恋の一文字教えてください

4 修行、始まる



「もっと腰入れて進め!」
「う、はいっ」
 腕に力を入れ、言われた通り姿勢を直し、どたどたと廊下を進んで行く。Tシャツにショートパンツという格好で、こんな体勢で雑巾がけなんて、小学校の掃除の時間以来なんですが。
「雑巾はもっと固く絞るんだよ、なってねぇな〜!」
「すみません……!」
「もう一度行ってこい!」
 絞りなおした雑巾を床に置き、上から両手を着いて四つん這いになる。こうなったらもう自棄だ……!
「日鞠行きます!! うぉー!」
 勢い付けて一気に進んだ。明日、筋肉痛確定だわ。
「やればできるじゃんか。その調子でいけー」
 遠くから師匠の声が聴こえた。ここは一体何なの? お寺なの? 私、修行の身なの?

 昨日の午後、住み込み家政婦として、ここ花岡家へ入った私。
 荷物が少ないから、お一人様用月曜午後便パックというのを使い、引っ越し代金は安く済ませた。夕飯はコンビニで買ったものを一人で食べ、お風呂をいただいて、この家の主の柚仁とは大して話もせずに、私はさっさと眠ってしまった。疲れもあってか、緊張の欠片も無くぐっすりと。
 目が覚めた今日は火曜日。早速朝から仕事が始まった。
 七時に朝ご飯と言われていたので準備の為に六時に起床すると、とっくに起きていた彼は台所で私を待っていた。一通り使い方を習い、普段どんな朝ご飯を食べているのか教えてもらう。メニューは土鍋で炊いたご飯に味噌汁、納豆か焼き魚、漬物、の完全和食。炊飯器を持たない私は、お鍋でよくご飯を炊いていたから、そこは大丈夫だけど、お味噌汁は自信が無い。
 朝食後の掃除から、彼の言っていた「教え込む」の意味を知ることとなった。
 まずは玄関周り。三和土は水を撒いてブラシで擦る。外も水を撒く。次に部屋中のはたきかけをし、三種類の箒を使い分けて掃き掃除。掃除機は週に一回。畳は固く固く絞った雑巾でさっと表面を拭く。これは毎回しなくてもいい。
 そしてようやく廊下と広縁の雑巾がけまで辿り着いた。それが今。
 これさ、痩せちゃうんじゃない? 冗談抜きで。掃除は書道教室が開かれる週に四回、私が仕事の日だけとはいうものの相当きつい。柚仁は今までこれを全部一人でこなしていたというから、本気で驚きだよ。
「もういいぞ〜」
「は、はひ……」
 息切れしまくり。汗掻きまくり。後でシャワー浴びさせてもらおう。
「体力ねぇなあ。これからまだ風呂掃除とトイレ掃除があるんだぞ」
「……頑張ります」
「あ、洗濯忘れてたな。風呂掃除の前にやろう。お前のもあるなら一緒に洗っちゃえよ」
「いいんですか?」
「気持ち悪くないなら。俺は全然平気だけど」
「私もずっとコインランドリーだったので全然大丈夫です」
「あ、そ。そういう所は逞しいね。取り敢えずこれから、お前が掃除をやってくれるなら、その分俺は畑仕事に集中できるな」
 顎に手を置いた柚仁は、口の端を上げてにやりと笑った。

 あっという間に休憩の始まる十一時がきてしまい、何とかギリギリ洗濯も掃除も終わらせることが出来た。
 シャワーを借りて汗を流してから台所へ行くと、お昼の用意をしている彼がいた。
「失礼しまーす。シャワーありがとうございましたー」
「んー」
 アパートで使っていた小さめの冷蔵庫は台所に置かせてもらった。電気代がもったいないからと、柚仁が冷蔵庫を一緒に使わせてくれることになり、私の方には電源を入れていない。電子レンジも同様。出て行く時に必要だと思って捨てはしなかったんだけど、冷蔵庫って長い期間使わなくても平気なんだろうか。後で調べてみよう。
 ガス台の前に立つ彼は鼻歌を唄いながら、手際よく野菜を炒めていた。
 今朝見せてもらった、彼のお婆ちゃんの形見の糠床とか、甕に入ったお味噌だとか、お米は取り寄せているとか……食べ物にも拘りが強いらしい。
 何を作っているのか気になるけど、お互い自由時間なんだから、私はさっさと屋根裏部屋へ戻ろう。
 冷蔵庫で冷やしておいた大きいペットボトルから、持って来たグラスに緑茶を注いだ。
「お前、荷物少ないと思ってたけど、食器も少ないのな」
 フライパンを揺らしながら私に話しかける。
「はい。必要最低限の物だけにしてましたから」
「マグカップ見せてもらったけど、アレ手作りか?」
「陶芸を勉強中の友人から貰いました。お皿もお揃いなんです」
「へえ」
 専学には絵以外の創作をする友人がたくさんいて、卒業後も交流している。といっても、私は東京を引き上げてこっちへ来ちゃったけど。彼らのことを思い出すと、胸がちくりと痛んだ。

