恋の一文字教えてください

番外編 長野にて(前編)


 新幹線が長野駅に到着した。大きな駅を出ると空は晴れ渡っていて、私たちの間を気持ちの良い風が吹き抜けていく。
「涼しい〜」
「まだ寒いくらいだよな」
 私の隣で柚仁が肩を縮ませた。
「空気が美味しいです」
 花岡家のある逗子の空も青くて綺麗だけど、こっちはどこまでも濃い青、という感じ。潮風が混じる逗子の香りとは違って、緑の匂いが強い場所だった。

 五月中旬の日曜日。私と柚仁は婚約の報告をするため、彼のご両親が住む長野の地までやってきた。今日は一泊させてもらう予定なんだよね。
 バスターミナル前に出て驚いた。すごい行列が出来てる……!
「うわ、バス混んでんなー!」
 小ぶりの旅行バッグを肩にかけながら、柚仁が声を上げた。
「な、何でこんなに混んでるの?」
「皆、善光寺に行くんだな。俺らは歩いて行こう」
「歩いて行けるの?」
「多分、三十分くらいじゃね。お前が好きそうな店もたくさんありそうだから、見ながらゆっくり行こうぜ」
「うん!」
 柚仁の実家の都合で、そちらには午後に向かうから、それまで長野駅周辺を観光することになっていた。長野に来るのは初めてな私。旅行雑誌を買って調べてみると、有名な神社やお寺、温泉、美味しそうな食べ物がたくさんあるんだよね。善光寺もそのひとつ。名前は聞いたことがあったけれど、まさかこんなに人気のあるお寺だったとは…!
「日曜日は、いつもこんなに混んでるのかな」
 柚仁の大きな手に引っ張られながら、たくさんの人の間を歩いていく。
「いや、今年は特別。七年に一度の御開帳の時期なんだよ。ほら、五月三十一日までって書いてある」
 通りすがりのお店に貼ってあるポスターを柚仁が指さした。夜はライトアップもされているらしい。
「そうだったんだ……!」
 もっと詳しくガイドブックを読んでおけばよかった。食べ物ばかりに目がいってたよ。
「回向柱っていう柱が立ってて、そこと本堂のご本尊が糸で繋がれて、柱に触るだけで御利益があるらしい。しっかり触っとけよ」
「はーい」
 大通りをてくてく歩いていき、ようやく大きな門に辿り着いた。そこを過ぎると仲見世が現れ、石畳の通りの両脇はお土産屋さんでひしめいていた。
「柚仁、お蕎麦のソフトクリームだって!」
 チェック済みの食べ物を目の当たりにして、思わず興奮してしまう。柚仁は歩きながら私の顔を覗き込んだ。ふわっと彼の香りが届いた瞬間、ドキリとする。
「食う?」
「お、お参りが終わったら食べたい、です」
 人混みでその近さは反則なんですけど。
 いつもと違う場所にいるせいか、柚仁がやけにカッコよく見える。いつものジーンズにネイビーのTシャツ、何てことないグレーのジップアップを羽織ってるだけなのに。他の人と比べちゃったりして、やっぱり柚仁が一番とか一人でニヤニヤしちゃったりして……
「あ」
 久しぶりに穿いていたスカートの腰に手を回された。ぐいと引き寄せられて体が密着する。たまにはお家じゃない場所で、恋人同士の関係を実感するのもいいな。うん、素直にときめいちゃう。
「んー、わかった。昼飯は?」
「せっかく長野に来たんだから、お蕎麦が食べたい」
「俺も蕎麦食いたいな。……いや、やめとこう」
 眉を寄せた柚仁の横顔を見上げる。
「どうして?」
「最近、親父が蕎麦打ちにハマってるらしいんだよ。夕飯に出そうな気がするんだよなー」
「柚仁のお父さんのお蕎麦!? だったらそっちが食べたい!」
「もし夕飯に出なかったら、明日の帰りにでも食えばいいか」
「うん」

 国宝に指定された立派な佇まいの善光寺本堂。そのずいぶん手前で、またまた行列に遭遇した。柚仁が教えてくれた回向柱に触る為、多くの人が並んでいるという。私たちもその列に一時間近く並んで、本堂の正面に建てられた大きな柱の前に辿り着いた。柱の上に付けられた紐が、本堂までずーっと伸びている。ご本尊の御手と繋がっているありがたい柱に、ご利益がありますようにと、そっと触れた。
 柚仁と無事に結婚できますように。彼と再会させてくださってありがとうございました。おじいちゃんが長生きできますように――
 あまりにも混んでいるので、その他もろもろは省略し、頭の中でばばーっとお祈りしてその場を去った。本堂前に移動して、そこでもお参りをする。ご本尊に綺麗な糸が繋がっているのが遠くに見えた。
「歴史が1400年って、すごいですね」
「ああ。俺も日鞠と一緒で、ここ来るのは初めてなんだけど、来てよかったわ」
「私も来てよかった」
 一通りお参りを済ませて仲見世を戻り、軽めの昼食を取った。お蕎麦のソフトクリームを舐めながら、歩いて長野駅へ到着。どんな味かと思ったけど、風味がよくて美味しくて大満足。

