返事しておくよ」
「よろしくお願いします」

 今日は皆時間に余裕があるのか、その場で何となくぼんやりしていた。気候が良くなってホールの居心地がいいから私も動きたくないな。職人さんは椅子の背もたれに思い切り寄り掛かり、仰け反ったまま起き上がらない。すぐ傍で頬杖をついてペーパーを眺めている永志さんに話しかけた。
「あの、店長は何が食べたいですか?」
「え、俺?」
「はい。和のスイーツ、どんなのが好きかなって」
 できれば彼の要望にも応えたい。好きな人の好きな物を作ること、ってすごく幸せだよね、なんて。
「俺は……」
「はい」
「くるみちゃんが作ったのなら何でも好きだよ」
「え」
「大好き」
 見上げると、彼は優しい表情で私を見つめていた。
 も、もう……またそんなこと言って。私も永志さんが作ったものなら何でも好き。っていうか、永志さんのこと、今すぐ抱きつきたいほど好き。
 微笑みあったあと、何となく恥ずかしくなってお互いに顔を逸らすと、大きな溜息が聴こえた。
「何見つめあって、もじもじしてんだよ。高校生かお前らは」
 起き上がった職人さんが私たち二人を見比べている。あ、また一瞬存在忘れてた。ごめん、職人さん。
「俺はプリンな」
「え」
「和風プリンを所望する」
 久しぶりにびしっと指をさされた。所望て……今日は殿様ですか。
「ていうか、最近職人さんのリクエストに応えて、かぼちゃプリン作ったばっかりじゃないですか。あれ人気あるからレギュラーメニューになりそうですし」
「せっかくだから抹茶プリン作れよ。和なんだからいいだろ」
「うん、まぁ……それもいいですよね。でも難しそう」
 うーんと唸っていると、永志さんが私の頭をぽんと撫でた。
「ゆっくり考えな。あと三週間あるから」
「はい。あの」
「ん?」
「店長が好きなもの何でも作りますから、いつでも言って下さいね」
「ありがとう。じゃあ思いついたらすぐ報告するよ」
「……待ってます」
 私の言葉に職人さんが舌打ちをした。
「すげえ差別な」
「気のせいです」
「永志、抹茶プリンて言えよ。永志が言えば何でも作るんだろ、くるみ」
「俺は別のがいいから却下」
 永志さんが笑って職人さんに言い返した。

「和っていえば、雑貨の中に少しだけ和の物も取り入れたら面白いかなって、前から思ってたんです。洋食にも対応できるようなシンプルで、できれば古道具屋さんにあるような和食器とか」
 それほど値段は張らなくて、椅子カフェ堂に置いてあるヴィンテージ雑貨に馴染むような古めの物がいいんだけど、それは難しいかな。
 贅沢な要望だよね。溜息を吐いた瞬間、永志さんが明るい声で私に言った。
「蚤の市に行ってみようか? 集まりの時に聞いたんだけど、来月一週間開催してるところがあるらしいんだよ。それだったら定休日に行けるし。良晴もどう?」
 彼の提案に職人さんは両手でバッテンを作った。
「俺はパス。永志と二人で行きたいって、誰かさんの顔に書いてあるし」
「え!」
 そんなこと顔に出して無いはず! そりゃ二人で行けるのは嬉しいけど、職人さんが一緒だって楽しいよ、絶対。
「俺は食えれば何でもいいから、器のことはお前ら二人で決めた方が早いんじゃないの。それにここんとこ家具作りの仕事がずっと入ってるから、多分その日もこっちで作業してるし」
「じゃあ、お土産買ってきます!」
「食いもんな」
 腕を組んだ職人さんに、今度は店長が身を乗り出した。
「その蚤の市、確か大きなお寺の境内で開催なんだ。傍に有名な団子屋があるはずだから、たくさん買ってきてやるよ」
「団子か! しょうゆに海苔巻いてあるのあったら買ってきて」
「わかった、わかった」
 職人さん嬉しそう。食べ物のことになると子どもみたいに目を輝かせちゃって、可愛いとこあるんだよね。

 永志さん、和スイーツ何がいいのかな。
 何でも好きって言ってくれた表情を思い出して胸がきゅんとした。彼が望むものだったら、どんなに大変な作業でも、難しいレシピでも、絶対に頑張れる自信はあるんだ。
 彼が淹れてくれたエスプレッソを口にしながら、三週間後の和フェアに向けて思いを馳せた。