「新垣くーん! 待って!」
 声を掛けても彼は止まってくれない。絶対聞こえてるはずなのに。しょうがない、こうなったら私も永志さんの真似をしてやる。
「ガッキー!!」
 新垣くんの肩がびくりと動いて、足が止まった。彼の隣に駆け寄る。
「……しつこいですね」
「うん、よく言われる」
「よく言われるて」
 鼻で笑われたけれど、これだけは言わなくちゃいけない。
「さっきの話の続きなの。新垣くんは次までのつなぎとして椅子カフェ堂を選んだ。いいところがあればすぐに出て行く。『だから』私たちとは関わろうとしないの?」
「仲良くしたって時間の無駄じゃないですか」
「そう、かな」
 新垣くんが永志さんに言い掛けてた「だから」は、そういう意味だったんだ。

 一度も私の顔を見ずにため息を吐いた新垣くんは、再び歩き始めた。
「あ、もしかして……前の職場でいじめられたの?」
「別にいじめられてはいませんよ。結構失礼なこと言いますね、くるみさん」
 速足の彼に合わせて、小走りしながら訴える。そういうことを言いたいんじゃなかった。
「たくさん頑張ったんでしょ? それを四年も続けたなんてすごいと思うよ」
「誰でもやればできます。でも実力が伴わないなら意味がない。一生懸命やればとか、努力すれば叶うとか……そういうの必死になってやっても、どうせ黒歴史になるだけだとよくわかりました」
「だけど、努力しなければ夢に近づくことことすらできない、と思う」
「……」
「なんて偉そうなこと言っておいて、私も新垣くんと同じなんだけどね」
「? どういうことですか」
「お菓子作りを仕事にしたくても、そういうのは才能がある人だけだって最初から諦めてた。再就職先を探してて、偶然見つけた椅子カフェ堂を、次の就職先が見つかるまでのつなぎにしようとしてた」
 あの時、永志さんが声をかけてくれなかったら、私の人生はどうなっていただろう。
「面接で店長がお店をもっと変えて行きたいって、初対面の私相手に真剣に話してくれて、私も椅子カフェ堂と一緒に変わりたいと思ったんだ」
「椅子カフェ堂と一緒に……変わる」
 黙っていた新垣くんがぽつりと言った。
 石畳の通りは前に比べて遅くまで営業しているお店が増えたように思う。会社帰りのサラリーマンやOLが、オシャレなバーや昔ながらの居酒屋に立ち寄っている。
「そう。きっと店長もそういう意味で新垣くんに言ったんだと思うよ。椅子カフェ堂で自信をつければいいって」
「変われたんですか、くるみさんは」
「え」
「そうやって決めて、変わることができたんですか」
 立ち止まった新垣くんが、私を真っ直ぐに見た。その視線を受けて緊張が走る。ここでごまかしたり、恥ずかしがったりせず、きちんと応えたほうがいい。
「多分。変われたと思う」
「……そうですか」
 いつの間にか駅前に着いていた。新垣くんが踵を返して、もときた方へ歩き出す。
「ど、どうしたの? 忘れ物?」
「もう夜遅いですから、店まで送ります」
「え」
 意外な言葉に驚く。心配してくれるんだ。
「ありがとう、でも大丈夫なの。店長が迎えにきてくれるから」
「そうなんですか。残念だな」
「?」
 意味を聞く前に、再び改札の方へ向き直った彼が歩き出した。その背中に向けて言葉を投げる。
「待ってるから、明後日」
「……」
「皆で新垣くんがくるのを、待ってるからね」
「お疲れ様でした」
 顔だけこちらへ向けて挨拶をした彼は、振り向くことなく改札を通過していった。


+


 翌々日。
 梅雨の晴れ間がのぞく、気持ちの良い朝だ。椅子カフェ堂の外を箒で掃いていると、後ろから声を掛けられた。
「おはようございます」
「あ、えっ、新垣くん! お、おはよう!」
 新垣くんは何事もなかったかのように椅子カフェ堂の扉を開けた。事務所ではなく真っ先に永志さんのいる厨房へ向かっている。私も慌てて新垣くんのあとをついて行く。私が余計なことを言ったせいで、辞めると言い出したらどうしよう。
「店長、おはようございます」
「ああ、おはよう」
「一昨日は失礼なことを言って、すみませんでした。できればこのままここで働かせてください。お願いします」
 心配する私をよそに、新垣くんは永志さんに深々とお辞儀をした。
「俺は最初からそのつもりだよ。これから頼りにしてるからな、ガッキー」
 永志さんの明るい声が厨房に響く。後ろからこっそり覗いていた私も、思わず笑顔になった。
「あの、店長」
「んー?」
「……『ガッキー』で決定なんですか」
 不満げな新垣くんの声が届いた。気に入らないのかな、その呼び名。
「ああ、良晴が呼んでて、それいいなーと俺も思ったから。まぁそれは置いといて、今日の帰りは残って一緒にメシ食えるか? 今夜は居酒屋あったっけ?」
「居酒屋は週二まで減らしてもらいました。もともとは僕がやりたい方向が決まるまでという約束だったんです。向こうは人手がありますし、僕は椅子カフェ堂で今よりも多めに入らせてもらえればと思います」
「そうか、それはありがたいな。がっつり入ってもらうから、そのつもりでいろよ?」
「はい、任せてください。では着替えて来ます」
 新垣くんは私の前を通って、事務所に行ってしまった。
 一件落着、かな? ホッと胸を撫でおろして、永志さんの顔を見る。彼もまた、安心したような笑顔を私に向けてくれた。

