東京から汽車に乗り、四時間。
駅へ迎えに来た黒塗りの馬車に乗り、林道を抜けてその場所へ到着した。
八角の搭屋が特徴的な木造建築の大きな西洋ホテル。外壁は黒っぽく、太い縁取りの窓枠や柱は真っ白に塗られており、美しくロマンティックな造りに溜息が出てしまう。
ホテルの玄関を入り、直之様がフロントでホテルマンにお名前を告げていた間、荷物を持ってくれていた磯五郎と私はロビイで待っていた。磯五郎は一階、私たちのお部屋は二階ということで、ホテルマンがそれぞれに付く。
フロントでの別れ際、直之様が磯五郎に言った。
「磯五郎、夕飯は好きな物を食べていい。ホテルのレストランでもいいし、部屋でとってもいい。俺の名前を言えば支払いはそれで済む。外に行ってもいいが、店が閉まるのは早いから気を付けろ」
「はい」
「明日の朝、そこのラウンジで一緒に朝食をとろう。部屋には迎えに来なくていい。そうだな、八時頃でどうだ?」
「ええ、何時でも構いません。直之様のおっしゃる通りに」
「河合がいないからって飲みすぎるなよ」
「わ、わかってますって! まったく敵わねえな、直之様には」
真っ赤になった磯五郎を見て、直之様は可笑しそうに笑った。
直之様と私はホテルマンに案内され、紅い絨毯が敷かれた階段を上がって行く。踊り場の窓から入る光と、其処ここに設けられた可愛らしい笠の電灯のお陰で、廊下全体が温かみのある空間だった。
軽井沢は夏の盛りが過ぎたせいか、私たちの他に人のいる様子は無い。
廊下の奥の突き当りを曲がった一等のお部屋だと、私たちの荷物を運ぶホテルマンが説明する。
「こちらでございます」
ドアを開けると入ってすぐに広い居間。丸いテーブルに椅子が四脚。マントルピイスの立派な暖炉、本棚、鏡の付いた大きな洋服箪笥。調度品は落ち着いた雰囲気で、直之様のお家と雰囲気が似ていた。
確か、明治に建てられたホテルだと聞いたけれど、バスルウムなどの水回りから細かい所まで西洋式に徹されていることに感心する。
「寝室はこちらです」
広いお部屋にベッドが二つ。外国人向けに造られたのだろうか、ベッドは一つで悠に二人は眠れてしまいそうな大きさだった。
今更だけれど、私と直之様のお部屋は一緒。寝室も同じだなんて……どういうお顔をしていいのか戸惑ってしまう。
「何かございましたら、フロントまでお申し付けくださいませ」
「ありがとう」
ホテルマンが出て行った後、荷物を寝室へ入れて下さった直之様に問いかける。
「直之様は、こちらにお泊りになったことがあるのですか?」
「ええ。今はほとんど利用していないのですが、父の別荘が軽井沢にあるんですよ。数年前、そこへお客様を呼んだはいいが、部屋が足りなくなりましてね。俺だけこのホテルに一泊しました。しかし却ってこちらの方が居心地が良くて、結局もう一泊したんですよ」
「本当に、とても素敵なところですものね」
居間の向こうはサンルームになっており、直之様が窓を開けると、かっこう、と鳴き声が聴こえた。外からも見えた白枠の格子窓が美しい。ここにもテーブルと椅子がある。ホテルの周りは、それほど大きな樹が無い為、見晴らしはとても良く、遠くにある別荘まで見渡せた。
「人が少なくていいな。夏はね、結構な人手なんですよ。後で辺りを散歩をしましょうか」
「ええ」
その夜は、ホテルの食堂でお食事を済ませ、疲れているだろうからと早目にベッドへ入るように言われた。直之様は居間で書き物をしていらっしゃる。
ここはお話に聞いていた通り、とても涼しく、ベッドカバーと毛布をしっかり首まで掛けていなければ肌寒くなってしまうほど。
直之様に買っていただいたナイトウェアに身を包み、清潔なシーツの中で目を瞑る。寝返りを打ちながら瞼を上げると、月光がお部屋の中を青白く照らしていた。途端に言いようもない寂しさが押し寄せ、なかなか寝付くことが出来ない。
ふいに薗田家へ帰った時のことが思い出された。けれど、山手のお家で癒された私の心と体は、もう翳りを見せることはない。元気になったと、旅行中に直之様へお伝えしたい。
うとうとした時、直之様がお部屋に入って来る気配に目が覚めた。しばらく息を潜めていると、彼がベッドの上で寝返りを打つ音が聴こえた。
もう眠ってしまったの? それともまだ起きていらっしゃる? 何をその胸に秘めていらっしゃるのだろう、そんなことを思うだけで……胸が苦しくなった。
「おはようございます。直之様、蓉子様」
食堂で私たちの姿を見つけた磯五郎が椅子から立ち上がり、テーブルの横でお辞儀をした。
「おはよう、磯五郎」
「おはよう。ここで一緒にいいか?」
「え! 同じテーブルにでございますか!?」
「せっかくだから、一緒に朝食をとろう」
「は、はい」
緊張する磯五郎とテーブルに着いた。オムレットや生のお野菜、焼き立てのパンが運ばれる。
他のテーブルには外国人の方が二組いらしっしゃるだけ。
「昨夜は良く眠れたか?」
珈琲を飲みながら、直之様が磯五郎の顔を見た。
「まあまあです。いやあ、俺みたいなもんが、あんな高級な部屋の大きなベッドで眠るなんて、全く慣れなくて。いやほんとに贅沢です。ありがとうございます」