 屋根裏部屋へ戻り、折り畳み式のテーブルにグラスを置いた。コンビニの袋からロールパンを取り出して口にする。昨日ここへ来る前に買っておいて良かった。疲れちゃって、お昼を外に買いに行く気力も無いよ。
 それにしても……琴美姉にこんなところ見られたら笑われそう。甘い考えでやろうとするから駄目なんだ、とかさ。
 家事手伝いって大変なのね。子どもがいたら、もっともっと大変なんだろうな。琴美姉も幸香姉も偉いよ。そりゃ、私のこと見てたら叱りたくもなるよね。
 開けた窓から外を眺めた。空は雲が出て日が陰った。あ、ここからだと海が少しだけ見えるんだ。
 冷たい緑茶を飲み干して、ごろりと仰向けになり、ごつごつとした黒い梁を見つめた。
「ここ、あつー……」
 これだけ忙しければ、余計な事を考える暇がなくていいのかもね。でも休みの日はどうしよう。ずっと前の私だったら迷わず絵を描く時間にあてていたのに、今は……
「勉強だよ、勉強!」
 まずはどんな資格を取ろうか。先立つものが無いけど、目標だけは決めておこう。スマホを取り出し検索を始める。

 窓から、さぁっと涼しい風が入った。濃い緑と土の匂いも運ばれる。スマホを手に、いつの間にかうとうとしていたらしい。
「あ、雨!?」
 飛び起きて一階へ降り、広縁の下に置いてあるサンダルを履いて庭へ出た。降り始めたばかりで洗濯物に支障はない。
「はぁ……間に合った」
 柚仁いないのかな。昼休みの時間も、こうして気を付けてなきゃ駄目なのね。
 部屋が薄暗くなり、雨が本降りへと変わった。しっかりと乾いていた洗濯物を畳みながら庭を眺める。
「野菜が嬉しそう」
 青々とした葉の陰に揺れる野菜たちは、雨に濡れて皆心地よさそうだった。ぽたぽたと落ちる雫を、乾いた土が美味しそうに飲みこんでいる。古いお家だからなのか、雨の音がとても近くに感じた。いつの間にか蝉の声が止んでいる。
 壁にかかる時計は二時を過ぎていた。
「もう昼休み終わりだったのね。目が覚めて良かった」
 畳んだ洗濯物の自分の分を屋根裏部屋へ片付けに行く。蒸し暑かったそこは雨のお陰で、すっかり涼しくなっていた。
 戻って柚仁の分をどうしようかと迷っていると、廊下を踏む足音が聴こえた。ちょうどいいや、聞いてみよう。正座をして顔を上げた時、その人が廊下から部屋に入って来た。
「日鞠」
「あ……」
 こちらへ向かってくる柚仁の姿を目にした途端、心臓がどきんと大きな音を立てた。
 白いTシャツの上に藍色のこなれた作務衣を着込んでいる。仕事部屋で何か書いていたんだろうか。
「俺はこの後、書道教室の準備がある。今日はまだ店番はしなくていい。夕飯作りに勤しめ。さっきも言ったけど飯は土鍋炊きな」
「あ、はい」
「買い物は大体この辺でして来てくれ。これは食費の入った財布だ。お前に預けておく」
 プリントアウトされた簡単な地図に、お店の名前が書き込まれていた。……綺麗な字。
「ありがとう、ございます」
 それらを受け取った後も、彼にばかり目がいってしまって困った。だってすごく似合ってる、よ。そんな私に気付いた柚仁が眉をしかめた。
「何だよ」
「いえ、別に……。書道家っぽいな〜、って」
 目を泳がせる私の顔を彼が覗き込んだ。すぐ傍で目が合って頬が熱くなる。ちょ、ちょっと、近いって……!
「惚れんなよ〜?」
「ち、違います! 買い物行って来ます!」
「おう。迷子になるなよ」
 預かったお財布と地図を手に、玄関へ走った。

 下駄箱に置かせてもらっている靴を取り出し、三和土に投げるように置く。履きづらいスニーカーへ足を突っ込んだ。
「何なの、あれくらいのことで」
 ときめくな、私……!