つやつやとしたトマトの冷製パスタとコクのありそうなカニクリームパスタ。二種のパスタがそれぞれ食べやすいように纏められ、一緒にサラダが載るワンプレート。パセリの散ったヴィシソワーズは、よく冷やされたスープカップに並々と注がれている。

 昨日「カフェどころ」が発売された途端、早速今日の予約が五件も入った。この反響はすごい。一日中忙しくなりそうだから今の内にと、開店前に店長が多めのまかないを作ってくれた。
 今日は暑いから、このメニューが涼しげに見える。まかないとは思えない程、本当に美味しそうなんだけど……。
 事務所でワンプレートを前に黙っていると、正面に座る職人さんがパスタを口に入れながら言った。
「せっかく永志が作ったんだから食えよ、お前は」
「はい。でも……緊張しちゃって」
 店長は厨房で準備を進めながら、このまかないを食べているはず。今、どんな顔してるのかな。
 今日は永志さんのお父さんが閉店後、お店に来る予定になっていた。忙しいお父さんにようやく連絡が取れ、約束を取り付けることができたと永志さんは言っていた。
「職人さんはいつも通りですね」
 椅子カフェ堂の運命を握る今日の日が怖くて、昨夜は良く眠れなかった。
「俺らが悩んだってしょうがないだろ」
「それはそうなんですけど」
 フォークを持ち上げたけど、どうしても手が止まってしまう。
「あいつのこと信じてやれないんだったら、今すぐここ辞めて、永志の傍にくっついてるだけのバカ女にでもなれば」
「え」
「お前はそういう奴じゃないんだろ? 一緒に椅子カフェ堂の為に今まで頑張ってきた仲間、って俺は思ってるけど」
 パスタをフォークで丸めながら、職人さんが睨むように私を見た。
 確かにそうだ。彼のことを好き、というだけじゃなくて、私は仕事のパートナーでもあるんだ。もちろん職人さんも同じ。私たちがこの先を疑っていたら、ここまで頑張って来た彼の妨げになるだけだよね。
「……信じます。店長のこと」
「それでいいんだよ。余計な事は考えるな」
「私、心配ばかりが先に立って大切なことを忘れるところでした。ありがとうございます、職人さん」
 頷いた職人さんが、私のお皿を指差した。
「じゃあそういうことで、それちょうだい」
「駄目です。ていうか、職人さんのは店長に大盛りにしてもらってたじゃないですか」
「じゃあデザートくれよ」
「今日はお店の分しかありませんよー」
「けち」
 舌打ちをした職人さんは、なんかないかなーと冷蔵庫へ向かった。

 窓際の雑貨置き場に「カフェどころ」を載せ、説明書きのメモも付けて、来店したお客さんの誰もが見られるようにした。
 雑誌の効果は前回のna-nohaの比ではなく、料理もスイーツも予約以外は売り切れ続出で、目が回る様な一日だった。特に雑誌にも載せた新作のオムライスが好評で、ふわっふわの卵を見たお客さんから何度も感嘆の声が上がった。

「すごかったな。……八十組だってよ」
 お店の立て看板を中に入れた私に、レジを締めていた職人さんが、ぐったりとした口調で言った。
「しばらくは続きますよね。嬉しい悲鳴ですけど」
「今日はまだ、これで終わりじゃないけどな」
「……ですね」
 時計を見ると八時過ぎ。そろそろかな、と緊張した時、からりんとドアのベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
 久しぶりに現れたその人は、私の顔を見て以前と同じような笑みを見せた。
「ああ、こんばんは。まだここで働いていたんだね」
「はい。お世話になっています。だから」
 テーブル席に案内する。職人さんが永志さんを呼びに行った。
「……だから?」
 椅子に座ったお父さんが私を見上げた。目を逸らしちゃ駄目。両手を合わせてお腹の前でぎゅっと握った。
「だから、ここがなくなってしまうのは困るんです。大好きな椅子カフェ堂が、なくなってしまうのは」
 お願いだから、ここを取り上げないで。
「それは永志の出方次第なんだよ、お嬢さん」