 そこから鉄道に乗って、柚仁の実家がある小布施という駅で降りた。
 長野駅よりも人は少なく、長閑な風景に連なる雄大な山々が見える、素敵な場所だった。
「あ、いたいた。あれだな」
 タクシー乗り場の傍に停まっていた車を、柚仁が指さした。彼のお父さんが迎えに来てくださってるんだよね。今更ながら、ものすごく緊張してきた。
 ドキドキしながら、柚仁と一緒に車へ近づいた。彼が運転席へ回って、窓をこんこんと叩く。
「久しぶり」
 開いた窓へ、柚仁が挨拶をした。彼の隣で姿勢を正す。
「お帰り。お参り行ってきたか」
「ああ、すげーな人」
「七年に一回だからなあ」
 柚仁のお父さん、柚仁にそっくりだ……! と見とれていたら、お父さんが車から降りて、私に笑いかけた。
「よく来たね」
「こ、こんにちは。杉田日鞠です」
 慌てて挨拶をする。声まで柚仁に似てるみたい。
「こんにちは、ひまちゃん。すっかり大人の美人になったなぁ」
「私のこと……覚えていらっしゃるんですか?」
「会ったのは二回くらいだけど、覚えてるよ。柚仁が毎日『ひまが、ひまが』って、家でうるさかったからねえ」
 わはは、と柚仁のお父さんが笑った。
 ゆ、柚仁てば、そんなことを……? 小さい頃のこととはいえ、妙に照れてしまう。熱くなった頬を両手で抑えた。
「よけーなこと言うなっての。荷物後ろ入れさせて」
「はいはい」
 柚仁むくれてるけど、私と同じに、ちょっと顔赤くなってない?

 町を少し離れると、畑や果樹園などの美しい緑が広がっていた。自然豊かな道を車で十五分ほど進んだ場所に、ぽつんぽつんと民家が現れ、その中の一軒の前で車が停まった。
「まぁまぁ、よく来たねえ! いらっしゃい!」
 玄関から女性が現れる。車から降りた私は、その人に頭を下げた。
「こんにちは」
「ひまちゃんね!?」
「はい、わ……っ!」
 顔を上げたと同時に、柚仁のお母さんにぎゅっと抱き締められ、柔らかな体に包まれた。
「ひまちゃん大きくなって……! 小さい時も可愛かったけど、本当に綺麗になったわねえ」
 あったかくて優しい感触と、私を歓迎してくれている彼女の様子に、胸が熱くなる。
「おばさんのこと、覚えてないでしょう?」
 体を離したお母さんは、私の顔を見て笑いながら涙ぐんでいた。
「少しだけしか……ごめんなさい」
 やだもう、私まで泣けてきちゃうよ。
「あなた小さかったものね。でも、おばさんはひまちゃんのこと、よーくよーく覚えてる。ひまちゃんが柚仁のお嫁さんになってくれるだなんて、おばさん、本当に嬉しい」
 同じように涙ぐんだ私の頬を優しく撫でてくれた彼女は、呼吸を整えてから明るい声を出した。
「さあ上がって。あとでゆっくりお話ししましょ。柚仁も、お帰りなさい」
「ただいま」

 奥の和室へ通された私たちは、荷物を置いて一息吐いた。
「何だか、懐かしい感じがする」
 柚仁の実家は、柚仁と私が住む花岡家を少し小さくしたような、清潔感ある日本家屋だった。
「似てるだろ、花岡家と」
「うん。大きさは違うけど、雰囲気がよく似てるね」
「何だかんだ言って、花岡家の造りが好きだったらしくてさ。ここを建てる時に参考にしたらしいんだ。俺がまだ大学にいるときに建ててたから、築五、六年ってとこか」
「まだそんなに新しいんだ。木のいい匂いがして、気持ちがいい」
「あーこのまま寝たいなー」
 畳の上にごろんと寝転がって、柚仁は気持ちよさそうに伸びをした。

