新作フェアのおかげか、少しだけ客足が戻って来た。
 でも、まだまだなんだよね。あのリニューアル当初のインパクトは、なくなってしまったのかな。店長が言うように、雑誌か何かに載らないと、これ以上は望めないのかもしれない……。
 駅を出ると秋晴れの高い空。鳥が鳴きながら気持ちよさそうに飛んでいる。駅へ向かう人の流れとは逆方向に歩き、石畳を通って、椅子カフェ堂に向かった。

 ベルの外された扉を、そっと開ける。薄暗いホールに、ロールスクリーン越しに朝の柔らかい日差しが入り込んでいる。一歩入ると、仕込みの良い香りがホールに充満していた。この瞬間が大好き。
 厨房にもホールにも店長はいなかった。事務所のドアを開ける。椅子に座った職人さんが新聞を広げていた。
「おはようございます。職人さん、今日は早いですね」
「涼しいから活動時間が長くなった。暑いと動けないの俺。今は休憩中だけどな」
 スイーツの種類にプチカップケーキが増え、準備時間が前よりもずっと必要になったため、私は出勤時間を早くにさせてもらっていた。チーズケーキは前日に作っておいて一晩寝かせたもの。カップケーキは朝一番に焼いて、生クリーム作りや飾り付けに時間を費やした。大変だけど、もう一種類くらい生ケーキを増やせないかな。
「あの、店長はどこに?」
「なんか市場に買い出し行ったよ。だいぶ前に行ったから、そろそろ戻るんじゃね。それよりお前さ」
「はい?」
 職人さんは新聞を畳んで、ばさっと机に載せた。な、何?
「プリン作ってくれよー。お前、俺が何回言っても、きいてくれないのな。尊敬してるとか言いながらさー」
「ふ、作ってきましたよ」
「マジ!?」
 ふふーんだ。グッドタイミングってこういうことを言うんだよね? 前から職人さんに食べたいと言われてて、昨日は少し時間があったから家で作ってみたんだ。
「ネットで蓋付の瓶が売ってたんです。可愛いから買ってこれに詰めちゃった。どうぞ」
 保冷バッグから瓶に詰まったプリンを取り出す。職人さんは嬉しそうに受け取り、渡したスプーンで掬って口に入れた。
「うめーじゃん! お前が今まで作ってきた中で、最高の出来だな」
「ほ、ほんと!? 卵にこだわったんですよ〜!」
「おう。これだけは認めてやるよ」
 職人さんは幸せそうに、ふたくちめを口に入れた。それにしても美味しそうに食べるなぁ。
「これ店に出せば売れるんじゃん? 俺が客に勧めてやるよ」
「そ、それ冗談じゃないですよね? 本気で言ってるんですよね?」
「プリンに関して嘘は言わない。あとで永志に相談してみ?」
「はい!」
 やっと職人さんに認めてもらった! 嬉しくて顔がにやにやしちゃう。
 ふと、食べていた職人さんが手を止め、顔を上げた。何だろう?
「何してんの永志。お帰りー」
「お、おう。ただいま」
 その声に胸がきゅんと反応してしまう。びっくりした。いつの間に店長いたんだろう。私、ドア開けっ放しだったのかな。振り向いて挨拶をする。
「おはようございます。お帰りなさい」
「うん、おはよ」
 何となく、声のトーンがいつもと違う感じ。疲れてるのかな。店長は職人さんに視線を戻して言った。
「それプリン?」
「そう。くるみが、ようやく作ってきた。すげー美味いぞ、これ」
「良かったじゃん。食べたがってたもんな」
 保冷バッグからもうひとつ取り出す。
「店長の分もあるので、良かったらどうぞ」
「あー、うん。今はいいや、ごめん」
 あれ……。喜んでくれると思ったのに。自分のペットボトルを事務所の冷蔵庫に入れた店長は、そのあと何も言わずに、お店へ行ってしまった。
「店長、なんか機嫌が悪いみたい」
「そうかー? いつもと変わんないだろ。それより永志の分もらっていい?」
「だめです。私の分あげますってば」


 やっぱり、今日の店長は変だ。
 職人さんみたいな変じゃなくて、急によそよそしくなった気がする。
「さつまいもとかぼちゃのコロッケ、セット出るよー。あと塩漬けきのこのパスタも」
「はい! あとオーダー入ります。カプチーノふたつと、カフェオレふたつ。プチカップケーキと一緒に出ます」
「はいよー」
 ……わかった。どうして今日、店長を変だと感じたのか。
 目が、合わない。オーダーが来ても、料理を受け取っても、アイコンタクトがない。
 返事はしてくれるけど、私と無駄に話してはくれない。それにあんまり笑ってないような気がする。
 どうしちゃったんだろう。私、何かまずいことしたのかな? 私の気付かないところで、とんでもないことやらかしちゃった?
「店長、あの」
「ごめん、その分だけ洗い物お願いしていい? 手が空かなくてさ。出来た料理は俺が運ぶから」
「あ、はい」
 やっぱりだ。こっち見ない。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう。そんな言葉が頭の中をぐるぐる回ってる。