 永志さんが厨房から出てきて、テーブルにお水を置いた。
「何もいらん」
「よろしくお願いします」
 厳しい表情でいるお父さんの正面に座った永志さんは、テーブルの上に「カフェどころ」を載せて差し出した。彼が頭を下げると、お父さんは無言で雑誌を手にした。表紙を捲り、一ページずつ丁寧に目を通していく。
 心臓が痛いくらいにドキドキと嫌な音を立てていた。隣に立っている職人さんからも緊張が伝わってくる。
 椅子カフェ堂の掲載されたページを全て見終わったお父さんは、静かに雑誌を閉じた。
「駄目だな」
「!」
「こんなもんじゃ弓子は納得しないだろう」
 腕組みをしたお父さんに、永志さんが身を乗り出した。
「弓子さんが納得しなくても、親父がこれ以上何と言おうと、条件はクリアしたんだ。ここは続けさせてもらう」
 弓子さんって、お父さんの再婚相手かな。永志さんと歳が近いと話していた、彼のお義母さん、だよね。
「カフェ・マーガレテに行ったよ。そこにいる彼女と一緒に」
 彼に言われたお父さんが私をちらりと見た。全身に緊張が走る。
「それで?」
「カフェ・マーガレテは失敗だ。親父はカフェのことを何も理解していないというのが、実際食べてみてよくわかったよ。俺がファミレス展開させたら失敗するだろうけど、カフェの経営では負けない。そう思えるようになった」
「……どういうことだ?」
「これ、カフェ・マーガレテが出来てから昨日までのうちの売り上げ」
 永志さんがカフェエプロンからデータをプリントした紙を取り出すと、お父さんはそれを受け取り、真剣に目を向けた。
「最初の二か月はひどいもんだったよ。客全部カフェ・マーガレテに取られたんじゃないかっていうくらい、客足も売り上げも落ち込んだ。でもその後、とにかく今まで通りに味を落とさず、新作は彼女と一緒に考えて地道に続けたんだ。結果、客足は減る前よりもずっと増えてる。昨日雑誌が出た途端、予約が一気に入った。これはしばらく続くと思うよ」
 私と職人さんは永志さんの背中から少し離れたところに立っている。その表情は全く見えないのに、彼のお店に対する真摯な思いと自信からくる余裕のようなものが、ここまで感じられた。
 ふん、と鼻を鳴らした永志さんのお父さんは、続けて大声で笑った。
「お前の言う通りだ永志。カフェ・マーガレテは今月いっぱいで閉店することが決まった」
「え!」
「クレームが何件も入った。お前の店の真似をするな、だと。まぁ、こちらにカフェのノウハウが浸透しきれずに、結局ファミレスと同じになっていたのが一番の原因だがな。お前の所とは反対に売り上げは落ちていく一方だった」
 雑誌をもう一度手にしたお父さんは、パラパラとページを捲った。
「お前が音を上げてさっさと諦めるのを期待していたが、どうやら本気らしい。……そうだな?」
「見てればわかるだろ」
「弓子を説得させるのには骨が折れそうだが、約束は約束だな」
 永志さんのお父さんは大きな溜息を吐いてから、彼を真っ直ぐ見据えた。
「私は椅子カフェ堂から、今後一切手を引く。カフェ・マーガレテは一号店のみで今後の展開はない。その代わり、ここがどうなろうと、お前には絶対に俺の会社は継がせん。いいな?」
「もちろん、それでお願いします」
「後悔しても知らんからな」
「後悔はしないよ。……ありがとう」
 永志さんはテーブルに額がつきそうなくらいに頭を下げて、お父さんにお礼を言った。立ち上がったお父さんは彼の姿を横目に私たちの方へ歩いてくる。
「お邪魔したね」
「あの、また食べに来て下さい。チーズケーキ」
「ありがとう。永志をよろしくな」
 目配せをしたお父さんが私の肩を優しく叩いた。
「え……」
「完全に負けたよ」
 微笑んだ顔が、少しだけ永志さんに似ている。

 からりんとドアのベルが鳴って、彼のお父さんの姿は夜の街に消えて行った。振り返って後ろに立っていた彼の顔を見上げる。
「永志さん」
「ありがとう。くるみちゃんのお陰だよ。ありがとう……!」
 永志さんは私の腕を掴んで自分に引き寄せ、抱き締めた。
「良かったです、本当に。椅子カフェ堂がなくならないで、本当に……」
 駄目だ、涙が止まらないよ。震えている私の髪を彼の大きな手が撫でてくれた。涙を拭っていると職人さんが彼の後ろの方から言った。
「あのな、俺の存在全く無視してどうなのそれ」
「良晴も、こっち来いよ」
「はあ?」
「早く!」
 永志さんに手招きをされた職人さんが渋々彼の隣に来る。永志さんは私を左手で抱き締めたまま、職人さんの首に右腕を回した。
「ありがとな良晴! ほんとに皆、ありがとう!!」
「痛い、痛い、永志痛いって! 絞めんな、おい」
「椅子カフェ堂、やったぞー!!」
 私たちから手を離した永志さんは両手でガッツポーズをして叫んだ。喜ぶその姿にまた胸が熱くなる。
「なぁ、弓子ってお前の母親?」
 首の後ろを擦りながら職人さんが問いかけた。
「そう。あの親父が尻に敷かれてる相手だよ。明日あたり大変だろうな〜」
「ま、何にしても良かったな、永志」
「おう、ありがとな! ……くるみちゃん!」
 満面の笑みで彼が振り返った。ど、どうしたんだろう。
「それっ!」
「きゃ!」
 突然私を抱き上げた彼が頬にキスをした。顔を見合わせて微笑みあう。……こんなに幸せでいいの?
「今日は朝まで飲もうぜーー! な? 良晴、くるみちゃん!」
「よし! じゃあ俺、酒買ってくるわ!」
 職人さんが目を輝かせると、永志さんが首を横に振った。
「たくさん買ってあるって。上にあるから持ってくる。つか、上で飲むか?」
「そうしようぜ。もういいじゃん、明日の朝ここからまた出勤すれば。どうせ早いんだろ?」
「くるみちゃん、それでいい?」
「もちろんです!」

 椅子カフェ堂を守ることが出来た。
 ここがなくなってしまう心配は、もうないんだ……!
 今までのことを思い出しながら、この先何が起きようが、皆で力を合わせて乗り越えていけると確信できた。