「お前はいつもよくやってくれている。たまにはゆっくり休むといい。今日はこの後、俺と蓉子さんは乗馬に行くから、お前は自由に過ごしていていいぞ」
乗馬をされるなんて初耳で、思わず目を見開いた。そんな私の様子には気付かず、直之様と磯五郎は話を続けている。
「そうでしたか。では、駅の方まで行って土産など見てまいります」
「ほう、誰に土産を?」
「サワさんです。蓉子様を何卒よろしくと、念を押されましてね。随分な心配症さんなんですな、サワさんは」
こちらを向いて微笑んだ磯五郎に、私も笑みを返して頷いた。サワが皆の中に溶け込んでいることを知り、私まで嬉しくなってしまう。
「あの、直之様は馬をあそばすの?」
「そうですね。一時期は週末に通い詰めるまでに凝ってしまいまして」
恥ずかしそうにお答えする表情を見て、胸がきゅーっと痛くなる。
この痛みは……病気ではなく、恋をしているからなのだと彼に教えられた。一々こんなふうに心臓が痛くなるというのなら、皆、どうしてそんなにも澄ましたお顔でいられるのだろう。こういうものにも慣れが必要なのかしら。
「蓉子さんは?」
「え? 私、は」
はしたないことを頭に巡らせていた私は、急に直之様に顔を向けられて、高原のお野菜が喉に詰まってしまいそうになった。ひとつ咳払いをしてから、静かにお返事をする。
「私は経験ございません」
「では俺が教えますよ」
「あまり運動神経が良い方ではないので、少し心配なのですが……」
結局自転車も乗れないままだし、学校の体操の時間もどちらかというと、お休みしてしまいたいくらい。
「そんな感じしますよね、姫様は」
「……磯五郎の意地悪」
磯五郎が笑うから、直之様にまでくすくすと笑われてしまった。
食事を終えて一旦お部屋に戻り、直之様は乗馬用の服装を一式、荷物の中から取り出した。私の分までしっかり用意されていたから、何も困ることはなかった。
うっすらと朝の霧が残る道を散歩しながら、ホテルの近くの乗馬倶楽部へ向かう。
クラブハウスで手続きを済ませた直之様は白い馬をお借りになった。
慣れた動作で乗馬し、馬場に出た直之様は、とても軽やかに馬を歩かせていた。次に駆け足で馬場内を一周される。鬣を靡かせた美しい白馬は生き生きと駆けていて、とても嬉しそうに見えた。姿勢正しく乗馬される直之様のお姿は、惚れ惚れする程、凛々しくていらっしゃった。本当に、この方は何でもお出来になるのだわ……
このような方が私に恋しているなんて。そして私も彼に恋をしているだなんて。
直之様の笑顔がこちらへ向けられる度、胸がどきどきとして、頬が熱くなった。健康的な朝の空気の中で一人密かに甘い喜びを持つことが不謹慎な愉しみのように思えてしまう。
「一本道ですからね、迷うことはないでしょう。お嬢様はほっそりしていらっしゃいますから、並足でしたらば、ご同乗されてもそれほど問題はないと思われますよ」
「しかし馬の負担になるのも良くないな。行きは俺が手綱を引いて歩いて、帰りだけ同乗するか」
私を連れて馬場の外へ散歩したいとおっしゃった直之様が、クラブハウスの方と相談されている。
「水飲み場にベンチがありますから、そこでお休みできますよ。馬を繋ぐ場所も用意しておりますので」
「では、そうさせてもらうか」
まずは馬場の中で、先ほどの白馬に乗せていただいた。鞍に掴まり、前を見ると意外にも高さがあり、ぶるると鼻を鳴らす馬の振動に焦ってしまう。
「とても穏やかで賢い馬ですから、座っているだけで大丈夫ですよ。怖がると却って馬の方が気にしますから、どんと構えていてください」
「はい」
手綱を引いて歩く直之様と共に一周して、私が馬に慣れてきたところで馬場から出た。
白樺林の小路をゆっくりと進んだ。穏やかな蹄の音と、上下に揺すれる体躯の拍子が私の体に刻み込まれていく。もう蝉は鳴いていない。代わりに小鳥のさえずりだけが辺りに響いている。山手周辺よりも濃い緑と土の匂いが充満していた。
一歩前を歩く直之様の仕草、声、お背中と肩、手綱を持つ手……それらをつい馬上から幾度も見つめてしまう。木の枝を栗鼠が素早く移動する様を、直之様が指で示して教えて下さるのに、彼自身を見ていた私の視線はなかなか追いつけない。やっとのことで栗鼠を発見すると、振り向いた彼が嬉しそうに笑いかけて下さる。瞬く間に甘酸っぱい気持ちが広がって、何とか微笑みを返すことしか出来ないでいた。
恋というものはこんなにも、自分の視野を狭めてしまうなんて。この現状を知られたらきっと、呆れられるに違いない。
「あそこですね。休憩しましょう」
十分ほど進んだところに、馬の水飲み場があった。私を降ろした直之様は、馬に水を飲ませ、指定の場所に繋いだ。足元の草花が霧に濡れてしっとりと輝いている。
木製のベンチに二人で座り、目の前の光景に目をやる。誰もいない静寂の中、私たちもそれに従い黙っていた。
初秋の涼やかな風が高原の霧を晴らしてゆく。木漏れ日が無数に地面へ降り注ぎ、ゆらゆらと眩く光っている。教会の鐘の音が風に乗ってここまで届いた。
なんて綺麗なの。なんて厳かで清らかで、美しい……
「直之様」
何かもう、たまらない気持ちで胸がいっぱいになって、気付けば彼の名を呼んでいた。
「私」
ほとんど自然に、私の唇から恋心が零れた。
「私、あなたのことが好きです」