 夕方、職人さんは仕入れがあるからと、早目に上がってしまった。
 店長と二人っきりで気まずいかと思ったけれど、その後途切れずにお客さんが入ったおかげで、それほど気にせず済んだ。
 時計を見るとラストオーダーの時間を過ぎている。ホールにお客さんはもういない。外に出て、立て看板をドア横に移動させていると、ふらりと男の人が現れ、私の後ろを通って店に入って行った。慌てて追いかける。
「いらっしゃいませ」
 ふらふらと覚束ない足取りのお客さんは、壁際の席に、どかっと座った。お水を差し出し、メニューを届ける。
「すみません。ラストオーダーの時間を過ぎておりまして、お食事以外のご提供となるのですが、よろしいでしょうか?」
「おねーちゃん、可愛いねえ」
 赤ら顔をしたおじさんが、にやっと笑った。なんかこの人、お酒臭い。返答に困って愛想笑いをしていると、手首を強く掴まれた。
「何時に終わるの? もう終わる? 一緒に帰ろうか」
「ちょ、離して下さい」
 やだ、すごく気持ち悪い。どうしよう。店長は厨房にいて片付けをしているから、多分こっちに気付いていない。
「おじさん家まで送ってあげるから。ね?」
 腕を引っ張られて体ごと近付いてしまい、背筋がぞっとした。もう無理。ひっぱたいちゃっていいよねっ!
「やめてください!」
「な! あだだだだ!!」
 おじさんが顔を歪めた。え、まだ殴ってないんですけど。私の掴まれていた手首が解放された。
「お客様、うちの大事な従業員に何の御用ですか」
「店長!」
 私のすぐ後ろに来た店長が、おじさんの腕を掴んでいる。捻っているのか、おじさんは痛そうに唸ったあと店長に向かって叫んだ。
「俺を誰だと思ってんだ、若造ー!! 放せ、この!!」
 大きな声に肩がびくっとなってしまう。やっぱり怖いよ、こういうの。
「裏行ってな。大丈夫だから」
 店長が私に囁いた。全然動じてない様子だけど、でも店長に何かあったら困るよ……!
「警察呼びます」
「事務所に行って連絡入れてくれる? 必ず鍵閉めて、俺が呼ぶまでそこから出て来ちゃ駄目だよ?」
「は、はい」
 言われた通り一歩踏み出すと、後ろでからりん、と音がした。
「有澤さーん、こんばんは。巡回です」
 商店街にある交番のお巡りさんだった。一日二回、駅前通りから、この辺りまでずっと巡回してくれている。たまに、こうやってお店の中にも顔を出してくれるのだった。
「あ、ちょうどいいところに。うちのお客さんなんですけど、俺忙しいんで、話聞いてあげてくれます?」
 状況を察したガタイのいいお巡りさんは、こちらに近付き、店長に代わっておじさんの腕を押さえた。
「なーんだってんだよう!!」
「あーはいはい、ちょっと話聞かせてね〜。お父さん何? もう酔っ払ってんの? 来る店、間違えてんじゃない?」
「お巡りさん、俺、俺は……」
 わーんと泣いたおじさんがテーブルに突っ伏した。仕事が上手くいっていないこと、奥さんが怖くて家に帰れないこと、所持金が千円もないことを話したところで、お巡りさんが応援で呼んだパトカーに乗せられ、あっけなく連れて行かれた。ここを去る時、おじさんは何度も店長と私に謝っていた。

 こうなった経緯を聞かれ、被害届をどうするのか話したあと、お巡りさんはそこを去った。
 店長が外看板を中に入れ、扉の鍵を閉め、ロールスクリーンを下げる。その間、私は何も出来ずに呆然とその様子を黙って見ていた。
「やれやれだな、全く」
「ありがとうございました……」
 まだ少し手が震えてる。
「気付くのが遅くなってごめん。怖かったよな」
 やっと目が合った。いつもの優しい表情……。
「店長は全然悪くはないです。でも」
「ん?」
「対策を練ります! ああいう人が来た時に、一人で対処できるように!」
 夜のホールに一人でいる可能性は、これから先もずっとあるんだから。
「ああ、そうだね。心構えしておくのは大事だと思う。でもさ」
「?」
「俺を頼ってよ。ああいう時はまず、俺の名前を大声で叫ぶ! っていうのから始めたらどうかな」
 我慢してたのに、そんな優しいことを言うから、ホッとして涙が零れてしまった。
「なんてな。実際は怖くて叫んだりできないよな。レジ下に警報機付けよう。防犯カメラと厨房のモニター古いから、もっといいのに買い替える。くるみちゃん、これからはホールに誰もいなくなったら、その時点で俺に声掛けてくれる? そうしたら、俺も気を付けていられるからさ」
 店長が頭を撫でてくれた。その温もりに、また涙が溢れてしまう。
「今日は送ってあげるから、心配しなくていいよ」
「違うんです。そうじゃなくて……私、店長に嫌われたと思ってたんです、今日ずっと」
「え!」
「だってなんか、ずっと機嫌が悪そうだったから。目も、全然合わなかったし」
「……あ、ああ、そっか。そう見えちゃったのか。ごめん、違うよ、違う……!」
 慌ててかがみこみ、俯いた私の顔を覗いた店長が呟いた。
「俺が馬鹿なだけなんだ。いい歳してさ」
 彼が目を伏せて苦笑した。ほんとに、違うの?
「嫌われてないなら、いいんです」
「……嫌いなわけ、ないじゃん」
 私の頬に指を当てて、涙を拭いてくれた。

 嫌いじゃなくても……特別な感情を持ってるわけじゃ、ないんだよね? 期待すること自体が間違ってるのに。
 優しくされるたびに苦しくなってしまう。些細なことで泣いたり笑ったり、不安になってしまう。
 恋ってこんなに、面倒なものだったっけ。