十一月下旬の朝。
 住谷パンにバゲットを受け取りに行く。ドアを開けると、香ばしい匂いが私の空腹を刺激した。
「おはようございまーす!」
「おはよう、くるみちゃん。今用意するから、ちょっと待っててね」
 どうしよう。今さっきトマトをひとつかじったんだけど、全然足りない。迷った私は、奥へ引っ込もうとする住谷のおじさんを引き留めた。
「あっ、すみません! いつものバゲットの他にもう一本追加で……」
「ん? もしかして、くるみちゃんのお家用かな?」
 振り向いたおじさんが首をかしげた。
「えっと、はい。朝ごはん用にって思って」
「そうか、そうか。じゃあ有澤家にサービスで、レーズンパンもつけてあげよう」
「わぁ、ありがとうございます!」
 にこにこ笑った住谷のおじさんは、紙袋にざざっとレーズンパンを四つも入れてくれた。
 本当は……バゲットの追加は家の朝ごはん用じゃなくて、自分用なんだけど、恥ずかしいからごまかしてしまった。

 パンを受け取り、路地を曲がって石畳の道を歩いていく。
 空はどこまでも青く、今日もいい天気だ。深まる秋の冷たい空気を吸いこんだ私は、いったん立ち止まってバゲットの紙袋を見つめた。
「……ひと口だけ食べちゃおうかな」
 紙袋からいい香りが漂っている。焼きたてパンの温かさが、手のひら全体に伝わった。さっきから、お腹がぐうぐう鳴っている。
「ううん、やっぱりダメ。お客さんに見られたら信用問題にかかわるし、我慢我慢……うう」
「何をぶつぶつ言ってるの?」
「わっ」
 後ろから声をかけられ、慌てて振り向く。そこには、スーツ姿に眼鏡をかけた男性がいた。
「あ、古田さん! おはようございます」
「おはよう、くるみちゃん。住谷パンさんの帰りか」
「はい。古田さんは乾物屋さんに行かれるんですか?」
「花豆を頼もうと思って。久しぶりだね」
「本当ですね。お子さん、お元気ですか?」
 私の言葉を聞いて、古田さんがにっと笑った。
「見る?」
 差し出されたスマホの画面をのぞく。
 清楚な奥さんに抱っこされた赤ちゃんの画像が待ち受けになっていた。赤ちゃんは女の子で、どちらかというと古田さんに似ている。ほっぺがむちむちで、つぶらな瞳が可愛らしい。
「わぁ、カワイイ〜! 奥様もお元気そうですね」
「かわいいでしょー、奥さんも綺麗でしょー」
「綺麗ですね〜! 赤ちゃんは今、何か月でしたっけ?」
「三か月だよ。そろそろ首が座りそうなんだ」
「そうなんですか」
 顔を上げると、古田さんがしまりのない顔で笑っている。奥さんも赤ちゃんも、可愛くて可愛くて仕方がないといった感じだ。
「デレデレですね、古田さん」
「そりゃあ幸せいっぱいだからね。くるみちゃんも幸せなんでしょ?」
「はい! 幸せ、いっぱいです」
 それはよかった、とうなずいた古田さんはスマホをポケットにしまった。
「じゃあ、僕はこっちだから。あ」
「はい?」
「つまみ食いはダメだよ?」
「なっ、どっ、どうして」
 バレてた!? 恥ずかしさで一気に顔が熱くなる。
「ははっ、じゃあね〜」
 古田さんは笑って、乾物屋のある路地へ入っていった。
 相変わらず古田さんにはすぐにバレてしまう。私がうかつすぎるんだろうか? と思ったけれど、古田さんが鋭いのは前からだもんね。……ああ、恥ずかしい。

