100titles [032]

眩暈




 それは、恋の病に似た言葉。

 ビルの窓から、おもちゃみたいな人や車を真下に見るのと同じような感覚。足先がふわふわと、現実から離れていく。
 しゃがみ込んで、すぐに立ち上がった時にも似ている。もしかしたら、何かが足りていないからなのかもしれない。

 長いお湯に浸かった後、湯船から出ようとした時のように。
 今度はどれにしようかと、甘い香りを試した途端、お店の中で違う夢を見続けたくなるように。
 懐かしい音楽を耳にした時、蘇る記憶と感傷へ戸惑う場面に出会った瞬間。

 どれもこれも、同じようなのに全部違う。

 蒸し暑い夏の夜、彼と待ち合わせをした。
 少しだけ緊張を誘う、美しい重厚な建物のエントランス。中はひんやりとした空気に包まれ、こんな時間になっても蝉が鳴き続けている屋外とは別世界だった。ロビーラウンジへ入り、大きなどっしりとした黒い革のソファへ、申し訳ない程度に前の方へ腰を掛ける。
 精一杯着飾って、シルクの素材を纏っても。こんな場所で彼を待つには、もう少し大人にならなければいけないような気がするけれど。

 紺色の細身のスーツを着た私よりも五つ年上の彼を、視界の端に感じた途端、胸が逸る。
 大理石の床に響いた革靴の音が近付き、ラウンジへ入ったと同時にそれは厚みのある絨毯によってくぐもった。テーブルの向かいにある空いていたソファが彼によって埋められる。私とは反対に深い場所へ腰を下ろし手を組み、片肘をソファの肘掛へもたれさせる彼から……目が離せない。

「何飲んでた?」
 その声は、私の耳から頭の奥深くへ沁みこんでいく。
「……紅茶。ブランデーが入ってるの」
 少しでも近付きたくて、普段飲んだこともないものを口にした私を彼に見透かされた気がして、喉の奥も頬も熱くなっていく。
「そう」
 涼しげに微笑む彼と視線を合わせ、もう一度思い出す。

 長いお湯から上がり、映し出された自分の姿に彼を感じた時。
 私の甘い香りに誘われた彼の瞳を受け止めて、夢の中にいられる瞬間。
 彼の声が音楽で、感傷に浸る間もなく同じ歌を口にする喜び。
 繰り返し彼の名前を呼ぶことに、ささやかな望みと混乱を同時に持つことが必要になった時。
 幸せな疲れを知った後、哀しくもないのに涙が出ること。

 今まで思い込んでいた全てが、今目の前にいる彼によって変えられた。それが何なのか、早く答えを知りたい。
 まるで私の気持ちが彼に届いて通じ合ったかのように、言葉もろくに交わさず二人でその場をあとにした。

 部屋へ入ると、私のバッグや彼の上着、焦る仕草で無理やり外されたネクタイがベッドの上へ投げ捨てられた。
 連れて行かれたのは、寂しげな暗闇の中に無数の光がちりばめられている大きな窓。間近にあるライトアップされた無防備な東京タワーが、ここを地上から離れた場所だと教えてくれる。
 冷たいガラスが背中に当たる。チラリと振り向き、下にある筈の首都高におもちゃのような車を探そうとした途端、視線を持ち上げられた。同時につるりとした肌触りのワンピースが、彼の手によって揺れた。
 明かりを落とした部屋の、追い詰められた窓際で彼に問いかける。

「これって、何?」

 自分の息じゃないみたいに、途切れ途切れにしか吐き出せない。目の前にいる彼も同じ様に見えた。眉を寄せたその表情が、また私をグラつく世界へ誘い込む。
 彼の声に操られて同じ動きしか与えてはもらえない私は、はぐれないよう必死にしがみついて伝えた。
「似てるけど違うの。こうして一緒にいる時と、思い出した時にだけ感じるの」
「俺と同じなのに……わからない?」
 頷く私へ、額に汗を掻いた彼が微笑む。
「一度しか言わないから」
 彼は私の髪に指をやり、耳へかけたあとその場所へ……囁いた。

 復唱してと、彼は私の湿った唇をなぞる指先で求める。
「……」
 欲しがる癖に、最後までは言わせてもらえず唇を塞がれた。それでも教えてくれたその言葉を頭の中で繰り返す。

 恋に溺れた――眩暈。















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