 私がお母さんの夕飯作りの手伝いをしている間、柚仁はシャワーを浴びて、居間でビールを飲み始めていた。お父さんは別室で何やら料理を仕込んでいるという。もしや、柚仁が言っていたアレかな?
「やっぱ、この辺は涼しくて過ごしやすいよなー」
「そっちはもう暑いの?」
「五月に入って急激に暑くなったよ。な、日鞠」
 お母さんと会話していた柚仁が、キッチンから運んだ天ぷらを食卓へ置いている私を見た。
「え、はい、暑いですー」
「こいつ去年熱中症起こしちゃってさあ、大変だったんだよ」
「まぁそうなの?」
「そうそう、俺が看病してやったんだよ。な?」
 にやにや笑いながら、またこっちを見てる。なんか柚仁、既にもう酔ってない?
「気を付けてね、ひまちゃん。疲れたら柚仁の世話なんかしなくていいのよ? ほっといて、全部自分でやらせればいいんだから」
「はい。今度からそうします」
「そうよ、遠慮しちゃダメよ」
 お母さんと顔を見合わせて笑ってしまった。
 何だかいいな、こういうの。優しくて温かくて、この人が柚仁のお母さんで本当に良かった。

 食卓には旬の野菜の煮物や、山菜と海老の天ぷら、信州産牛ロースの重ね焼き、彩りのよい数種類のお漬物、茄子田楽に蕗味噌、餡がお漬物のおやきなどが並んだ。この辺りは栗を使ったお菓子が有名らしく、蜜煮の栗がたっぷり入ったつやつやの羊羹もある。
「すごいごちそう!」
「張り切っちゃったわよー。ねー、お父さんも」
 お母さんが顔を上げたほうを見ると、そこにはお盆を手にしたお父さんが立っていた。お盆の上には形よく盛られた、お蕎麦が……!
「最近、蕎麦打ちにハマっちゃってね。良かったら食べてね、ひまちゃん」
「はい! 私お蕎麦大好きなんです!」
「そりゃー良かった」
 うんうん、と嬉しそうに頷いたお父さんが、お蕎麦の載ったせいろと蕎麦ちょこを食卓に並べた。
「な?」
「うん。お父さん、本当にすごいね」
 私に向けて、にやりと笑った柚仁に返事をすると、お父さんが顔を上げて顔をしかめた。
「な、って何だよ柚仁」
「親父が蕎麦打ちにハマってるから、昼に食べるのはやめておこうって、ひまと話してたんだよ。ひまが、ぜひ食べたいって言っててさ」
「そうだったのか、嬉しいねえ。食べな食べな。たくさん食べな」
 お父さんの声掛けとともに、皆で乾杯をして食事を始めた。お母さんは麦茶、私はビールを少しだけ。
 この土地ならではのお料理が本当に美味しくて、お箸が止まらない。打ち立てのお蕎麦は香りとコシが強く、いくらでも食べられそうなくらいに美味しかった。
「杉田さんには、本当にお世話になっちゃったわねえ」
 幼い頃の話を聞いたり、最近の出来事を話しながら、和気あいあいとした食事が続いていた。
「そういえば、あの骨董屋は、まだ営業されているのかい?」
 天ぷらを頬張りながら、お父さんが私に訊ねる。
「はい。最近はネットのお客さんが増えて、おじいちゃん忙しいみたいです」
「お元気なら、それは何よりだ。今度お会いできるのが楽しみだよ」
 来月に両家の顔合わせのお食事会が決まっていた。両家と言っても、私は両親がいないので、代わりにおじいちゃんと幸香姉と琴美姉が参加。柚仁は兄弟がいないので、柚仁とお父さんとお母さんのみという、こじんまりした会を予定している。
「柚仁がひまちゃんと結婚する、って電話してきたときは驚いたよな〜あ!」
「嬉しい嬉しいつって、大喜びしてたじゃねーか!」
「そりゃ嬉しいに決まってんじゃねーか!」
 わははと二人で笑いながら、いつの間にか地酒に手をつけていた。随分飲んじゃってるみたいだけど、楽しそうだから、いいか。心から寛いでいる柚仁の姿を見るのは私も嬉しいし。

 柚仁とお父さんは畳の上に寝転がって、いびきを掻いて眠り始めたので、お母さんと私でご飯の後片付けを済ませた。
「ごちそうさまでした。全部美味しかったです」
「喜んでくれて嬉しいわ。そうそう、栗のお菓子は他にもあるから持って帰んなさいね」
「ありがとうございます」
 お母さんは笑顔でエプロンを外し、私の肩を優しく叩いた。
「さ、酔っぱらいの男どもは置いといて、ひまちゃん」
「?」
「私が車を出すから、一緒に温泉行かない? すぐ近くにあるのよ」
 お母さんと私の二人で温泉に? 驚いたけれど、誘われたことが嬉しくて私も笑顔で答えた。
「わぁ嬉しい!」
「ふふ、行きましょ、行きましょ。支度しておいで」
「はーい」

 お母さんは私たちが温泉へ出かけたことを手紙に書いて座卓に乗せ、さらにお父さんのスマホにも同じメッセージを入れた。
 着替えを持った私は、柚仁のお母さんの車に乗り込んだ。
 少しの緊張と、それを上回る嬉しい気持ちを、着替えの入った袋と共にぎゅっと胸に抱え、車窓から夜空の星を見上げた。



後編へ続きます。