 椅子カフェ堂のドアを開ける。
「ただいまー」
 まだ開店前なのでベルはつけていない。ホール全体に、永志さんが準備している仕込みの香りが漂っていた。いい匂い。ますますお腹が鳴っちゃうよ。
「よし、ここならいいよね。少しだけ食べちゃおう」
 と、自分用のバゲットの袋を開けようとしたとき。
「だああっ、これもちがーう! 違うんだ!」
「っ!」
 厨房から叫び声が聞こえた。バゲットは一旦おいて、慌てて声のしたほうへ向かう。
「どうしても違うんですよっ! これじゃないんだ!」
「ガッキー落ち着けって」
 永志さんが手を休めずに、新垣くんへ声をかける。
 椅子カフェ堂の新メンバーである新垣くんは、最近毎朝こんな感じだ。
「新垣くん、大丈夫?」
「……大丈夫じゃないです」
 スイーツを作る奥のキッチンへ行くと、新垣くんはしょんぼりと肩を落とした。
 新垣くんが椅子カフェ堂にきてから、約半年。
 この間、彼は永志さんにイタリアン以外の料理を教えてもらい、すぐにマスターした。元々イタリアン料理は神がかって上手だったから、和食や洋食もその気になればなんてことはなかったみたいだ。
 そして彼は最近、私からレシピを教わってスイーツを作り始めている。そこまではいいんだけど、どうも納得がいかない出来らしくて、毎日こうして叫んでいるんだよね。
「えっと、とりあえず皆で食べてみようよ。それで意見を聞いて、また直せばいいよ。ね?」
「……はい、くるみさん」
 料理を作るのは自信満々なのに、スイーツのことになるとてんでダメらしい。
 こちらを心配そうに見ていた永志さんと視線を合わせ、ふたりで苦笑した。

「プリンとショートケーキ、カップケーキ三種とチーズケーキの試食、お願いします!!」
「お、おう」
 新垣くんの勢いに、職人さんも押され気味。
 ここのところ、開店前の試食の時間は新垣くんが作ったものばかりだ。私は少しサボり気味になっている。そろそろ新作のスイーツを考えないとなんだけど、なんとなく気乗りがしない。季節の変わり目のせい? こういうことは初めてで、自分でも戸惑っている。この調子が続くなら永志さんに相談してみようかな……
 みんなでいただきますをし、並んだケーキ類を食べ始めた。
 口に入れたプリンが、とろりと舌の上で溶ける。味も舌触りも完璧だ。カップケーキにのせたお花の形のマシュマロフォンダントも彼の手作り。食べてしまうのがもったいないくらいに可愛い。ショートケーキのスポンジも生クリームも絶妙だ。
 どれも丁寧に作ってあり、とても美味しかった。私が新垣くんにスイーツを教えてから、まだ日が浅いのに……相当努力した証拠なんだろう。
「うん、プリンはなかなかだな。ショートケーキもカップケーキもうまいんじゃね?」
「ああ。あとは……チーズケーキ、だな」
 もぐもぐと食べる職人さんの横で、永志さんが腕組みをした。
 なんだかいろいろと思い出しちゃう。私が椅子カフェ堂へきてから、なかなかチーズケーキに納得してもらえなかった時のことを。

 私の隣に座る新垣くんが、はぁ、とため息をついた。
「理論的に、このチーズケーキは完璧なはずなんですよ……! なのに、なぜかくるみさんが作るものとは全く違う! せっかくくるみさんにレシピを教わったというのに……!」
「私は十分おいしいと思うけど……」
「気休めはやめてください、くるみさん。あなたがいくら優しいからといって、それはダメです。僕を甘やかしてはいけません」
 言いながら、新垣くんは自分のチーズケーキを私に差し出した。
「いらないの?」
「店長にいいと言われるまで自分のは食べません。よかったらどうぞ」
「うん、じゃあもらうね」
 ありがたく受け取ることにする。
 本当に美味しいと思うんだけどな。でも永志さんがああ言うんじゃ、納得はできるわけがないか。
「おい、くるみ」
「なんですか、職人さん」
 フォークでこちらを指す職人さんに返事をする。
「なんでお前はチーズケーキとバゲットを同時に食ってるんだよ」
「食欲の秋です。美味しいものが止まらなくて」
「……ふーん。食欲の秋ねえ」
 今年は夏が過ぎてもいつまでも暑くて、体がバテ気味だった。ようやく涼しくなった途端に、食欲がモリモリ涌いてきて食欲も戻ったんだよね。もしかしたらそれが後を引いて、調子がよくないのかも。