 閉店後、ようやく四人で顔を合わせて食事をすることになった。
 永志さんがテーブルに大皿を乗せていく。まぐろのレアカツ、大根と胡瓜と水菜のピリ辛和え、茄子のオランダ煮、土鍋で炊いた鯛飯とお漬物。
 ビールで乾杯をして、皆で味わう。どれもこれも、本当に美味しい。新垣くんもすごいけど、やっぱり私は永志さんの作る料理が一番美味しく感じる。愛する旦那様が作った料理だからかな?
 職人さんと新垣くん、その向かいに私と永志さんが座っている。職人さんと新垣くんは無言でお酒を飲んでるけど……まぁ大丈夫かな。どうせ職人さんはそのうち酔っぱらってくるだろうし、新垣くんも今日は最後まで付き合うって言ってるし。うん、大丈夫。
「新垣くんが調理場に入ってくれれば、メニューが増えるだろうな〜。客の回転もよくなるだろうし」
「ねえ、永志さん!!」
「うお、どうした」
 思わず叫んでしまった。
 椅子カフェ堂に新メンバーが入ったら、と妄想していたことが今こそ叶う!
「私、前からやってみたいことがあったんです。でもそこまでは人手が足りないと思って、提案しなかったんですけど、新垣くんがいてくれるなら大丈夫かなって」
「いいよ、言ってみて」
 永志さんの顔を見て頷いた私は、ポケットからスマホを取り出した。
「外にもテーブルと椅子を置いて、フレンチカフェ風なのをやってみませんか?」
「外? って、どの辺?」
「正面の窓際です。梅雨とか真夏、真冬は無理だと思うんですけど、気候がいいときはとても気持ちがいいんです。お店の宣伝にもなるし、席数も増やせるし、この辺りが賑わってる感じにもなっていいかなって。……えっと、こういうのです」
 スマホで画像検索をすると、外国の素敵なカフェがたくさん出てきた。窓や壁にぴったりテーブルと椅子が寄り添っている。コーヒーを飲みながら雑誌を読んだり、楽しそうに談笑している画像だ。
「いいな、これ! 良晴の家具の宣伝にもなるんじゃない?」
「そうなんです! 椅子カフェ堂の外には小さめの丸テーブルがふたつぐらいしか置けないですけど、でも印象が全然変わって見えるから」
 永志さん弾む声に釣られて、私も声が大きくなってしまう。
「それなら窓の上のところに……何て言うんだ、大きな庇みたいなの張るか。そうすれば多少の雨も日差しも防げるんじゃない?」
「それいいです! 私、赤か青がいいなぁ。白抜きで『椅子カフェ堂』って入れるの」
 椅子カフェ堂の外観を想像した。これはいい……! 絶対に実現させたい!
「あ、そうだ職人さん!」
「わかってるよ、ガーデン用の椅子とテーブルを作りゃいいんだろ」
「できれば……折り畳みとかできます? あ、難しいですよね」
「俺様にできないことはない」
「本当に!? やったー! ありがとうございます!!」
 やれやれと言った感じで、職人さんが日本酒を飲む。って、いつの間に日本酒!?
「あの、新垣くんも協力してもらえる? 片づけとかサーブとか、いちいち外に出ないとならないけど……」
「くるみさんがやりたいなら、協力します」
「よかった、ありがとう!」
「なんだ? くるみにだけ、やけに素直だな」
 ツッコむ職人さんに、新垣くんがすまし顔で言った。
「くるみさんの意見に感動しました。くるみさんの指示には何でも従います」
「へえ。どんな素晴らしいこと言ったんだよ、くるみ」
「えっ! べ、別にそんな」
 どうしちゃったんだろう、急に。彼を引き留めた時のことだよね? 本当にたいしたことは言ってないんだけれども。
「ふーん。くるみちゃんの指示には何でもっていうのが引っかかるんだけど。俺の奥さんなんだからな、ガッキー」
「人妻には手を出したりしませんから、ご安心を。でも」
「でも? 何だよ『でも』って」
 永志さんが身を乗り出した。職人さんは横でニヤニヤ笑っている。ど、どうすればいいのこの空気。
「くるみさんは魅力的ですよね。店長がくるみさんを奥さんに選んだのもわかる気がします。そのうち椅子カフェ堂を辞めるって思ってましたけど、気が変わりました」
「なっ、そ、それどういう意味だよ」
「別にどういう意味でもないですよ。仕事はきっちりやらせていただきます。あ、でも僕イタリアンしか作れないんで」
「えっ!!」
 思わず永志さんと一緒に声を上げてしまった。あんなに上手に作れるのに、イタリアンだけ!?
「居酒屋では? 和風は作るだろ?」
「僕の担当はイタリアン系の創作料理でした。和食も洋食も無理です。オムライスもカレーも煮物も作ったことはありません」
「本当かよ!? 面接でそんなこと言ってたっけ?」
「聞かれなかったので言ってません。ですので店長、これから色々教えてください。よろしくお願いします」
「うん、まぁそれは全然いいんだけど、でもガッキーはくるみちゃ」
「おい、ガッキー」
 永志さんの言葉を職人さんが遮った。今夜はそれほど飲んでないみたい……でもないか。
「……何ですか『職人さん』」
「お前はプリンとシュークリーム、どっちが好きだ」
「は?」
「いいから答えろ」
「まぁシュークリーム、ですかね」
「よし。まかないのデザートでプリンが出たら、ガッキーのプリンは俺のものな」
「はぁ!?」
 出た、職人さんの俺様攻撃。今日の矛先は私じゃなくて新垣くんなのね。
「かといってシュークリームが出た時に、それをお前にやると思ったら大間違いだ。世の中そんなに甘くない。俺は自分の分は自分でちゃんと食う。いいか? わかったか!」
「ちょっ、どうしてそうなるんですか。俺もプリン食いたいですよ!」
 何だかんだ言って、この二人はこれから上手くいきそうな気がする。
 それにしても永志さんの視線が怖い。ずーっと新垣くんのこと睨んじゃってる。とりあえずこの場は逃げておこう。
 私は一人厨房に行き、スイーツの提案の準備を始めた。

