黒い森
6 ダークチェリーの口づけ(2)
瞬きもせずに、彼女は僕を呆然と見詰めていた。
エアコンの微かな音に混じって、すぐ傍の彼女の息遣いが僕に届く。
「取れたよ」
顔を離す間際、耳元に声を掛けた。びくりと肩を震わせた彼女に満足した僕は、座り直してさくらんぼを摘まんだ。
「はい、もう一個」
唇の前に垂らし、触れるか触れないかの微妙な位置で揺らした。どうする? 目で問いかけると、彼女は僕を睨んで口を引き結んだ。
「開けてよ、口」
「……自分で食べれるから」
彼女は僕の手から奪ったさくらんぼを口に放り込み、怒ったような表情で噛み砕いた。
「今度は気を付けないと、零れて服に付くよ」
これでふたつめ。恵人のいない間に、いくつ重ねることができる?
スリッパの音が近付いた。顔を上げて警戒心をリビングのドアに向ける。扉を開けて現れたのは兄ではなく、母だった。
「あら、いらっしゃい。恵人のお友達?」
母は僕の隣にいる無防備な彼女を見た。咄嗟に彼女を隠したい衝動に駆られたけれど、足が動かない。
「あ、はい。大学でお世話になってます」
「夕飯食べてく? ちょうどこれから作るのよ」
「いえ、もう失礼します。お邪魔しました」
「そう。残念ね。またいらっしゃい」
「はい。ありがとうございます」
恵人がタオルで短い髪を拭きながら、開いたままのドアからリビングに入って来た。キッチンへ行く母を見たあと、僕と目を合わせる。兄の姿を見てようやく足が動いた。僕はまた、手に汗を掻いている。
ソファから立ち上がり、恵人に近付いた。
「僕、コンビニ行くから駅まで送るよ、彼女」
「は? 何でお前? 俺が行くよ」
むきになる彼に目配せする。恵人の背後、カウンターの奥にあるキッチンで、開けた冷蔵庫の扉の陰から、母がこちらを見ていた。僕は極力小さな声で、震えそうになる手を握りしめながら兄に言った。
「恵人。母さんこっち見てる。行って欲しくないんじゃないの?」
頭に載るタオルを動かしていた兄の手が止まった。
「……わかった。悪いな、頼むよ」
「いいよ、ついでだし」
カナカナと蜩の鳴く道を、彼女と一緒に駅へ向かった。夕暮れを終えた空は群青色が広がっている。コンビニの前を通り過ぎた。
「寄らないの? 私ここまででいいよ」
「帰りに寄るからいい。暗いし、駅まで送るよ」
恵人のいない間に、と思っていたけれど、さっきは彼が来てくれて良かった。もしあのまま母と僕と彼女の三人だったら、と考えただけで寒気がする。普段なら、他人がいる時は部屋から出てくることはないのに。
「何買うの?」
「え、ああ夕飯」
点滅した外灯の周りを小さな蛾が舞い、時折ぶつかる音がした。
「でもさっき、お母さんご飯作るって言ってなかった?」
「あれは恵人の分」
「椿樹くんのは」
「ないよ」
「……どうして?」
「どうしても」
眼鏡を外し、制服のシャツの胸ポケットへ入れた。
「椿樹くん、近眼なの? 度数どれくらい?」
「伊達。右は1.2、左は1.5。外では大抵外してる。学校もバイト先も」
「家にいる時だけ、かけてるの?」
「そう」
彼女に訊かれるがまま、余計なことを口走っている自分が理解できなかった。
「逆ならわかるけど……どうして?」
「どうしてどうして、いちいちうるさいな。何でそんなにいろいろ知りたがるんだよ」
彼女の左腕を掴んで立ち止まらせた。
「痛……」
「ああ、そうか」
何でも言ってしまいたくなる。そしてそれを聞いた彼女の顔を見たいと、心のどこかで感じ始めている。
「僕のこと好きになった? あんなんで落ちちゃったんだ?」
「そういう、訳じゃないけど」
「そういう訳じゃないなら、何なんだろうね。ただの興味本位って言うんなら、疲れるからやめてよ」
もう一度聴きたいと思っていた、この声は……意外と厄介なものだったのかもしれない。僕の隙間に入って来ては、何かを崩していく。
「もう家には来ない方がいいよ。恵人とも大学でやり取りして」
「でも」
「そうした方がいいって言ってるんだよ。この僕が、ご親切にさあ」
強い口調に彼女は肩を縮ませた。
「絹華さんが思ってるほど扱いやすくないんだよ、僕は。恵人と違って」
「そんなこと思ってない」
「あっそ」
腕を放して先を歩き始めた。置いてかれまいとする靴音が夜の道に吸い込まれていく。
駅の構内に着いた。ちょうどサラリーマン達の帰宅時間なのか、スーツ姿の人で混み合っている。
「じゃあここで」
「送ってくれてありがとう」
彼女が、僕の名を呼んだ。
「椿樹くん」
「何?」
「私の名前……言ってみて」
「絹華さん、でしょ?」
「うん。そうだよ」
泣いているのかと思った。何だよ、その表情。
「余計な事ばかり訊いてごめんなさい。もう来ないから安心して」
眉を下げて笑う彼女が早口で言う。
「ちょっと待って」
マスターに配れと渡されていた店のカードをポケットから出した。
「これ、僕のバイト先。来てくれたら教えてあげる」
「何を?」
「僕の連絡先。他いろいろ。知りたいんでしょ?」
「私……行かないかもしれないよ?」
「別にいいよ。知りたくないなら。でも僕は、今度会えたら教えてほしいことがあるんだけど」
「……」
「この前、家に来た時からずい分経ってるのに、何で今日僕のところへ来たのか、教えてよ」
彼女は無言で受け取ったカードを財布にしまった。僕に背を向け、一歩踏み出す。続いて、カツン、カツン、とヒールの音が響いた。たまらず、今度は僕が名前を呼ぶ。
「絹華さん」
雑踏の中、足を止めた彼女は離れたところから、ゆっくりと僕を振り返った。
「また一緒に食べようね。なんだっけ、あのさくらんぼ」
自分の口の端を人差し指で示すと、彼女は唇を噛んで頬を染めた。じっとこちらを見詰める視線を受け止め、僕も黙って見詰め返す。
数秒後、負けを認めたかのように彼女の結んでいた唇はほどかれ、隙間から言葉を紡いだ。
ダークチェリー、だよ。
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