「まぁ、くるみのより味は落ちるけど、まずくはねーよ? むしろ美味いほうだろ」
「職人さんらしくない慰めはよしてください」
「らしくないってなんだよ、ガッキー」
 まぁまぁと、二人の間に入った永志さんが言葉を続ける。
「なんとなくわかるけどね。くるみちゃんが作る物と違う理由」
「なんですか? 教えてください、有澤店長!」
 新垣くんは、すがるように永志さんに詰め寄る。
「愛かな」
「……愛?」
「お菓子に対する愛と、お客さんに対する愛と……俺に対する愛情、かな。くるみちゃんのお菓子が、いつもおいしいのは」
 優しい笑みで永志さんが私を見た。
「え、永志さん」
 あっという間に私の顔が熱くなる。私だって永志さんの愛をいつも感じてる。って言いたいけれど、みんなの前では恥ずかしいから、二人きりになるまでは黙っておこう。
「愛なら僕だって負けませんよ!」
「うおっ!」
 新垣くんが勢いよく立ち上がり、テーブルをバンと叩いた。職人さんは声を上げて残りのプリンを死守する。
「料理に対する愛! 特にイタリアンに対するアモーレならば誰にも負けません! なんですが……ドルチェだけは作れなかったんですよ、僕は。ティラミスもババもモンテビアンコも。ドルチェ職人に任せていたというのもありますが」
 ものすごい勢いに、私と永志さんはあっけに取られていた。
 でも、新垣くんは真剣なんだ。真剣に椅子カフェ堂で、料理もスイーツも作りたいと思ってくれている。
 その彼の気持ちに、私は素直に感動していた。
「ったく……永志にそっくりだな、ガッキーは」
「良晴、それどういう意味?」
 職人さんの呟きに永志さんが口を尖らせる。
「永志もお菓子作れないじゃん」
「あ、そうか」
 新垣くんは椅子に座って、永志さんが淹れたカプチーノを飲んだ。私もカプチーノに口をつける。いつも変わらず、最高に美味しいカプチーノだ。
「ガッキーは彼女いるの?」
 永志さんが唐突に質問する。
「なっ、今はそういうの関係ないじゃないですか!」
「いないのか、そうか」
「勝手に納得しないでください。……いないですけど」
 いそうに見えるのに、いないのが意外だった。でも彼の彼女になるのは、ちょっと大変そうな気はする。料理が恋人だとか、平気で言いそうな雰囲気だし。
「どういうのがタイプなんだ?」
 なぜか職人さんが身を乗り出して聞いている。
 新垣くんはメガネの真ん中を押さえ、私のほうを見た。
「僕の理想は……くるみさんのような女性です。いえ、くるみさんです」
「ええっ!!」
 ちょっ、なっ、えええ!? 思わずフォークを落としそうになる。
「おい……ガッキー。人妻に手を出したらどうなるか、わかってて言ってるんだよな?」
 永志さんが低い声を出した。
 どうしよう。彼がこういう声を出した日の夜は、たいてい……。とそこまで考えてぼわっと顔が熱くなる。永志さんが嫉妬すると、いろんな意味で怖い。そう、いろいろ……されちゃうんだから。
「手なんて出しませんよ。理想の女性と聞かれたから答えただけじゃないですか」
「本当だな?」
 念を押す永志さんに、新垣くんが何度もうなずいた。
 永志さんが怒らなくてよかった。ホッとした私は、新垣くんにもらったチーズケーキを食べ始めた。