「オレンジレモンゼリー改訂版です! よろしくお願いします」
 職人さんと新垣くんの前にグラスを差し出す。ぷるぷるとゼリーが揺れた。
「おっ、美味そうじゃん」
「クラッシュゼリーっぽくしたのか。オレンジの実がごろごろ入ってるのもいいね。薄い銀杏切りのレモンが上に数枚乗ってるのもいい」
「でも、手間がすごくかかっちゃうから、一日十個限定でお盆前くらいまでしかできないの。新垣くんも食べて意見聞かせてね」
 はい、と頷いた新垣くんの横から、職人さんの手が伸びる。
「おいガッキー、お前のくれよ」
「は? これはプリンじゃないじゃないですか」
「似たようなもんだろ、寄越せ」
「嫌ですってば、酒癖の悪い人だなー!」
「何をう!?」
 この二人は放っておくことにして、私は自分のゼリーを持って永志さんの横に座った。永志さんが私の顔を覗き込む。
「あのー、くるみちゃん。俺の分は?」
「ありません」
「えっ!!」
「永志さんのはこれ、です」
「いやそれはくるみちゃんのだろ?」
「これを私が食べさせてあげるの。はい、あーん」
 ゼリーとオレンジの実をスプーンですくって、彼の前に差し出した。う、他の二人の視線が痛い。
「ど、どうしたんだよ、くるみちゃん。皆の前でそんな……もらうけどさ」
 戸惑いながらも、永志さんがスプーンに口をつけた。スプーンから彼の感触が伝わる。
「美味しい?」
「ああ、最高! 限定でもいいからメニューに加えよう、お疲れさま」
「やったぁ!」
 ギリギリ夏前に間に合ってよかった! 安堵しながら、新垣くんに視線を向ける。
「ということで、新垣くん」
「はい」
「こ、この通り、私は永志さん一筋なので……!」
 それをわかってもらうために、いちゃいちゃしてみせたんだから。
 もう一度ゼリーをたくさんすくって、永志さんの口へ再び無理やり突っ込んだ。むぐぐ、と永志さんが苦しそうに呻いた。
「ああ、やだなぁ、そんなこと十分わかってますよ。そこをどうにかしようとするのが、楽しいんじゃないですか」
「えっ!!」
「ははっ、冗談ですよ」
 新垣くんが笑った……! ってそうじゃなくて、今のは一体。
 水もらいますね、と言って新垣くんは厨房へ向かった。
「冗談に聞こえねーなーアレは。あ、永志がヤバイ」
 職人さん、煽らないでってば! そう思ったと同時に、テーブルの下で永志さんに手を握られた。その力強さに驚いて、胸がどきんと鳴る。
「くるみちゃん」
「は、はい」
 肩を縮めていると、近づいた彼が耳元でそっと囁いた。
「今夜は寝かさないからそのつもりで」
「!!」
 そう言えば古田さんが私にハグした時も、永志さん、自分で嫉妬深いからって言ってて、それで……。当時を思い出して顔中が熱くなる。ということは今夜もなの?
 恐る恐る彼の顔色を窺うと、拒むのはナシと言わんばかりに、唇へチュッとキスをされてしまった。それを見ていた職人さんが大笑いしている。戻ってきた新垣さんは何が起きたんだと、真面目な顔で質問してきた。

 ため息を吐いて天井を見上げると、ほんわかした灯りが私たちを照らしている。
 それは新しく変わっていく椅子カフェ堂を歓迎してくれるかのような、優しく温かい色だった。




次話はこのすぐあと、くるみと永志のいちゃラブ話です。