足下には黄金色の葉が、絨毯のように敷き詰められていた。見上げると、これだけ落ちているのに、まだその枝には離れようとしない葉がたくさん茂り、その隙間から青い空がちらちらと見え隠れしている。
「可愛いかたち」
一枚拾ってハートのように広がった葉を親指と人差し指でつまみ、くるりと回す。
「ここは実が生らないんだな」
「そうみたいね」
私たち二人の部屋があるアパートメントに寄り添う、大きな銀杏の樹。昨夜ここへ初めて訪れた時から、明るい陽を浴びるこの姿を早く見たくて仕方が無かった私は、彼と一緒にアパートメントの周りを今こうして散策している。
時折吹いてくる十一月の風は葉を揺らしながら、ひんやりとした清々しさも運んでくる。朝の美しい透明な空気を胸いっぱいに吸い込んだ途端、突然彼の温もりを身体の奥に思い出し、輝く光の中でこの身を晒され甘やかな罪悪感に苛まれた私は、こちらを見詰める銀杏の樹から慌てて顔を逸らした。
夕暮れの中ではよく見えなかった三階建てのアパートメントを眺め、今感じたばかりの気恥ずかしさをごまかす為にじっと見入った。思った通り、外の階段の入り口ごとに扉の色は替えられている。私達が使う階段の入り口は、グレーの扉。他にレンガ色をしたもの、真っ青な海の色、明るい黄色。別の棟はもっと違う色かもしれない。
「
向かいの棟にある、もう一本の銀杏の下で、彼が私の名を呼び手招きをしている。
「どうしたの?」
「ほら、そこ」
彼が指差す方へ視線を向けると、丸いころころとした実があちこちにちらばっていた。
「たくさん落ちてる」
「もらっていってもいいのか、管理人さんにあとで聞いてみよう」
誰に拾われることなく落ちたままになっている実を眺めて、彼が言った。
「もったいないよ、こんなにたくさん。まあ、あまり食べ過ぎるのも良くないとは言われてるけど」
「これ、持って帰って洗って食べるの?」
手で口元と鼻を覆いながら問うと、彼は私の頭を撫でながら答えた。
「においが酷いからね。土の中に埋めて、一旦周りの果肉を腐らせるんだ。そうすると固い種の部分が上手い具合に取り出せる」
「そうなの。私、ぎんなん大好きよ。でもこの実、靴にくっつくと大変なのよね」
「陶子、まずいよ。もうくっついてるよ」
「え、嘘! 気をつけてたのに」
「嘘だよ。すごい顔だな」
彼が私を見て楽しそうに声を上げて笑った。
一通り散策を終えると、再びアパートメントの狭い階段を上がった私達は最上階を目指した。何も置かれていない屋上はがらんとしている。柵から手を伸ばせば触れることの出来る距離に銀杏のてっぺんが迫り、風に飛ばされた葉が幾枚かこちらへ落ちていた。
「このアパート、銀杏に守られているみたいだね」
「きっとこの建物のことが好きなのよ。だからこんな風に寄りかかってる」
三棟あるアパートメントは綺麗に並んでいる。柵に掴まり下を見下ろすと、結構な広さの敷地は一昔前の団地を思い出させた。
空はどこまでも青く澄み渡っている。いくらか高台になっているこの場所からは、街の風景がいっぺんに見渡せた。自転車で側を通り過ぎた小学校、もっと向こうには真っ直ぐに伸びた電車が行き交う線路。緑に覆われた住宅街は、紅葉を始めた木々が混じり秋の様子を伺うことができる。
そのどれもこれもに懐かしさは見出せない。けれど、それがかえって私を安心させた。
「本当に、知らない街なのね」
「……怖い? こんなところに僕と二人きりで」
隣に立つ彼は柵に両腕を乗せ、真っ直ぐ前を見詰めていた。
「ううん。怖いなんてことはないわ。わくわくする」
「そうか……陶子は強いね」
「
私の問いに目を伏せた彼の仕草に、少しの不安を覚えた心を隠しながら答えを待つ。柔らかな陽が、冷たい柵に乗せた私の両手をじんわりと温めていた。
「……僕は、怖いよ」
「どうして?」
「一人の女性の運命を、僕が変えてしまったのかもしれないって思うと」
「……」
「そりゃ、怖いさ」
「……後悔してる?」
「そういうんじゃないんだよ。後悔はしていない。昨夜も言ったけど、僕がそれを望んだんだからね」
振り向いた柊史は、私を見て小さく笑った。
「多分、一生わからないかもしれないな。陶子には」
「……馬鹿にしてるんでしょ」
「違うよ。僕が男で、君が女だから」
「?」
「だからきっと一生わからない」
「……なんだか寂しい」
「寂しいことなんかないよ。わからないから、惹かれるんだ。何もかもわかりあえるなんて有り得ないし、そんなのはつまらない」
彼もまた、足下に落ちていた銀杏の葉を拾い、くるりと回した。
「わかろうとすることは、大事だけど」
練習を始めたばかりのチェロの音色が、風に乗って私達の元へ届いた。
「陶子が昨日言っていたパン屋へ行こうか。今日は仕事もないし」
「うん」
「好きなパンを買ってきて、家でコーヒーを入れよう。君が持ってきてくれたから」
彼は私の後ろへ回り込み、昨日の様にそっと私を抱き締めた。カーディガンの柔らかな感触が頬に当たる。私の右肩に顔を乗せ、一緒に視線を遠くへ向けた彼が呟いた。
「昨夜……僕、陶子を傷つけてない?」
「どうしてそんなこと聞くの?」
「壊してしまったんじゃないかって、後から心配になるほど……抱いたから」
静かな熱を帯びた声の響きと言葉の意味に身を投げ出して、感じたままに唇から言葉が零れた。
「柊史になら、壊されてもいい」
「……」
「……」
「……陶子、あの」
「うん?」
「そういう風に返されると、僕……朝から節操の無い人になりそうなんだけど」
「じゃあパン屋さんの前に、もう一度ベッドへ行く?」
「……」
彼を振り向き、その頬へ手を伸ばし、無防備に晒されている甘やかな罪悪感を持つ私と同じ瞳を……わざと奥まで覗き込んだ。
「柊史、顔が赤い」
「陶子がそういうこと言うから」
途切れることのない美しい旋律。聴いた事のある有名なこの曲。口元に手を当て題名を思い出そうとしていた私の額へ、微笑んだ彼が軽くキスをした。
笑顔を返して彼の手を取り、階段へと歩き出す。
繋いでいない方の手にはお互いの持つ黄金色の葉が、二人の頼りない道をほのかに照らしていた。
Copyright(c) 2010 nanoha all rights reserved.