「ああ、そうだ。来月、くるみちゃんと俺で食材巡りをしてこようと思ってるんだ」
 カプチーノを飲む永志さんが話し始める。
「食材巡り?」
「春に北海道に行く予定だったんだけど、忙しくて無理だったんだ。北海道はまた来年暖かい時期に行くとして、今回は九州に行こうかと思ってる」
 永志さんが海外へ修行に行ってしまうという噂を、私が本気にしてしまった時。実は、彼は私を連れて食材を知る旅に行こうとしていたのを知った。
 結局、忙しさからその予定は延び延びになっていたんだけど、クリスマス時期の忙しくなる前に行ってしまおうか、と盛り上がったのだ。
「へえ、いいじゃん。お土産にラーメン買ってきてくれよ」
 職人さんは新垣くんのプリンを奪い、食べながら返事をした。それにしても、職人さんていつもよくあんなに食べられるなぁと思う。たくさん食べるのにスタイルはいいんだよね。……羨ましい。
「ああ、わかった。それで、店は休みにするつもりなんだ。留守にしてもいいか?」
「いいだろ。たまには息抜きしてこいよ」
「ありがとうな。新垣くんもいい?」
 永志さんが確認をすると、新垣くんがぼそりと答えた。
「……もったいないですよ」
「もったいない?」
「僕がきてから客の回転がよくなったのに、今休むんですか?」
 永志さんが渋い顔をする。
 新垣くんの言う通りだと思うし、それを言われたら何も言い返せなくなってしまう。でも……無理にでも時間を作らないと、食材巡りの旅はいつまで経ってもできない。椅子カフェ堂のために新しいお料理や食材を知ることは大切だから、どうしても行きたい。
 私と永志さんが口ごもっていると、職人さんが言った。
「だったらお前がやれよ、ガッキー」
「は?」
「永志の代わりとくるみの代わり、できるだろ?」
「は、はああ!?」
「お前ならできる! いや、やれ! やるんだ!」
 職人さんは狼狽する新垣くんを、びしっと指さした。
「や、やれったって、じゃあホールはどうするんですか。職人さん忙しいんですよね?」
「あー……まぁそうだな。ホールもお前がやれ」
「できるわけないじゃないですか。なんでもかんでも僕に押しつけないでくださいよ、もう」
 私が椅子カフェ堂へくる前は、永志さんがほとんど一人でやっていたらしいけど、今の椅子カフェ堂でそれは無理だよね。
「大変だから休みにするよ。それでいいだろ?」
「いえ、やります。やらせてください、やってみせます……!」
 ため息交じりに永志さんが言うと、新垣くんが拳を掲げた。
「意外と負けず嫌いだよね、新垣くん」
「くるみさんも、ですよね?」
「う、まぁ、そうかな」
 ニヤッと笑った新垣くんに言われてしまった。
 確かに、負けず嫌いじゃなければ、ここにこうしていなかったかもしれない。今更だけど自覚してしまった。
「とにかく言い出しっぺは職人さんなんですから、レジくらいは手伝ってくださいよ」
 今度は新垣くんが職人さんを指さす。
「へいへい。ごちそうさん」
 面倒そうに答える職人さんが立ち上がった。お皿の上はきれいさっぱり、すべて平らげている。職人さんは味に正直だ。彼がこれだけ美味しいと思ってくれるのなら、きっと大丈夫だよね。
「俺も、ごちそうさま。うまかったよ、ありがとうな」
 永志さんも残さず全部食べている。彼もまた味には相当うるさいので、この状況は喜ばしい。
「いえ、こちらこそありがとうございました。まだ直しますので、明日からまたよろしくお願いします!」
「おう、いつでもかかってこい」
 永志さんが笑った。
 厳しいけど優しい。そんな旦那様が大好き……なんて口にしそうになるのを我慢する。いけないいけない、これから仕事なんだから。ニヤけている場合じゃない。
 私は残りのチーズケーキを口に入れ、まったりとした口どけを楽しんだ。

 その日の夜。閉店間際のことだった。
 表の立て看板を店内に片付けようとしていると、後ろから声をかけられた。
「こんばんは」
「こんば……あっ!」
 ショートカットの女性が柔らかな笑顔で立っている。
「小川さん!?」
「お久しぶりです」
 その人は海外へ留学中の職人さんの彼女、小川さんだった。